うざね博士のブログ

緑の仕事を営むかたわら、赤裸々、かつ言いたい放題のうざね博士の日記。ユニークなH・Pも開設。

栗を拾って、古い本をよんで・・・

2010年10月12日 04時40分59秒 | わたしの日常です。

 この休みの日。値上がりした煙草をケチって(我慢して)、こらえきれなくなったら数日おきに近くのコンビニに煙草を買いに行く。今は二日吸ったら一日は休めるようになった。
 わたしは、その時にその近場の林に寄って、この頃は栗拾いをするのがならいになっている。3、4本ほどあって、道路際は山栗だが、ちょっと近くに大きな実の栗を見つけて今はそこである。近在の農家が植えっぱなしにした、「銀寄せ」の品種かな、もったいない。誰もきづかないのか拾う人もいない。世の中は、なんでもそうだが、食べ物はお金を払い店で買うものであるらしい。清潔で安全なものらしい。みすから手をよごさない消費は美徳なのか、嫌な世の中だ。木の実の栄養価を考えると、わたしにはもったいなくてしょうがない。
 そこは、コンビニの大きな駐車場から丸見えで、どうかと思うが、わたしは堂々と拾ってくる。毎回、ズボンの両ポケットがパンパンになるほどだ。持ち帰ると、家内が栗を煮てくれる。それを、わたしだけがおやつ代わりに食べる。台所はオール電化、焼いてもいいのだが調理はすべて電気になっていて、こればかりはしょうがない。
 だが、こういうことは家族の誰もが気味悪がって食べようとしない。
 これからは甘ガキの季節だ。

 最近、北朝鮮がらみの読書に耽っていて、今は 萩原遼の文庫本にかかりきり。わたしらしくもなく再読ということになる。この人は「大宅壮一賞」を受賞した作家だ。ほかにも日本共産党出身の著作者がいて本をものにするが、一般世間的にはそういう稀な視点からのものが面白いようだ。勿論、政治上の信念や胡散臭い教条的なものはない場合であるらしいのだが。そしてそこでは、奇を衒うことも本を売らんかなという下心も必要もない。
 だから、なんだというわけではないのだが、著作者の経歴をみると、何かを為す場合は人生で何かを失ったか不運に遇った場合にいい作品を残すようにおもう。  
     
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少女--吉本隆明の詩④

2010年10月11日 03時38分54秒 | 吉本隆明さんはどう考えるか・・・

 半世紀前の文章になると、さすがにおくりがななども微妙である。ただし、特徴として修飾的なもの、暗喩的なものは極度に少ない。作者の個性に帰せられるのは、たしかに表現的にイメージは捉えられてはいるが、少ない漢語とひらがなのアンバランス性だろうか。文章のもつ抑揚に気を配った読み言葉より、日常の所作の最中にて得た書き言葉の世界に満ちている。
 なに、世はまだ大東亜戦争の敗戦の跡が残り、物不足でありながら精神的には再生するような気運がみちていただろうことはまちがいない。
 ここではまだ、甘い夢の予感がする。

少女

えんじゅの並木路で 背をおさえつける
秋の陽なかで
少女はいつわたしとゆき遇うか
わたしには彼女たちがみえるのに 彼女たちには
きっとわたしがみえない
すべての明るいものは盲目とおなじに
世界をみることができない
なにか昏いものが傍をとおり過ぎるとき
彼女たちは過去の憎悪の記憶かとおもい
裏ぎられた生活かとおもう
けれど それは
わたしだ
生まれおちた優しさでなら出遇えるかもしれぬと
いくらかはためらい
もっとはげしくうち消して
とおり過ぎるわたしだ

ちいさな秤でははかれない
彼女たちのこころと すべてたたかいを
過ぎゆくものの肉体と 抱く手を 零細を
たべて苛酷にならない夢を
彼女たちは世界がみんな希望だとおもっているものを
絶望だということができない

わたしと彼女たちは
ひき剥される なぜなら世界は
少量の幸せを彼女たちにあたえ まるで
求愛の贈物のように それがすべてだそれが
みんなだとうそぶくから そして
わたしはライバルのように
世界を憎しむというから

「荒地詩集1956」(昭和31年)所収
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異数の世界へおりてゆく--吉本隆明の詩③

2010年10月10日 05時12分31秒 | 吉本隆明さんはどう考えるか・・・

 この詩の意味合いは、若者特有の気高くも貧しい精神性に、頭でっかちの生活感を加えて、政治的性的に世の中を無理やり解釈して行こうという内容か。無限な絶対孤独の世界。形而上でしかないその思い込んでいる外延には優しく感傷的な世界が広がっていると、この時点では既に純粋にもいやらしくも先験的に感じているのだ・・・、・・・・・未熟、まあ、いい気な現実感覚、社会認識ということか。

 なんだか、ここで、若い当時の表現方法に還ったみたいで我ながらおかしい。自己欺瞞の分析も関係構築もうっちゃり、寄る年波によって根付いた韜晦に身を任せていく。だがわたしにとって、今でも変わらないのは自分の頭で考えることを第一とし、世渡り上の要領の良さを嫌うことである。
 でも、吉本隆明の話題になると、なんだか、難解な方向に行くなあ。


異数の世界へおりてゆく

異数の世界へおりてゆく かれは名残り
おしげである
のこされた世界の少女と
ささいな生活の秘密をわかちあわなかったこと
なお欲望のひとかけらが
ゆたかなパンの香りや 他人の
へりくだった敬礼
にかわるときの快感をしらなかったことに

けれど
その世界と世界との袂れは
簡単だった くらい魂が焼けただれた
首都の瓦礫のうえで支配者にむかって
いやいやをし
ぼろぼろな戦災少年が
すばやくかれの財布をかすめとって逃げた
そのときかれの世界もかすめとられたのである
無関係にたてられたビルディングと
ビルディングのあいだ
をあみめのようにわたる風も たのしげな
群衆 そのなかのあかるい少女
も かれの
こころを掻き鳴らすことはできない
生きた肉体 ふりそそぐような愛撫
もかれの魂を決定することができない
生きる理由をなくしたとき
生き 死にちかく
死ぬ理由をもとめてえられない
かれのこころは
いちはやく異数の世界へおりていったが
かれの肉体は 十年
派手な群衆のなかを歩いたのである

秘事にかこまれて胸を ながれる
のは なしとげられないかもしれない夢
飢えてうらうちのない情事
消されてゆく愛
かれは紙のうえに書かれるものを恥じてのち
未来へ出で立つ

「吉本隆明詩集」(昭和33年)所収
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その秋のために--吉本隆明の詩②

2010年10月09日 03時36分32秒 | 吉本隆明さんはどう考えるか・・・

 色々あった中でこの詩を選んだのは、多少なりとも、移ろう季節感にしたがってみたかったからだ。
 ここでのキーワードは ‘鳥が散弾のやうにぼくのはうへ落下し いく粒かの不安にかはる ぼくは拒絶された思想となつて この済んだ空をかき撩さう’、そして‘ぼくを気やすい隣人とかんがへてゐる働き人よ ぼくはきみたちに近親憎悪を感じてゐるのだ ぼくは秩序の的であるとおなじにきみたちの敵だ’であり、結末の ‘ぼくは拒絶された思想としてその意味のために生きよう’になる。 
 さあて、どうでしょうか。どうお感じになるでしょうか。わたしなどは、このフレーズのみであの時代を生きてきたようなもの。

 仲間内には‘自己否定’という言葉があふれ、既成の社会の仕組みは無価値であり大学は解体するべきだ・・・、などと言いながら。
 お隣の中国は文化大革命の頃。わたしは日常生活でも、好んでプロレタリアートっぽい菜っ葉服を着用していた。工人服(人民服)を気取っていたのか。ああっ、わたしたちは、一応、全共闘世代と言われている。 
 しかし、わたし個人、以後のジグザグ人生が表わすように本当はそれだけではないのですが。それ故に、その後おかげで、わたしにとっては大事なアイデンティティークライシス(!)の解決のために、分厚い“自分史”を書くはめになる。
 これが、伊藤静雄なり萩原朔太郎の詩だと分かりいいのですが。まあ、どうぞ。

その秋のために

まるい空がきれいに澄んでゐる
鳥が散弾のやうにぼくのはうへ落下し
いく粒かの不安にかはる
ぼくは拒絶された思想となつて
この済んだ空をかき撩さう
同胞はまだ生活のくるしさのためぼくを容れない
そうしてふたつの腕でわりのあはない困窮をうけとめてゐる
もしもぼくがおとづれてゆけば
異邦の禁制の思想のやうにものおぢしてむかへる
まるで猥画をとり出すときのやうにして
ぼくはなぜぼくの思想をひろげてみせねばならないか
ぼくのあいする同胞とそのみじめな忍従の遺伝よ
きみたちはいつぱいの抹茶をぼくに施せ
ぼくはいくらかのせんべいをふところからとり出し
無言のまま聴かうではないか
この不安な秋がぼくたちに響かせるすべての音を
きみたちはからになつた食器のかちあふ音をきく
ぼくはいまも廻転してゐる重たい地球のとどろきをきく
それからぼくたちは訣れよう
ぼくたちのあひだは無事だつたのだ

そうしてぼくはいたるところで拒絶されたとおなじだ
破局のまへのくるしさがどんなにぼくたちを結びつけたとしても
ぼくたちの離散はおほく利害に依存してゐる
不安な秋のすきま風がぼくのこころをとほりぬける
ぼくは腕と足とをうごかして糧をかせぐ
ぼくのこころと肉体の消耗所は
とりもなほさず秩序の生産工場だ
この仕事場からみえるあらゆる風と炭煙のゆくへは
ほとんどぼくを不可解な不安のはうへつれてゆく
ここからはにんげんの地平線がみへない
ビルデイングやショーウヰンドがみえない
おう しかもぼくはなにも夢みはしない

ぼくを気やすい隣人とかんがへてゐる働き人よ
ぼくはきみたちに近親憎悪を感じてゐるのだ
ぼくは秩序の的であるとおなじにきみたちの敵だ
きみたちはぼくの抗争にうすら嗤ひをむくい
疲労したもの腰でドラム罐をころがしてゐる
きみたちの家庭でぼくは馬鹿の標本になり
ピンで留められる
ぼくはきみたちの標本箱のなかで死ぬわけにはいかない
ぼくは同胞のあひだで苦しい孤立をつづける
ぼくのあいする同胞とそのみじめな忍従の遺伝よ
ぼくを温愛でねむらせようとしても無駄だ
きみたちのすべて肯定をもとめても無駄だ
ぼくは拒絶された思想としてその意味のために生きよう
うすくらい秩序の階段を底までくだる
刑罰がをはるところでぼくは睡る
破局の予兆がきつとぼくを起しにくるから

「転位のための十篇」(昭和28年)所収
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ちいさな群への挨拶--吉本隆明の詩①

2010年10月08日 05時14分25秒 | 吉本隆明さんはどう考えるか・・・
朝早く起きると、最近、つとに感じるのは金木犀の花の香りだ。
 緑葉のなかに黄金色のこぼれるような微細な花の片々。甘くて衝撃的で蠱惑的だ、うちのどこにいても感じる。あとどのぐらい咲き続けるのか。市の木として、引っ越ししてきたりすると記念樹として提供される。この木は身近な生活の場では、やはり一番香りが強くてインパクトがあるようだ。

 ところで、唐突だが、吉本隆明の詩について触れてみる。
 今夏に讀賣新聞の読書欄でインタヴューで吉本さんが語っていたのをおぼえているが、吉本隆明といったら、ご自身が認めているように色んな著作の中でやはり詩がいいようだ。わたしも若い時から読んでいるが、内容が会津八一の和歌、与謝蕪村の俳句好きのわたしからするとごつごつした言葉の連鎖に語感はなし、およそ惚れ込むような文ではない。完璧に理科系人間の発想によるもの、これは、「観念詩」というジャンルか。しかし、わたしを今までの年月まで読む気にさせているということは、きっと、何かあるのだろう。(初見から、40年ほど時間は経過しているのだ。)

ちいさな群への挨拶

あたたかい風とあたたかい家とはたいせつだ
冬の背中からぼくをこごえさせるから
冬の真むかうへでてゆくために
ぼくはちいさな微温をたちきる
おわりのない鎖 そのなかのひとつひとつの貌をわすれる
ぼくが街路へほうりだされたために
地球の脳髄は弛緩してしまう
ぼくの苦しみぬいたことを繁殖させないために
冬は女たちを遠ざける
ぼくは何処までゆこうとも
第四級の風てん病院をでられない
ちいさなやさしい群よ
昨日までかなしかった
昨日までうれしかったひとびとよ
冬はふたつの極からぼくたちを緊めあげる
そうしてまだ生れないぼくたちの子供をけっして生れないようにする
こわれやすい神経をもったぼくの仲間よ
フロストの皮膜のしたで睡れ
そのあいだにぼくは立去ろう
ぼくたちの味方は破れ
戦火が乾いた風にのってやってきそうだから
ちいさなやさしい群よ
苛酷なゆめとやさしいゆめが断ちきれるとき
ぼくは何をしたろう
ぼくの脳髄はおもたく ぼくの肩は疲れているから
記憶という記憶はうっちゃらなくてはいけない
みんなのやさしさといっしょに

ぼくはでてゆく
冬の圧力の真むこうへ
ひとりっきりで耐えられないから
たくさんのひとと手をつなぐというのは嘘だから
ひとりっきりで抗争できないから
たくさんのひとと手をつなぐというのは卑怯だから
ぼくはでてゆく
すべての時刻がむこうがわに加担しても
ぼくたちがしはらったものを
ずっと以前のぶんまでとりかえすために
すでにいらなくなったものにそれを思いしらせるために
ちいさなやさしい群よ
みんなは思い出のひとつひとつだ
ぼくはでてゆく
嫌悪のひとつひとつに出遇うために
ぼくはでてゆく
無数の敵のどまん中へ
ぼくは疲れている
がぼくの瞋りは無尽蔵だ

ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる
ぼくの肉体はほとんど苛酷に耐えられる
ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる
もたれあうことをきらった反抗がたおれる
ぼくがたおれたら同胞はぼくの屍体を
湿った忍従の穴へ埋めるにきまっている
ぼくがたおれたら収奪者は勢いをもりかえす

だから ちいさなやさしい群よ
みんなひとつひとつの貌よ
さようなら

「転位のための十篇」(昭和28)所収
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もう一度、紫苑の花

2010年10月07日 03時32分43秒 | ガーデニング・庭づくり
 ひさしぶりに車で外出。陽気と空気は秋色迫るといった塩梅だ。もう一カ月たつと街中の緑地や庭木、里山では紅葉が始まるのだろう。世の中は、紅葉狩りのシーズン到来だ。

 出がけに写真を撮る。もう一度、 紫苑の花をアップする。わたしの場合、接写はデジカメの手ぶれでいつも上手くいかない。たまたま、これだけは上手くいったもの。さあ、わが家で今年、あと咲いていないのは 団子菊、 食用菊の‘もってのほか’に時期がずれている 藤袴だ。
    ≪撮影:10月 6日午前 7時30分≫
     
  
 花壇や庭・植物のご相談に際して、連絡方法は下段のコメント(0)をクリックするか、少々面倒ですがこちらのホームページから入りお問い合わせくださいませ、ませ。
       
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ブッドレア二品種

2010年10月06日 03時44分46秒 | ガーデニング・庭づくり
    ≪撮影:10月 2日午前10時30分≫

 画像は ブッドレア(フサフジウツギ・房藤空木)の二つの園芸品種です。バタフライガーデンを代表する植物です。これはどちらも挿し木苗ですが、白花は3年目かにこのほど遅い時期ですが花芽をつけて、やっとお披露目できるようになりました。黄花の ‘イエローマジック’も同時におこなったのですが挿し穂の処理のまずさで失敗。なお、 ランタナは附けたしですが同じように蝶々を呼び込みます。
ブッドレア: 濃紫花種・ブラックナイト 白花種・ホワイトプロヒュージョン
  
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フイリノシランの花

2010年10月05日 04時43分11秒 | ガーデニング・庭づくり

 前回、10/2付けグログにて紹介したが、これは斑入り熨斗蘭(フイリノシラン)の現物。あらためて現在の育っている状況を載せる。これは、市場では供給が難しくて入手難の植物です。
この植物はグラウンドカバープランツとして、また、フラワーガーデンのポイントとして恰好の多年草、ユリ科のなかで最も株自体の分岐や成長が遅いようようだ。多分、この丸鉢のプランターで10年前後は経過している。ひと株で草丈は高さ40.0cm、幅は20.0cm以上の大型で一年を通じてこの白いイメージを保つ地被植物である。
 まさに、今が満開である。花穂の色は銀白色。

      ≪撮影:10月 2日午前10時30分≫
     
     

★☆入手のご案内☆★
 お譲りに際して、ギボウシと同じようにいずれも、わたし自身が直接栽培してきたものです。あいにくと、中間搾取やオークションの気持ちは、当方では持ち合わせておりませんのでご理解ください。ここでは目安としての価格をつけてありますが、採算は無視し、あくまで若干の材料費と荷造り発送費のみをいただきたい。処分価格、いわば、オープンプライス扱いとなります。なお、草花の種類によっては数量に限りがありますのでご注意ください。
 購入、支払い方法と発送はギボウシに準じておこないます。

【販売草花・標準価格】
・フイリノシラン ¥300.   

(G・C・P-地被)
 ・シルバードラゴン(水晶蘭) ¥400.   ・シルバーレース¥450.
・フイリヤブラン ¥100. ・リボングラス ¥300. ・クサソテツ ¥250.
・風知草 ¥450.    ・黄金風知草 ¥400.  
 ・ノシラン  ¥200.   ・黒竜 ¥300.
 ・深山苧環(ミヤマオダマキ) ¥300.       
***** ** ****** ** *****

 今までの草花の育成や栽培については、このサイト左側の、 カテゴリー [ガーデニング・庭づくり] などをクリックするとご覧になれます。この草花販売はブログのみでおこなっております。なお、草花の出荷時はこのブログでご注文品を画像で紹介、実物を確認していただきます。
 価格面や数量について最新の情報をお確かめください。

 栽培方法などの相談事やご注文に際して、連絡方法は下段のコメント(0)をクリックするか、少々面倒ですがこちらのH・P 有限会社グリーンワークスから入り、お問い合わせフォーム、メール等でお問い合わせください。
       
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サクハナギボウシの花がやっと咲いた。

2010年10月04日 03時38分03秒 | ぎぼうし栽培日記

 サクハナギボウシの花が遅まきながら、やっと咲いた。以前にブログにアップして以来、お天気が長雨や寒さが打ちつづく日があり、待ちくたびれていたものであった。ここでは、咲く直前のつぼみから開花までを追跡したもの。ブロッチor透明線? のはいった可憐な花びら、淡い紫色の小花、どうぞ、写真をご覧ください。
 これで、本年最後、ギボウシの花の見納めです。 サクハナギボウシはわたしの持っている104種のギボウシ群では今年最後の開花品種です。あと残りの年内ギボウシの育成作業は、種採り、大株の株分けになるだろう。

サクハナギボウシ:H. clausa var. normalis
 ツボミギボウシの変種。朝鮮半島原産の三倍体野生種の サクハナギボウシ。不稔性品種の3倍体(2n=90)。 コバギボウシのように、サクハナギボウシは細長い地下茎を出してその先にも新芽が生じる。匍匐根茎による繁殖や生育に安定した特性を持つ品種で、多くの交配に用いられる原種。この種はかなりの濃色花である。
 ----小型細小葉・濃緑色・濃紫色系花・花茎;中・開花期;最遅・結実;×?・・・芽出し;?・成長度;早?・伸長時期;春?)
      ≪撮影:10月 2日午前10時30分≫




     ≪撮影: 9月19日午前10時30分≫


【販売品種・希望価格】
[原種系]   [16種] 
  サクハナギボウシ   ¥800.

 1.オオバギボウシ(食用可) ¥ 600. ⇒¥ 450.
  2.タチギボウシ     ¥ 600.
 3.ハチジョウギボウシ    ¥ 800.
  4.ムラサキカンザシギボウシ    ¥ 630.
  5.イワギボウシ(白王界)    ¥850.
 6.ウラジロヒュウガギボウシ    ¥ 630.
 7.ウナズキギボウシ    ¥ 850.
  8.覆輪白洋    ¥ 630.
 9.津軽小町  ¥ 630.
 10.錦ギボウシ   ¥850.
11.白覆輪ミズギボウシ   ¥ 850.
12.文鳥香   ¥ 630.
13.乙女ギボウシ   ¥400.
 14.kヒュウガギボウシ   ¥850.
 15.セトウチギボウシ  ¥ 850.

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 現在、ギボウシは開花の真っ最中、公開販売中です。どうぞ、7/15付けの下の記事をクリックしてご覧ください。そして、購入をご検討ください。
 夏、初秋向けぎぼうしの販売価格です!!---平成22年下半期

 購入の受付けやコメント、お問い合わせに際しての連絡は下段のコメント(0)をクリックするか、少々面倒ですがこちらのH・P 有限会社グリーンワークスから入り、お問い合わせフォームにてのメール等でお願いいたします。
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ハナトラノオ(花虎の尾)も活ける

2010年10月03日 05時52分18秒 | ガーデニング・庭づくり
今は、ほっとするような季節の移り変わりで尋常な秋が過ぎていく。
 収穫の時とはいえ、平年に比べて今年の果樹や野菜は単体あたりの生長量が小さく、標準より果実、草姿が小ぶりのようで、全体的に生産量も小幅で八百屋さんの店先、市場でも価格は高めのようだ。主食のコメをはじめとして糖度にもバラツキがあり、品質も落ちてなんとなくおいしくないという世評のようだ。したがって、出荷時の等級が下がることにつながっている。今年は、例年のように豊作貧乏ではない。そこで農家の生産者が適正な利益を出しているかどうか、は別だが。

 ありきたりだが、先日、思い立ってハナトラノオを活けてみた。いままでのことを振り返ると、アカンサス、ヘメロカリス、ヒメヒオウギズイセン、シラン、シャガ、オダマキ、ムスカリ、セダムなど、わが家では繁殖しすぎて手に負えなくなった草花がある。残念ながら、このハナトラノオもそのひとつになりつつある。

 ハナトラノオの説明について、お手軽な博引傍証であるが、WEB上で見かけた信頼できそうに思われるある方のウンチクをここに掲げる。
・紫蘇(しそ)科。
・学名 Physostegia virginiana
Physostegia : ハナトラノオ属 virginiana : 北米バージニアの Physostegia(フィソステギア)は、 ギリシャ語の「physa(胞) + stege(ふたをする)」が語源。
・別名 角虎ノ尾(かくとらのお)。 茎が角ばっていて、花が虎の尾に似ていることから名づけられた。さらに、花が美しいので「花虎の尾」の名前も生まれた。
・開花時期は、8月頃~9月下旬頃。
・北アメリカのバージニア州原産。大正時代に渡来。
・ピンクのちょっと変わった花。開花直前のつぶつぶがいいですね。
・マイナスイオンを出すことで知られる、虎の尾」と呼ばれる植物はこれではなく、”サンセベリア”という、固く長い葉っぱ の園芸植物です。

 手前は斑入り熨斗蘭(フイリノシラン)を一緒にして、ガラス瓶に挿してみた。
          
 草姿を見比べるとどこが紫蘇(しそ)科なのか、不思議だが、たしかに細かい花びらを見つめてみると、あの‘オオバ’の紫蘇に花の構造が似ている。この科のほかの特性は、育つ場所をそれ程選ばずあちこちに生える性質の強さか。
       
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のしらん(熨斗蘭)を活ける

2010年10月02日 11時38分36秒 | ガーデニング・庭づくり

 これは、 ノシランと 斑入り熨斗蘭(フイリノシラン)の花穂の色違いを一輪ざしにしたもの。色名が難しいのだが、それぞれ赤紫色と淡いピンクがかった乳白色になるだろうか。
 ちなみに厳密に言えば、やや紛らわしいのだが、巷間や野原でよく見かける ヤブランや オオバリュウノヒゲの仲間ではない。形態も特性も異なる。

 ところで、わたしはどうしてこんなに フイリノシランを持っているのだろうか。多分、このイネ科の多年草は町の園芸店でもあまり出回っていない。要は、圃場でもあまり生産されていないのだろう。すっかり、入手経路は忘れてしまった。育てても、こんなに成長が遅く株分けの時期に迷っていたが、今はその栽培のコツも分かっている。今では増えすぎて困っている・・・。

ノシランの由来について調べると以下の通り。
 ・花は白くひも状で、8月から9月頃にかけて開花。 これが”熨斗(のし)”の形に似ているところから、この名前になった。
という説明に出会ったが、しかし、これではよくわからない。多分、古来、お祝いに使われた熨斗鮑の形状にどこかが似ていると思うが・・・・・。どなたかご教示ください。

 わたしは、かすかにある過ぎた記憶をたどってみる。
 町田市内のカルピス工場で、既存アカマツ林の林床に普通の青葉種 ノシランを使ったことがあり、その後、斑入り種の存在を知識として知り、浦安市内海浜の大型マンションのエントランスの緑地に列植の モミジバスズカケノキの下に配植した。しかしそれは間違ったものを植えてしまったのだ。植栽の現場へ搬入されたものは、なんと リュウノヒゲの中の園芸品種 ‘銀竜’だったのである。イメージとしては草丈や斑がチンケである。百株単位のオーダー、希少品種のせいでキャンセルはしなかった。当時は、内心がっかり、これは実物を確認しなかった設計者としてのミスで、わたしはひとり気まずく黙っていたものである。
 どうやら、それから、植木屋さんルートはとても期待できそうになかったので、花卉園芸屋さんに探してもらってからサンプルとして仕入れたものか。

 花壇や庭・植物のご相談に際して、連絡方法は下段のコメント(0)をクリックするか、少々面倒ですがこちらのホームページから入りお問い合わせくださいませ、ませ。
       
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