672年に起こった壬申の乱は大海人皇子と大友皇子が戦った日本最大の内乱である。実はこの内乱をきっかけに当時「倭」と呼ばれていた我が国が「日本国」と呼ばれるようになり、「天皇」という称号も始まることとなる。その約50年後に編纂された日本書紀には、大海人皇子は権力に野心がないことを示すために出家し吉野に隠棲していた。ところが都に居た大友皇子は大海人皇子を殺そうと兵を集めた。そのため止む無く大海人皇子は挙兵すると僅か一か月で勝利を収めた。正当防衛を主張する大海人皇子の記載は、近年創作ではないかと指摘されている。壬申の乱勃発のほんとうの理由は何なのか。
667年、都を大津宮に移した。決めたのは中大兄皇子で、片腕である大海人皇子は兄を支えてきたから王位継承の最有力候補であった。ところが、天武天皇は太政大臣に大友皇子22歳を任命するという大抜擢をし、政治の実権は大友皇子が握ることとなる。大海人皇子権力に野心がないことを示すために吉野宮瀧に吉野々宮を置いて隠棲していたが、672年5月 大友皇子が吉野攻撃の準備に取り掛かっているとの情報がはいってきた。吉野に出家していた大海人皇子を大友皇子は殺そうと兵をあつめたというのである。ほんとうか? 大海人皇子はこれを防ごうと東国の兵を集めて戦ったのである。やむを得ず挙兵した大海人皇子軍は6/24京極へ向かうが、大海人皇子ら総勢は30人、ところが10日後には約3万の軍勢となるのである。そして、近江の東に位置する不破は要所であり、これを塞ぐことにより大友皇子の使者を停止し、鈴鹿の山道も塞ぎことにより、大友皇子は軍勢を集められなかったという。かくして壬申の乱は大海人皇子側の一方的勝利、7/22には大津宮は陥落すると、翌日大友皇子は自害したのである。
しかしこの日本書紀にはいくつもの不審な記載がある。4日で3万の軍勢を揃えるのは不可能であり、大海人皇子が即位するための脚本であり、用意周到な準備の結果が壬申の乱と思えるのである。そもそも、日本書紀の記述に基づいて、天智天皇が大友皇子に皇位を継承するには無理がある。大友皇子の母は 宅子娘という采女であり、絶対に王位につく権利はなく、大海人皇子が継承するのが筋なのである。つまり、吉野から不破までに3万人が集まったのも、示し合わせた集合であったと考えられる。
次に、当時の国際情報を考えると、壬申の乱の直前、倭国は未曽有の外交危機であったと言える。遡ること9年、663年朝鮮半島で行われた白村江の戦いで、中大兄皇子は新羅に滅ぼされた百済の復興を助けるために、朝鮮半島白村江に大軍を派遣したが、新羅の大艦隊の前に、1万の遠征軍は僅か二日で大敗北を喫し、唐・新羅連合軍の脅威に晒されることとなった。そこで、中大兄皇子は各地に数多くの防御施設建設する。さらに667年には、都は飛鳥から大津宮へ遷都して外敵からの攻撃を防ごうとした。加えて、670年日本最古の戸籍・庚午年籍を作成し土地や民を国家が把握するようにした。これまで兵収集に時間がかかったことを教訓にこのシステムを造ったのである。こういった国内改革を一気に推し進めようとしていたのである。
一方668年には唐・新羅連合軍は高句麗を攻め滅ぼし、次の標的を日本に定めたのである。ところが、新羅は朝鮮半島統一に向けて唐に反旗を翻した。これによって倭国侵攻の危機は先延ばしとなった。実はこのとき新羅は日本へ使者を送っており、倭との友好を求めて、唐からの危機から逃れようという目論見があったようである。以降毎年新羅と倭国は使者を送って友好関係を深めていくのである。また倭国は唐に対して遣唐使を送るなどして、両面外交を展開していた。しかし671年唐から2000人規模の使者(白村江での捕虜か?)がやってきて、唐の不安定情勢を回復するために倭に武器武具を要求するようになった。つまり唐・新羅どちらの味方になるのかを迫られたともいえる。まさにこの時天智天皇は大友皇子を太政大臣に据えるとともに、百済の貴族である鬼室集斯(百済の難民)を高官に据えたのである。しかし実は唐は日本に攻めてくることはないと分かったところで、今までの政策に協力してきた豪族たちの不満は高まっていた。
この時天智天皇が病に倒れた。大海人皇子は外交問題・唐からの援助要請と豪族たちの不満解消の岐路にたたされた。このとき大海人皇子は王位継承を辞退している。かくして大友皇子は唐からの軍事物資要請を受け入れた。このタイミングをきっかけに大海人皇子は挙兵をして壬申の乱を起こしたと考えれば、すべては大海人皇子の目論見であったのかもしれない。大海人皇子が天武天皇として即位すると、唐、新羅のどちらに就くこともなく、遣唐使の派遣は取りやめている。その後朝鮮半島での唐と新羅の戦いでは新羅が勝利して、倭国は唐からの報復を受けることもなかった。難局を乗り越えると新しい都・新城の造営を開始した。この実態は藤原京の下層部から工事址が見つかった。これが後に碁盤の目の都市計画に引き継がれていくこととなる。681年、天智は律令と国史の編纂を命じる。かくして新たな改革に取り組んだ天武は686年に崩御するが、あとは妃の持統天皇などに引き継がれていくこととなる。そして702年には30年ぶりに遣唐使を派遣し、日本国を告げるのである。
第38代天智天皇陵 671没 第40代・41代天武・持統天皇陵 703没
阿部倉梯麻呂
仏教賛成派 ┏ 吉備姫王 ┗ 小足媛624-
蘇我稲目-579 ┃ ┣ 軽大郎女 ┣ 有間皇子639- ┓
┣ 蘇我堅塩媛?-? ┃ ┣ 36孝徳天皇(軽皇子)594-654 ┓┛
┃ ┃ ┏━━━━━━━━━┛ ┃ 飛鳥宮 ┏漢皇子 ┃
┃ ┣ 桜井皇子 ┣ 35皇極天皇(宝皇女)594-661 ┃
┃ ┣ 炊屋姫(33推古天皇) -628 ┃ ┃板葺宮 (37斉明) ┃
┃ ┃ ┃ 大俣女王┃ ┣ 間人ハシヒト皇女628-665 ┓
┃ ┃ ┣ 田眼皇女 ┣ 茅渟王 ┣ 40天武(大海人皇子)630-686┃
┃ ┃ ┣ 竹田皇子 ┃ ┃ ┣ 十市皇女648-678 ┃┓
┃ ┃ ┣ 尾張皇子 ┃ ┃ 額田王631-689 ┃┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┣ 38天智(中大兄皇子)626-671┛┃
┃ ┃ ┃息長真手王 ┃ ┃乳母は蘇我,葛城で育つ ┃┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┗広姫 ┃ ┃ ┣ 大友皇子648- ┃┃ ┛
┃ ┃ ┃ ┣押坂彦人皇子 ┃ 宅子娘┣葛野王669-705┃┃
┃ ┃ ┃┏━━┛ ┃ ┃ 十市皇女648-678 ┃┃
┃ ┃ ┃┃小熊子女?┣ 34舒明天皇(田村皇子)593-641 ┃┃
┃ ┃ ┃┃┃ ┃ ┃ ┣ 古人大兄皇子 622- ┃┃
┃ ┃ ┃┃┣ 糠手姫皇女-664 ┃法提郎女 ┗ 倭姫王┃
┃ ┣ 31用明天皇┃┃┃ ━━┓ ┣ 蚊屋皇子 ┃
┃ ┃宣化 ┃┃┃ ┃ 蚊屋采女 ┃
┃ ┃ ┗┓ ┃┃┃ ┣ 来目皇子 ┃
┃ ┃石姫皇后 ┃┃┃ ┣ 殖栗皇子 ┏━━━━━━━━━━━━━┛
┃ ┃ ┣ 30敏達天皇538-585┣ 茨田皇子 ┣大田皇女644-667 石川郎女
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣大伯皇女661-701┣-
┃29欽明天皇509-571 ┣ 厩戸皇子 ┃ ┣大津皇子 662-686
┃ ┣穴穂部間人皇女-621 ━┛ ┃ ┃ ┣- 長娥子(不比等娘)
┃ ┣穴穂部皇子 ┃ ┃山辺皇女663-686(天智娘) ┃
┃ ┣宅部皇子 ┃ ┃ 御名部皇女(天智娘) ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┣ 長屋王
┃ ┃ ┃ ┃尼子娘(胸形君徳善娘)┣鈴鹿王
┃ ┣泊瀬部皇子(32代崇峻天皇) ┃ ┃ ┣ 高市皇子654-696 ┓
┣ 小姉君 ┃天武天皇631-686 ┃
┣ 石寸名郎女 ┃┃┃┃┗ 刑部皇子665-705(忍壁)┃
┣ 境部臣摩理勢(蝦夷が滅す) ┃┃┃┣但馬皇女-708 ┛
┃ ┗ 蘇我倉麻呂 孝徳┃┃┃氷上娘-682(鎌足娘)
┃ ┃ ┃ ┃┃┣長皇子-715
┃ ┃ ┃ ┃┃┃┣智努王693-770(文屋真人)
┃ ┃ ┃ ┃┃┃┃┗三諸大原-806
┃ ┣ 蘇我倉山田石川麻呂━━━┓ ┃ ┃┃┃┗大市王704-780
┃ ┣ 蘇我日向 ┣乳姫┃┃┣弓削皇子-699
┃ ┣ 蘇我赤兄623- ┃ ┃┃大江皇女-699(天智皇女 川島妹)
┃ ┃ ┣常陸娘 ┃ ┃┃ 長屋王
┃ ┃ ┃ ┣山辺皇女 ┃ ┃┃ ┣膳夫王-729
┃ ┃ ┃天智天皇 ┃ ┃┣ 草壁皇子662-689 ┣葛木王
┃ ┃ ┗大蕤娘669-724 ┃ ┃┃ ┣ 吉備皇女683-707
┃ ┃ ┣紀皇女 ┃ ┃┃ ┣ 軽皇子683-707(42文武)
┃ ┃ ┣田形皇女 ┃ ┃┃ ┣ 氷高皇女 (44元正)
┃ ┃ ┣穂積親王 ┃ ┃┃ 阿閉皇女661-721(43元明)
┃ ┃ ┃ ┃┗但馬皇女 ┃ ┃┃ 聖武天皇
┃ ┃ 天武天皇┣大嬢 二嬢 ┃ ┣41持統天皇645-703 ┗井上内親王
┃ ┗ 蘇我連子 大伴坂上郎女 ┃ ┣健皇子649-658
┗ 蘇我馬子(嶋大臣)551-626 ┣蘇我遠智娘-649
┣ 蘇我蝦夷587-645 ┗姪娘
┃ ┣ 蘇我入鹿605?-645豊浦宮
┃ ┗ 蘇我畝傍
┣ 河上娘(崇峻天皇妃)
┣ 法提郎女
┣ 刀自古朗女-623
┗━━━━━┓
阿佐姫(弓削氏) ┃
┣物部守屋-587 ┃
┣布都姫 ┃
┃ ┣物部鎌足姫大刀自
┣石上贄古大連(物部守屋の同母弟)
物部尾興?-?(安閑・欽明朝の大連で中臣鎌足と廃仏主張)
村上水軍率いる村上武吉の前に立ちはだかったのは豊臣秀吉、海の関所停止命令をだしてきた。関船徴収は水軍が数百年前から勝ち取ってきた既得権であり、1586年秀吉は完全否定したのである。海賊王・村上武吉はどのように決断したのであろうか。海賊の歴史は謎であるが、中央政府にとっては悩みの種であったことは間違いない。海の民の掟で生きていた村上水軍が歴史に現れたのは室町時代である。村上水軍が支配していたのは西は上関、東は塩鮑諸島までの間で、因島村上氏、来島村上氏、能島村上氏で成り立っていた。関銭を払うなどして村上水軍から過所旗を与えられると自由に瀬戸内を通行できた。彼らが瀬戸内の王者になれたのはなぜか。村上武吉率いる能島水軍の本拠地は能島で周囲わずかに500mで、水流の速さは約10ノット。決して穏やかではなく、島々が密集する地域で、卓越した水船技術を手に入れた。所有船数は不明である 見近島から発見された20%に及ぶ中国から輸入した陶磁器の破片などから、その交易量の多さを物語っている。
村上水軍博物館にある安宅船・関船・小早船
1555年武吉22歳のとき、毛利元就と陶晴賢による厳島の戦いでは毛利元就の息子・小早川隆景が音戸の瀬戸を通過して広島湾に入ってくる能島村上武吉を封じ込めようとした形跡がある。毛利元就は村上武吉を味方に引き入れようと調略にかかった。この情報は中央の13代将軍足利義輝の知るところとなる。出雲の尼子と安芸の毛利との争いの仲介にも村上武吉に登場願おうとしたのである。
大島と伯方島の間にある能島 能島城の遺構が(400もの岩礁ピット)残されている
ところで、村上水軍、因島、来嶋、能島は同族か?それぞれの系譜が協力しながら航行安全を守り、通行料をとるビジネスを産むために3氏が協力体制を整えただろう。戦国時代は水軍というという言葉はないから当時は海賊というのが正しいだろう。権力者に従わなかったから賊なのである。戦国時代の終盤になると危機が訪れる。中国地方は毛利元就から孫の代の輝元にかわり、近畿東海地方を抑えたのは織田信長である。関所を廃止し、寺社の役をなくすという楽市楽座を実施し、1576年には大坂を拠点とした本願寺を責め立てていた。毛利輝元は本願寺を救うべく援助物資の運搬を村上水軍に依頼した。そこで織田水軍とぶつかったのが木津川の戦いである。ほうろく火矢により織田軍は惨敗したことで村上水軍の名は天下に轟いた。来るべき毛利との戦いに武吉の力を必要と考えた織田は武吉に誘いをかけている。中国攻めで織田の意を受けて動いたのが羽柴秀吉であり、本格的な村上水軍調略にかかっている。秀吉はさっそく武吉の息子・元吉に書状を送った。実は毛利につこうとする武吉と織田につこうとする元吉の間で意見がぶつかっていた。それを知った秀吉は調略に躍り出たのである。さらに秀吉は来嶋村上家の村上通総の調略に成功している。かくして村上水軍の結束が、織田秀吉という強大な圧力の元、崩れ始めた。実は秀吉は来嶋通総の弟を姫路に呼び、繁栄した町を見せている。
このとき本能寺の変が起こり、秀吉の毛利攻めは中断し、上述の危機は一瞬去ったが後に重大な選択を秀吉から迫られる。秀吉は本能寺の変の3年後には関白に就任し天下人となった。日本を一つにまとめていく政策を始めた。太閤検地は秀吉自身が石高を正確に把握できるようにしたもの。つまり陸地の支配である。そしてその支配は海にも向けられた。海陸役所停止事という令をだした。つまり関銭の中止を命令してきた。村上武吉は秀吉の命に逆らい関銭行為はやめなかったのである。秀吉はついに動き、武吉を瀬戸内追放にたのである。そして福岡県糸島半島に移された。その4か月後に海賊禁止令がだされている。
1598年秀吉が死去し、2年後関ケ原の戦いが起こると、武吉はこの機を待っていたかのように瀬戸内海の興居島に移り、瀬戸内を取り戻そうとした。そして旧知の仲間に説得を試みた。しかしその翌日突如武吉は夜襲にあった。書状相手の裏切りによるものであった。瀬戸内海にある山口県周防大島に移り住んだ武吉は夢破れて、海賊ではなく毛利家の家臣として生き、1604年ここで眠ることにより海賊の歴史に幕をおろした。
金蓮寺(村上家の菩提寺)にある因島村上水軍の墓
北畠親房 乃美宗勝の妹
┗北畠師清(信濃村上氏) ┣景隆
┣義顕:因島 ┏村上吉充?-? 青影城主
┃ ┗村上亮康?-1608
┣顕忠:能島 村上武吉1533-1604
┃ ┣元吉1553-1600
┃ ┣景
┃ ┣景親1558-1610
┃ ┣琴姫(養子:実父は村上通康)
┃ ┃┣秀元(毛利輝元養子 長府藩祖)
┃ (来島城主)┃毛利元清1551-1597(穂井田家)
┃ 村上通康┃
┃ 1519-1567┣娘
┗顕長:来島 ┣得居通幸1557-1594
┣来島通総1561-1597当主
┃・・村上吉継? 当主補佐 甘崎城本拠
河野通直の娘
義経一向が淀のふちに到着したときには叔父行家は80騎を伴い待っていた。そこには金売吉次の姿もあり、一の谷、屋島、壇ノ浦での勇姿をなくした義経の姿を見て、いずれ奮起した際には奥州藤原家の助けを借りるべく、いつでもはせ参じる旨の言葉を残す。また、平大納言の娘・夕花とはここで別れた。能登に配流となった父・時忠のもとへ桜間の介能遠を伴わせて下らせた。もとより夕花へは充分に説得はしていたのである。こうして静と百合野と一部の小女房だけを伴い、250騎は西へ向けて大河の岸を下っていった。義経の250騎が江口の里(現在の吹田あたりの淀川が大きく湾曲したところ)に着いたのは日も暮れ宵の頃である。江口近辺では三河守範頼の配下数百騎が駐屯し、乱酔、遊女泣かせなどやりたい放題であった。義経以下が、ここを通るときには明かりは消え、静まっている。里人くまなく怯えているのである。弁慶が事態のありのままを告げ、夜の炊事にとりかかると次第に里人も安堵したのか、ひとりの里長が妙の御の家を宿にと、江口一番の妓家の女主のところへ案内してくれた。そして、静と百合野は妙の御の家で世話になるのである。そして二人はあわただしく都落ちをしてからというもの、ろくに話もできずにいただけに、心ゆくまで語り合い、慰めあうことができたのである。百合野にはもはや帰る家などはない。判官殿と生涯添い遂げよ と父に固く言われていただけに 去る日は生涯が終わる日と健気にも決めていた。そのようなことを語りながら仲のよい姉妹のように慰めあう。そして判官殿に比べれば・・・・と誓っていたのである。
すこしして百合野は自分の部屋に戻ると、静は一人眠れずにいた。そこへはいってきたのが、妙の御である。妙の御は静の白拍子の舞を知っていた。御酒を勧めにきたのである。とはいっても、妙の御も静に出会い、昔を懐かしみ話をせずにはいられずに来たわけである。妙の御の幼名は瑠璃子といい、父は伊賀守藤原源為義といい、遠い任地で果てたため、瑠璃子は身寄りの中御門家で育てられた。そのときに祗園女御に可愛がられた。祗園女御といえば、もとは祗園の遊女で白川上皇に愛され、清盛の父・忠盛に 嫁いだ女性である。その後全てを捨てて、ここ江口で色禅尼ともいわれ妓家の主となっていた。そして瑠璃子はまたたく、可愛がられ江口の遊君となった。淀川が湾曲した神崎川との分岐点一帯は江口と呼ばれ、平安時代から水上交通の要所であったこの地が急速に発展し始めるのは、785年に淀川と三国川との間に水路が結ばれてからである。この工事で江口の地は、平安京から山陽・西海・南海の三道を必ず通る所の宿場町として繁栄し、とくに平安中期以降は、紀州熊野・高野山、四天王寺・住吉社への参詣が盛んになり、往来する貴族たち相手の遊女の里としても知られるようになった。遊女たちは群をなし小船を操って今様を歌いながら旅船に近づき、旅人の一夜の枕を共にしたと言う。彼女たちは多才で、歌舞・音曲にすぐれ、中には和歌をよくする者もいた。名妓として名を残したのは、小観音・中君・子馬・白女・主殿、その名でもとくに有名なのは、西行との歌問答で「新古今集」に収録されている遊女妙である。1167年旅の途中、雨宿りの宿を断わられた西行が、「世の中を厭う間でこそ難からめ 仮の宿を惜しむ君かな」と詠んだに対して「世の中を厭う人としきけば仮の屋に 心とむなと思ふばかりぞ」と返した女性です。ここで登場する妙は平資盛の娘で、没落後に遊女となったが、発心して作った庵が江口の君堂(寂光寺)として現在も残っています。
昔、清盛が熊野詣の際に、ここ江口で泊まったことがあり、そのときの清盛に対する乙女心が芽生えたという。いまこうして昔を懐かしみ、静を長々とおしゃべりをしていたのである。まわりは、俄かに騒々しくなっている。義経を追う数多の郎党がいよいよ迫っているらしい。早々に宿をでると、一向は大物の浦(現在の尼崎)へ急いだ。ところが義経の首を討ち取らんとする輩に阻まれ、大物の浦へ着いたときには天候も嵐のごとくくずれていた。そして、ここから船出したものの嵐に見舞われ、義経一向はことごとく難破し、西国への旅が阻まれたのは有名な話である。泉州住吉神社の宮司・津守国平が浜辺で、女房が死人のように倒れているのを見つけたのは、嵐も静まった翌朝である。国平は義経主従の遭難であることはすぐにわかった。そして摂津源氏の追っ手が、ここへくるであろうことも。かくして女房は国平に匿われた。そのころ百合野は息も絶え絶えで、伊勢三郎に助けられ亀井六郎の背につかまっていた。伊勢三郎が頼ったのは、御陵守の長の邸である。義経の旧御を忘れずにいた長は、伊勢、亀井、吾野、渡辺番と河越殿の百合野を匿い、手厚い養生を施した。しかし伊勢、亀井はいまだに行方のわからない判官、静を求めてあてはないが、風聞集まる洛へと向かうのである。そして百合野は東嵯峨の阿部麻鳥のもとへと、渡辺番、吾野余次郎により送られることになった。義経はというと、泉州の一角に上陸し、四天王寺界隈で身を潜めていた。伊豆有綱、弁慶、堀弥太郎、静の5人である。ここ四天王寺では追捕にさらされ、身を寄せる民家もない。そこで弁慶は、吉野山へ身を隠すのが一番かと・・・。そこは鎌倉の権力にも屈しない輩もおり、安全であると考えたのである。