1863年8月18日の政変は朝彦親王、近衛忠房らと薩摩藩・会津藩らの公武合体派によって綿密に計画されたものである。18日公武合体派の兵力は密かに御所九門を固め、その中で朝議が開かれ、攘夷親征延期が決定された。長州藩と尊攘過激派は京都から追放され、三条実美ら7人の尊攘派公家と長州藩兵が長州へと敗走したのが七卿落ちである。こうして鷹司輔煕は関白を罷免され徳川家斉の甥・二条斉敬が関白の座についた。この頃、尊王攘夷過激派の土佐・吉村寅太郎や備前の藤本鉄石らは攘夷・倒幕の天誅組 (孝明天皇に代わって攘夷を目指して公武合体派を殺戮するの意) を結成し、公家の中山忠光を擁して18日の政変前日に大和五条の幕府代官所を襲撃した。ところが京都の政変で情勢が一変したため諸藩兵に敗走した。このとき十津川郷士も離反し、中山忠光は長州藩に逃れ、吉村寅太郎は戦死した。 一方、政変後に京都を追われた平野国臣ら尊攘過激派は七卿落ちの公家・沢宣嘉を擁して長州藩奇兵隊からの脱藩士・河上弥市らも加わって天誅組に連携する攘夷・倒幕挙兵を計画した。しかし大和での吉村寅太郎らの戦死に影響されて鎮圧の諸藩に包囲され沢以下多くの幹部は逃げ、河上らも彼らが納税半減をえさに集めた農兵により殺され、尊王攘夷運動は終焉を迎えた。
やがて朝廷から一橋慶喜、松平容保、松平慶永、山内豊信、伊達宗城、島津久光の6名に政治参与が命じられ、1864年参内が始まった。 武家による政治参与は前例のない変革であり、二条城で参与会議が開かれ、雄藩諸侯の国政参加が実現したのである。島津久光はこれで開国論の立場を確立しようとし、洋式軍制を導入するための莫大な資金捻出のために天保通宝を250万両私鋳している。その後すぐに新撰組による池田屋襲撃事件が起きた。長州藩では俗論派が勢力を強め、藩体制の確立を進めていた周布政之助や高杉晋作は京都への侵入は控えていたが、池田屋事件に反発した長州藩尊攘過激派は上京し、7月には御所西側の禁門周辺で薩摩・会津藩と激しく戦った。結果、京都洛中二万八千軒が消失し長州藩は撃退された。蛤御門の変である。
二条殿はもともと藤原氏北家の九条道家の二男・二条良実が、二条富小路の邸宅を二条殿と称したのが由来で、後に押小路烏丸殿を指すようになる。二条家は五摂家のなかでは近衛家・一条家に次ぐ、九条家・鷹司家と同格扱いのお家柄であった。維新後、五摂家のなかでは最も親幕府派とされ、史上最後の関白(二条斉敬公)を出した家でもある。鎌倉時代末期の元弘の変において後醍醐天皇の関白・二条道平が倒幕関与の疑いを受け、二条家は一時断絶の危機に陥ったが後醍醐天皇の復帰で危機を回避する。また、南北朝時代には、北朝方二条良基のもとで勢力を取り戻す。 以来、即位式における「即位灌頂の儀」を掌る役目は二条家が独占していた。
徳川慶喜を支持した関白・二条斉敬公墓(京都嵯峨野・二尊院境内にて)