satomi
ryo
akira
noriko
momo
erimero
saki
nami
erimero
ryo
saki
来年もよろしくお願いします
satomi
ryo
akira
noriko
momo
erimero
saki
nami
erimero
ryo
saki
来年もよろしくお願いします
ryo
saki
megumi
ryo
akira
erimero
saki
manami
megumi
nana
yuma
nami
sena
manami
Yoko
asaka
manami
syouko
anna
mio
saki
sayaka
manami
saki
manami
2015年、40回ほど撮影会に参加、延べ60人のモデルさんを撮影 今年も整理してみました
Ayaka
Miku
Hazuki
Mayuri
Mio
Nana
Miyu
Anna
Mio
kei
Kurumi
Miyu
Misaki
Misaki
Mero
Miho
Maho
Rina
Mio
西宮から来ていただきましたSakiちゃん。せっかくなので皇后陵参道にて撮影を決行。この皇后陵に眠る播磨稲日太郎姫に関する日本書紀の記載とともに数ショットを。
息長宿禰王
┗ 神功皇后
播磨稲日太郎姫 ?-122 両道入姫命┣ 麛坂皇子
11代垂仁天皇-69-70┣ 櫛角別王(くしつのわけのみこ) ┣ □ ┣ 15代応神天皇
┣ □ ┣ 大碓皇子(おおうすのみこ ) ┣ 14代仲哀天皇 ┣ 16代仁徳天皇
┣ □ ┣ 小碓尊 (おうすのみこと)日本武尊 仲姫命┣履中天皇
┣ 12代景行天皇(大足彦忍代別天皇) -13-130 品陀真若王┛ ┣反正天皇
┣ 倭姫命 ┣ 稚足彦尊(わかたらしひこのみこと13代成務天皇) ┣允恭天皇
┣ 日葉酢媛命 ┣ 神櫛皇子(かむくしのみこ)讃岐国造の祖 磐之媛命
丹波道主王 ┣ 稲背入彦皇子(いなせいりびこのみこ)針間国造の祖
┣ 五百野皇女(いおののひめみこ、久須姫命)伊勢斎宮
┣ 豊国別皇子(とよくにわけのみこ)日向国造の祖
┣ □
10代崇神天皇 ┣ □
┣ 八坂入彦命 ┣ □
御間城姫 ┗ 八坂入媛命(やさかいりびめのみこと)
大足彦忍代別天皇(景行天皇)は、活目入彦五十狭茅天皇(垂仁天皇)の第三子なり。母の皇后をば日葉洲媛命と曰す。丹波道主王の女なり。活目入彦五十狭茅天皇の三十七年に、立ちて皇太子と為りたまふ。 時に年二十一。九十九年の春二月に、活目入彦五十狭茅天皇崩りましぬ。元年の秋七月の己巳の朔己卯に、太子、即天皇位す。因りて元を改む。是年、太歳辛未。二年の春三月の丙寅の朔戊辰に、播磨稲日太郎姫、一に云はく、稲日稚郎姫といふ、を立てて皇后とす。后、二の男を生れます。第一をば大碓皇子と曰す。第二をば小碓尊と曰す。其の大碓皇子・小碓尊は、一日に同じ胞にして双に生れませり。天皇異びたまひて、則ち碓に誥びたまひき。故因りて、其の二の王を号けて、大碓・小碓と曰ふ。是の小碓尊は、亦の名は日本童男。亦は日本武尊と曰す。幼くして雄略しき気有します。壮に及りて容貌魁偉し。身長一丈、力能く鼎を扛げたまふ。
要するに、323年に景行天皇即位し2年の春3月3日に 播磨稲日太郎姫(吉備出身)を皇后とすると、双子が生まれた。そのひとりが日本武尊というのである。
ところで、この播磨稲日太郎姫という御方の「褶墓」と名付けられた墓が加古川の北西、日岡山の山頂に大きな前方後円墳として残っています。「播磨国風土記」 によれば、播磨の国にとても美しい姫がいると聞いた景行天皇が、三種の神器を身につけて妻招ぎに訪れたというのです。驚いた印南別嬢は 「なびつましま」(加古川河口の三角州) に隠れてしまう。到着した天皇は、彼女がいないので捜していると、海に向かって吠えている白い犬を見つけ、「これは誰が飼っている犬か?」 と尋ねると 「別嬢の犬です」と応える者がいて、居場所がわかるのである。天皇は「此の嶋の隠愛妻」 (隠れていた愛しい妻よ) と呼びかけ、ふたりは島から出て印南の六継村 (高砂米田のあたりか) で結婚し、さらに高宮で居を構える。やがてふたりの間には、大唯命と小唯命(日本武尊)が産まれるが、しばらくして印南別嬢は亡くなってしまう。そこで墓を日岡に造ってやろうと別嬢の遺骸を印南川 (加古川) で渡している時、突然大きな竜巻が川下から渦を巻いてきて、遺骸が川の中に沈んでしまったのだ。いくら捜しても印南別嬢は見つからず、その後、厘と褶(ひれ)だけが発見され、その2つをおさめて墓としたため 「褶墓」と名付けられたという。