組織などに所属していない主婦であっても
アイデンティティの喪失はあります。
子ともが自分の手から離れてしまったとき
自分は何者だか分からなくなることがあります。
自分の中にしっかりとあった
「〇〇ちゃんのお母さん」という自分は
実はアイデンティティとは違うものだったのですね。
組織などに所属していない主婦であっても
アイデンティティの喪失はあります。
子ともが自分の手から離れてしまったとき
自分は何者だか分からなくなることがあります。
自分の中にしっかりとあった
「〇〇ちゃんのお母さん」という自分は
実はアイデンティティとは違うものだったのですね。
「あなたはどんな人ですか?」
そう聞かれて
家柄、学歴、会社名、役職名、仕事の内容、
住んでいる所、所有している物、財産、
有名人や偉い人の知り合いということ…etc.
を挙げる人は、少なくないかも知れません。
(それらにプライドを持っている人は結構いたりします。)
ただ、その答えは、その人自身のことではありません。
自分のアイデンティティをそれらと同一視していると
それがなくなった場合、そこから離れた場合
自分が何者だか分からなくなります。
「自分はどんなキャラだろう?」
自分の特徴や特技について
普段から考えている人は少ないかも知れません。
その反面
私たちはお互いに、無意識のうちに
相手に対してキャラを決めていたりします。
そして、一旦ついた
「この人はこんな人だ」
とするキャラに対する思い込みは
中々消えなかったりします。
もしも、自分の中に
「〇〇(人名)と言えば〇〇(特徴や特技)」
という
ポジティブな何かを見つけることができたら
とても幸せだと思います。
それを自然な形で表に出していくだけで
周りが勝手に
こちらのキャラを決めてくれます。
この前久しぶりに
30年以上前の、自分の子供時代の写真を見ました。
そのとき、少し驚いたのですが
私は、その写真に写っている自分を見て
まるっきり違う人のように感じてしまいました。
昔は眼鏡をかけていたので
見た目という部分でも変わっているのですが
これまで生きてきて、色々なことを経験し、感じ、考えることによって
まるっきり変わっていったような気がします。
普段そういうことを考えていませんでしたが
過去の写真を見返すことで、実感することができました。
写真を後から見返すというのは
自分の変遷が分かって面白いものですね。
私たちの誰もが、与えられた条件の下で生きています。
そして、その中であっても
私たちには選択の余地が残されています。
住む場所、職業、友達、結婚相手、自分の感情・考え方・態度など
どれをとっても、私たちは(相手がいる場合は、相互にですが)
すべて自分で選択しています。
何かの制約、誰かの圧力、周りの目などを理由に
「選択できない」と言う人もいたりしますが
選択しないことも一つの選択です。
もしも選択することに、とてつもなく勇気がいるのであれば
誰かの助言やサポートを借りると良いと思います。
しかし、そうではあっても
最終的には、自分で判断し、自分で責任を取る必要はありますが。
なお、普段から何かを選択するときに
”自分で選択している” と意識することによって
選択することに対する抵抗は小さくなっていきます。