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幕末87 1863年 8月18日の政変

2013年06月06日 | 幕末

 1863年8月18日の政変は朝彦親王、近衛忠房らと薩摩藩・会津藩らの公武合体派によって綿密に計画されたものである。18日公武合体派の兵力は密かに御所九門を固め、その中で朝議が開かれ、攘夷親征延期が決定された。長州藩と尊攘過激派は京都から追放され、三条実美ら7人の尊攘派公家と長州藩兵が長州へと敗走したのが七卿落ちである。こうして鷹司輔煕は関白を罷免され徳川家斉の甥・二条斉敬が関白の座についた。この頃、尊王攘夷過激派の土佐・吉村寅太郎や備前の藤本鉄石らは攘夷・倒幕の天誅組 (孝明天皇に代わって攘夷を目指して公武合体派を殺戮するの意) を結成し、公家の中山忠光を擁して18日の政変前日に大和五条の幕府代官所を襲撃した。ところが京都の政変で情勢が一変したため諸藩兵に敗走した。このとき十津川郷士も離反し、中山忠光は長州藩に逃れ、吉村寅太郎は戦死した。 一方、政変後に京都を追われた平野国臣ら尊攘過激派は七卿落ちの公家・沢宣嘉を擁して長州藩奇兵隊からの脱藩士・河上弥市らも加わって天誅組に連携する攘夷・倒幕挙兵を計画した。しかし大和での吉村寅太郎らの戦死に影響されて鎮圧の諸藩に包囲され沢以下多くの幹部は逃げ、河上らも彼らが納税半減をえさに集めた農兵により殺され、尊王攘夷運動は終焉を迎えた。

 やがて朝廷から一橋慶喜、松平容保、松平慶永、山内豊信、伊達宗城、島津久光の6名に政治参与が命じられ、1864年参内が始まった。 武家による政治参与は前例のない変革であり、二条城で参与会議が開かれ、雄藩諸侯の国政参加が実現したのである。島津久光はこれで開国論の立場を確立しようとし、洋式軍制を導入するための莫大な資金捻出のために天保通宝を250万両私鋳している。その後すぐに新撰組による池田屋襲撃事件が起きた。長州藩では俗論派が勢力を強め、藩体制の確立を進めていた周布政之助や高杉晋作は京都への侵入は控えていたが、池田屋事件に反発した長州藩尊攘過激派は上京し、7月には御所西側の禁門周辺で薩摩・会津藩と激しく戦った。結果、京都洛中二万八千軒が消失し長州藩は撃退された。蛤御門の変である。

 二条殿はもともと藤原氏北家の九条道家の二男・二条良実が、二条富小路の邸宅を二条殿と称したのが由来で、後に押小路烏丸殿を指すようになる。二条家は五摂家のなかでは近衛家・一条家に次ぐ、九条家・鷹司家と同格扱いのお家柄であった。維新後、五摂家のなかでは最も親幕府派とされ、史上最後の関白(二条斉敬公)を出した家でもある。鎌倉時代末期の元弘の変において後醍醐天皇の関白・二条道平が倒幕関与の疑いを受け、二条家は一時断絶の危機に陥ったが後醍醐天皇の復帰で危機を回避する。また、南北朝時代には、北朝方二条良基のもとで勢力を取り戻す。 以来、即位式における「即位灌頂の儀」を掌る役目は二条家が独占していた。

徳川慶喜を支持した関白・二条斉敬公墓(京都嵯峨野・二尊院境内にて)

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幕末86 1863年8月 攘夷運動は頂点 

2013年06月05日 | 幕末

 寺田屋事件の翌日に吉村寅太郎及び宮地宜蔵は捕えられ薩摩藩邸に誘致され土佐藩に引渡され禁獄されるが、政情が尊攘派に有利になり、安政の大獄、寺田屋事件の関係者が赦免されるにともない、吉村寅太郎も釈放された。釈放後は再び京都へ上り孝明天皇大和行幸の先駆けとなるべく中山忠光(中山忠能の七男で明治天皇の叔父にあたる。明治天皇の母・中山慶子は異母姉にあたる) を擁立して天誅組を組織する。天誅組の過激な行動を危惧した三条実美は自重を促そうと平野国臣を遣わす一方で、攘夷運動は徐々に高まっていき、1863年8月13日には孝明天皇の大和行幸の詔書が出されて攘夷運動は頂点に達したのであるが、天誅組挙兵直後の8月18日の政変により、三条ら尊攘派公卿は失脚、長州藩も京都からの撤退を余儀なくされた。もともと吉村寅太郎は松本奎堂、藤本鉄石ら同志とともに大和行幸の先駆けとして大和国で倒幕の義兵を挙げることを計画、8月14日、吉村は先に長州に出奔していたことから侍従職を解かれ謹慎させら中山忠光の邸を訪ねて吉村、池ら同志39人が方広寺に集結して忠光を大将に戴き京都を出立した。一行は大坂海路堺に向かい、一同は船中で髪を切って決意を表した。しかし、孤立した吉村寅太郎ら天誅組は、幕府の討伐軍に対抗するために十津川郷士を募兵するが、諸藩の大軍の攻撃を受けて敗退し、中山忠光を逆賊とする詔が下るに及んで十津川郷士も離反する。天誅組は諸藩からの攻撃から脱出すべく紀州・彦根藩兵と吉野山にて戦闘となり、主将の中山忠光は辛うじて脱出するが、ほとんどが戦死するか捕縛され天誅組は壊滅した。この時、吉村寅太郎も津藩兵に発見され射殺されている。

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幕末85 1863年7月 平井収二郎没

2013年06月04日 | 幕末

 1863年7月23日平井収二郎が没っした。平井収二郎1835-1863は幕末の土佐藩士で、通称は伝八という。 身分は上士の中でも最下層の新留守居組であった。 土佐勤王党に参加し、武市半平太が勤王運動のために藩主を京都に上洛させた1862年には、共に京都に入る。 青蓮院宮に令旨を請い藩政改革を迫ったが、佐幕派や山内容堂に疎まれたことから失敗し、間崎哲馬と共に切腹し、土佐勤王党の獄の犠牲者第1号となった。収二郎の妹には平井加尾1838-1909がいる。 土佐藩主・山内容堂の妹・友姫が三条公睦に嫁ぐ際に友姫の御付役として上洛し、1862年まで三条家に仕えた。 1866年西山志澄を婿に迎えて平井家を継がせ、間には一女を儲けた後は夫婦で西山姓に復し、後に娘に平井家を再興させている。 加尾は坂本龍馬の初恋の相手であるという説もあるが定かではない。 夫の西山志澄は土佐勤王党に参加し、平井収二郎が罪に問われた際は土佐へ護送し、瑞山の下獄に当たっては藩に免罪を願い出たが、願いはかなわなかった。

 文久元年8月武市半平太が江戸にて土佐勤王党を結成すると収二郎は157番目に血判署名します。文久2年には藩主・山内豊範の参勤交代に随行して土佐を出国し、8月に上洛してからは諸国の志士らと交わるようになる。 収二郎は間崎哲馬や弘瀬健太らと土佐の藩政改革を目論み、青蓮院宮に拝謁して、宮から信頼を得ていた立場を利用して土佐藩に改革を迫る令旨を出させるように青蓮院宮に裏工作をしたことから山内容堂ににらまれ、勤王党員らの活動が蔭りをみせ、半平太を除いた勤王党員の政治活動を禁止する。 容堂の訓示にも関わらず収二郎は活動を続け、姉小路卿や関白鷹司との面会が容堂の耳に入り、また長州藩・久坂玄瑞による京都の翠紅館における尊王攘夷派の会合に出席した事が容堂の逆鱗に触れる。 収二郎は容堂に呼び出され、土佐へ帰国を命じられた後は自宅での軟禁状態が続き、その後投獄され、半平太による釈放嘆願むなしく切腹させられます。 介錯人は収二郎の幼友達の平田亮吉。 獄中での爪書き辞世 『嗚呼悲しき哉』 は藩吏により削り取られるが、明治維新後に加尾の手により復刻された。 

平井収次郎生誕の地は坂本家墓所のすぐ北西部にあり、妹・加尾の生誕地でもある。

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幕末84 1863年6月 薩英戦争講和

2013年06月03日 | 幕末

 薩摩藩の三事策、つまり将軍上洛、五大老設置、一橋慶喜を後見職、松平慶永を大老職とする策が実現し、京都には守護職がおかれて会津藩主の松平容保が任じられた。文久の幕政改革が行われ、幕府は大名たちの協調を求める主張に譲歩した。島津久光は江戸からの帰路、神奈川の生麦村で騎馬のイギリス人4人とすれ違った。薩摩藩士は大名行列に対して無礼として商人・リチャードソンを斬首した。これにより翌年薩英戦争を引き起こすこととなる。1863年6月、薩摩藩が生麦事件の犯人引渡しを断ったためにイギリス艦隊7隻が鹿児島湾に入り、薩摩藩は発砲したため薩英戦争に突入した。この戦争によりイギリス側の戦死者13人に対して、薩摩藩の死者は少なかったが、アームストロング砲の砲撃により市街の消失など被害は甚大であった。しかし鹿児島遠征と居留地防衛を両立できるだけの軍事力はないと判断してイギリス軍は早期に退去した。この頃京都では、攘夷親征の方針が公表され尊王攘夷の過激派・真木和泉らは攘夷・倒幕を主張していた。薩英戦争が講和へと動く頃、京都の攘夷運動は最大の盛り上がりを迎えた。薩英戦争で戦った薩摩藩は講和へ向けてイギリス軍艦の購入申し込みを行い、島津斉彬依頼開国論を唱えていた薩摩藩は薩英戦争でイギリスの軍事力を目の当たりにし軍政改革をめざす開国路線を確立した。こうして攘夷論の長州藩と公武合体開国論の薩摩藩は真っ向から対立することとなる。

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北村奈緒さん

2013年06月03日 | 北村奈緒 金城絢香 Grace 隈本美紗都

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北村奈緒さん

2013年06月03日 | 北村奈緒 金城絢香 Grace 隈本美紗都

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北村奈緒さん

2013年06月03日 | 北村奈緒 金城絢香 Grace 隈本美紗都

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田中優奈さん

2013年06月03日 | 田中優夏 玉城沙莉 田中優奈 谷脇レイ

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後藤瑞季さん 桜ノ宮にて

2013年06月03日 | 後藤瑞季 講神友紀 荒神幸菜

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花井りなさん

2013年06月02日 | 花井りな 春菜 初音 Hitomi Valeria 橋本美寿

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花井りなさん 大阪・中津

2013年06月01日 | 花井りな 春菜 初音 Hitomi Valeria 橋本美寿

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幕末83 1863年5月10日攘夷決行

2013年06月01日 | 幕末

 幕府が攘夷を行えないということは明らかで、まさか幕府がこの日に攘夷を決行するなどとは誰も思っていなかった。しかし、五月十日攘夷決行という天皇との約束を守った長州藩は尊王攘夷家・久坂玄瑞が中心となって、下関海峡近くの田野浦に停泊中のアメリカ商船に砲撃した。沈めるには至らなかったが、逃げるアメリカ船を見て長州藩は皆絶叫して喜んだという。その後もフランス艦、オランダ艦にダメージを与える一方で、同じ長州藩の桂小五郎は、「攘夷」と叫ぶ過激な倒幕尊王攘夷運動を危険視し、藩の強化策に努めようとする。ちょうどこの月、桂小五郎と村田蔵六は、伊藤博文を含め、長州藩士15名をイギリスに留学させ、真の開国をめざしていた。1862年以来の尊王攘夷運動は1863年の攘夷実行にまでいきついた。高杉晋作らによるイギリス行使館焼き討ちは攘夷実行の現れである。京都の長州藩・尊攘激派の中心人物が周布の後継者・木戸孝允である。一方、長州藩の初志・開国論を曲げずにいた洋式軍政改革の中心人物・来原良蔵は責任をとって切腹した。木戸孝允の義弟である。1862年7月、江戸に入った薩摩・久光を避けて京都に入った長州藩主・毛利敬親は藩邸で御前会議を行い、ここで開国論から一変して尊王攘夷の藩是が決定される。このときの攘夷派の木戸孝允と開国派の周布政之助は既に、攘夷の方向で肝胆相照らしていたという。この決定により地元 萩で死刑・遠流覚悟で発起したのが坪井九右衛門を代表する俗論派である。俗論派というのは周布が呼んだもので、本人は正義派といっている。かくして坪井は1863年10月に萩で処刑されている。かくして5月10日攘夷は決行され、下関海峡で長州藩によるアメリカ商船への砲撃が始まったのであるが、欧米軍艦・ワイオミング号は長州藩海軍を壊滅させた。

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