昨年の春以来ですからかれこれ10ヶ月ぶりの逢坂なぎささん
途中小雨にも会い寒さも増して生憎の天候でしたが
昔のイメージそのままの逢坂なぎささん と あったかそうな帽子にも癒された撮影会でした
乃木初太郎高知の名を東山・霊山墓地に見つけた。 藩主毛利氏の直属の家臣で馬上を許された上級家臣・長州藩八組士である。2組が交代で江戸藩邸を、その他の6組は萩城の警護を担当し、別名を馬廻組ともいう。 13歳の時、江戸桜田邸中の藩校有備館にはいり、来原良蔵・桂小五郎らの指導を受け、1862年16歳のとき、坂下門の変に桂小五郎らが幕府の嫌疑を受けたことを憤り、同志と共に幕吏を刺さんとしたが事洩れて果たさなかった。 藩世子に従って上京し、1863年萩に入り明倫館の学生となり、程なく山口の守衛を命じられた。八月十八日の政変以来、河北俊弼らと謀って大組隊を編成し、新卒司令官となった。1864年福原越後に従って伏見に行き斥候(敵の状況や地形などを探ること)となり、さらに稲荷街道進撃中に砲弾に当たって戦死した。
2012年直木賞に選ばれた葉室麟さんは歴史小説、時代小説作家である。 今回の受賞「蜩ノ記」は切腹することを命じられた郡奉行・戸田秋谷が残された日々を大切に過ごす武士としての凛とした姿と、周囲の人間のやりきれなさを描いた作品だという。 森鴎外の高瀬舟をふと思い出しました。 ところで、葉室という姓に興味を持ってしまい、調べてみると、藤原高藤の末裔で藤原為房の次男・顕隆が祖で、顕隆は白河法皇の信任厚く、院政期を代表する公家であった。 既にこのブログで以下のように紹介していたのをすっかり忘れていた。伊勢平氏が北面の武士として表舞台に現れた頃の人物で、平家物語の序章の頃の人物である。 葉室麟さんがその末裔かどうかは知りません。
伊勢に本拠地を置いた平維衡を祖として伊勢平氏は登場する。平維衡は一条天皇時代に代表する在京武士であったが、平致頼との合戦などで在京武士としては生き残れなかった。 伊勢平氏の本流は正度マサノリに移るがあまり功績は残っていない。また、その子・正衡も含めて源氏の英雄である頼義、義家の景に隠れて表にはあまりでてきていない。 やがて平正衡の嫡男・正盛は白河院の恩寵を受けて北面武士になると伊勢平氏は表舞台に登場することとなる。 1092年正盛が郎党として仕えていた加賀守・藤原為房が阿波国に配流となった。翌年赦免されて帰京すると、信任を得た正盛は隠岐守に任ぜられている。1098年には受領功過定に合格して若狭守となり、これを契機に白河院の恩寵を受けるとともに、受領を重ねて巨万の富を得ることとなる。 そして院の御幸や寵姫・祗園女御への堂提供などでさらに院の歓心を引いている。正盛の嫡子・忠盛も白河院に北面の武士として仕え、18歳で従五位下に叙されている。 1129年の白河院葬儀では種々の役目を担当して、鳥羽院からも寵愛され鳥羽院北面となり、1148年には執事別当となっている。 こうして白河北院造営などの成功により切れることなく受領を歴任しさらに富を増やした。 忠盛の出世を妬んだ殿上人が豊明節会で闇討ちを計画した話は平家物語の序盤でもでてくる有名な場面である。
藤原為房1049-1115(白河上皇に重用)
為平親王娘 尊子1003-1087(道長五女) ┣為隆1070-1130(万里小路家祖)
┣隆姫女王995-1087 ┣俊房1035-1121 ┣顕隆1072-1129(葉室家祖)
┣次女 ┃ ┣顕房1037-1094 ┃┗徳大寺実能1096-1157━公能1115-1167
┣師房 ┃ ┃ ┣藤原賢子 ┣妹(堀河・鳥羽の乳母)
┃ ┃ ┃源隆子 源頼国娘
┣嫥子女王┃ ┣麗子1040-1114
┃ ┃ ┃
具平親王 ┣源師房1008-1077(養子) 篤子内親王1060-1114
964-1009 ┣源嫄子1016-1039(養子敦康親王娘) 藤原賢子1057-1084 ┣-
┃ ┣祐子内親王1038-1105 藤原茂子(公成娘) ┣73堀河天皇1079-1107
┃藤原彰子┣禖子内親王1039-1096 ┣篤子内親王1060-1114┣媞子内親王1076-1096
┃┣69後朱雀1009-1045 ┣72 白河天皇1053-1129
┃┣68後一条┃ ┣71後三条1034-1073 ┃藤原顕季アキスエ母(白川乳母)
┃┃ ┃ ┣良子内親王1030-1077┃┣長実1075-1133
┃┃ ┃ ┣娟子内親王1032-1103┃┃ ┃
┃66一条天皇┃禎子内親王(陽明門院1013-)┃┃ ┣得子1117-1160(美福門院)
┃ 980-1011┃ 光子(堀河鳥羽の乳母)┃┃源方子1066- ┃
道長966-1028┃ ┣70後冷泉1025-┣三条実行 ┃┣家保1080-1136┃
┣頼通992-1074 藤原嬉子┃ ┣西園寺通季┃┣顕輔1090-1155┣76近衛天皇1139-1155
┃ ┃ ┣通房1025-1044 ┃ ┣徳大寺実能┃藤原経平娘 ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗公能 ┃ ┃
┃ ┃源憲定・娘┏━━━┛ ┣璋子1101-1145(待賢門院) ┃ 藤原顕輔娘
┃ ┣覚円 ┣ x 実季┳公実 ┣75崇徳帝1119-1164 ┃ ┣近衛通子1163-?(高倉帝妃)
┃ ┣寛子 1036-1127平等院奥院┗苡子 ┣77後白河1127-1192 ┃ ┃忠隆娘
┃ ┣師実 1042-1101京極殿 ┗┓┃ ┏━━━━━━━━━┛平盛子 ┃┣基通1160-1233
┃ ┣家綱-1092 ┣師通モロミチ1062-1099 ┃┃ ┃ 源信子┣- ┃┃
┃ ┣忠綱-1084 ┣賢子 ┃ 74鳥羽上皇1103-1156 ┣近衛基実1143-1166
┃ ┃ 麗子 ┣忠実1078-1162 ┣- ┃源俊子
┃ ┏藤原祇子 ┏全子 ┃ ┣泰子1095-1155(高陽院) ┃┣近衛基房1145-1231
┃頼成(隆姫義弟) 俊家1014-1082 ┃隆子┣忠通1097-1163 (法性寺関白)
┣教通996-1075 ┃ ┣源師子1070-1149 ┣九条兼実1149-1207
倫子 ┃ ┃┣ x ┃ ┣藤原賢子1057-1084 ┣九条兼房1153-1217
┃ ┃嫥子女王1005-伊勢斎宮 ┃源顕房1037-1094 ┣慈円 1155-1225
子内親王 ┃ ┃ 加賀局(藤原仲光娘)
1003-1048 ┃ ┣頼長1120-1156(内覧 保元の乱で敗)
三条天皇皇女┣信家1018-1061 盛実娘
┣通基1021-1041
┣信長1022-1094(九条太政大臣)
┣生子1014-1068(後朱雀女御)
頼忠 ┣歓子1021-1102(後冷泉皇后)
┣公任┣真子(後冷泉女御)
厳子女王┣娘
昭平親王娘
有馬皇子の変といわれるこの謀略は、孝徳天皇がなくなった後の657年に起こった。 有馬皇子は孝徳天皇の皇子であるから難波宮を捨てて、飛鳥へもどった斉明、中大兄皇子には恨みを抱いていた。 母子が紀伊の温泉に湯治に出かけて飛鳥を留守にしていたとき、有馬皇子のもとに留守官の蘇我臣赤兄が訪ねてきて、斉明の失策について語り、政治の批判を行った。 味方を得たとした有馬皇子は早速挙兵を決意する。 ところが蘇我赤兄により邸宅を包囲され謀反を女帝に通報されて初めて、赤兄の謀略としった有馬皇子は、紀伊の温泉のもとへ送られ尋問されるが何も答えず、紀伊の藤白坂で絞首刑に処された。 有馬皇子が旅路の途中の磐代で詠んだといわれる有名な歌が「万葉集」にある。
磐代の浜松が枝を引き結び真幸あらばまた還りみむ
この有馬皇子が絞首刑になった藤白坂、海南市には墓標が立っているが、ほんとうの墓と有力視されるのが岩内1号墳だという。地元の考古学者の指摘などが掲載されていて思わず見入ってしまった。(2012/1/18記事)
明治元年(1868)小枝橋(大阪から京に入るための格別に重要な橋であった) 近くの戦が鳥羽伏見の戦いの発端となります。大阪から京都へ攻め入ろうとした幕臣、会津・桑名軍は1月1日に挙兵すると、薩摩・長州軍がこれを迎え撃とうとします。ここ城南宮には新政府・薩摩軍が大砲を備えて布陣すると竹田街道を北上する桑名軍、幕府大目付滝川具挙が小枝橋を渡ろうとするのを阻止すべく、薩摩軍がアームストロング砲を発砲します。これが合図となり、鳥羽伏見両方面で激戦が続き、1月6日には幕府軍が敗退し、これを契機に戊辰戦争が始まります。