善峰寺・山門
十一世紀の前半、源算上人が十一面千手観音を祀り創建され、1034年に後一条天皇 から「良峯寺」の寺号と聖詠をたまわって以来、門跡寺院となり、五十あまりもの堂塔を有する大寺院となる。 応仁の乱(1467~77)では兵火を受けて焼け尽くされるが、現在の諸堂の多くは、江戸時代に徳川五代将 軍綱吉の母である桂昌院の援助によって再建される。 1621年再建の多宝塔は、現存最古のもので、重要文化財に指定されている。
多宝塔の前にある樹齢六百年の五葉松は 「遊龍の松」の名で呼ばれ、国の天然記念物に指定されています。
開基である源算上人は、991年9歳の時に比叡山の恵心僧都 源信に徒弟に入りし、13歳で受戒されます。 師・源信は、9歳で比叡山・良源に師事、 横川に隠棲し、念仏による浄土教発展に大 きな影響を与える。 源算上人が剃髪した後、長元二年(1029)後一条天皇在世 の47歳の時、この地に法華院と号する小堂を建てます。 5年後には天皇より「良峯寺」の号を賜り 、8年後には、東山の鷲尾寺の本尊であった千手観音像(安居院仁弘法師作)を当寺に移 して本尊とするようにとの後朱雀天皇の綸旨があり、千手堂を建てて像を安置しています。 1053年後冷泉天皇の時、皇太子尊仁親王(のちの後三条天皇)の后・藤原茂子が懐妊するが、 難産であったため当寺で祈願したところ、皇太子(貞仁親王、のちの白河天皇)が誕生したことから、尊仁親王が報恩のため、本堂、阿弥陀堂、薬師堂、地蔵堂、三重塔、 鐘楼、仁王門、および鎮守七社を建立したと伝えられています。
安元元年(1175)、法然上人が浄土教を開きます。 後年、この年を鎌倉新仏教の起こりと していますが、その翌安元二年、観性上人が当寺境内の蓮華寿院の傍らに法華堂を建て、 一夏九十日間、妙経を読誦されます。 観性上人は葉室中納言顕隆の孫、顕能の子で、 天台座主をつとめた権僧正顕真の弟という名門の出で、観性法橋と呼ばれていました。 ついで、観性上人に親しい天台座主であった慈円和尚が、 上人の招きで当山の中尾蓮華寿院に住んで行法をおこなわれます。 慈円和尚は関白藤原忠通の子で、十一歳の時、覚快法親王(鳥羽天皇 の第七子)のもとで入信、のち法印に叙せられ、名を慈円と改め、のち権僧正、建久三年(1192) に天台座主となり、座主を四度つとめられた名僧です。 慈円和尚は僧として当代の人から崇敬を集めていただけではなく、後鳥羽上皇の信任も厚く、また 歌人としても特に有名でした。 『新古今集』には九十一首の歌が採択され、自身も多 くの歌集を出し、史書の『愚管抄』は神武天皇から仲恭天皇までの歴史を記 し高い評価を得ています。
観音堂(本堂)
観性上人が当寺に住されたことをきっかけに、慈円和尚がこの寺に住されたわけですが、さら に慈円和尚を慕って証空上人善慧(ぜんえ)が蓮華寿院に入られ、また承久三年(1221)後鳥羽上皇による 承久の変後は、難を逃れて西山宮道覚法親王(後鳥羽上皇の皇子)が証空上人のもとを訪れることになります。 これらの人々の入山が、当山の寺格を今日のように高めてきたのです。 証空上人は、やがて蓮華寿院を道覚法親王に譲って自分は北尾往生院に退き、のち浄土宗西山派の 祖となられます。
観性上人墓(左) 証空上人善慧墓(中央)
蓮華寿院ではその後、青蓮院宮慈道法親王(亀山天皇皇子)、大乗院宮尊円法親王(伏 見天皇皇子)、青龍院宮尊道法親王(後伏見天皇皇子)など、青蓮院関係の法親王が、晩年をここで送 られ、青蓮院の隠居所のようになり、御所屋敷とも呼ばれます。 特に尊円法親王は書道「青蓮院流」の祖で、『門葉記』の著者としても有名。
『吾妻鏡』によると、源頼朝が鶴岡八幡宮に大塔を建立し供養の導師を天台座主全玄に依頼したが、全玄座主は導師としては善峯寺の観性法橋が適任だとし、観性法橋が導師と決まった。 この後、頼朝は観性上人の応答が懸河(けんが)の如 く堂々としていたため、頼朝は上人を深く崇敬するようになる。 そして、二十八部衆金剛力士な どを善峯寺に安置してほしいという上人の要請にこたえて、頼朝は南都(奈良)の運慶仏師にこれを 作らせ、善峯寺に寄進します。
慈円和尚も頼朝と親交があり、建久三年(一一九二)、頼朝が征夷大将軍になった年に、和尚は天台座主に就任、鳥羽上皇より慈円のために「良峯寺」を「善峯寺」と改め、自筆の寺額を下賜され、官寺に列せられます。 さらに頼朝より、越前国藤島庄を寺領にもらうなど、朝廷・幕府双方から庇護を 得ることになります。 朝廷・幕府の庇護により五十二僧坊を数えるほどになった善峯寺も、応仁の乱では焦土と化します。 衰微したこの寺を次々に再建し、今日の姿に復興されたのは徳川五代将軍綱吉の母、桂昌院の寄進によるものです。
桂昌院は二条家に仕えた本庄宗正の娘であるとされていますが、実は京都の八百屋仁右衛門の娘で その名をお玉といいました。仁左衛門の死後、お玉の母は本庄太郎兵衛宗正のもとへお玉を連れて奉公に出ます。 やがて母は宗正の後妻となり、宗正がお玉の義父となります。 成長して三代将軍家光の側妾お万の方の侍女となり江戸へ下ったお玉は、秋野と名を変えて大奥で 働くようになりますが、やがて家光の寵愛を受けて徳松を安産します。 家光の没後は黒髪を落として桂昌院となり、徳松は綱吉となります。 四代将軍家綱には子供がなかったため、その没後、綱吉が五代将軍となり、桂昌院は将軍の御母堂 として江戸城へ迎えられます。 桂昌院は、幼いころのゆかりの善峯寺のため、住職の願いは次々と実現したことで、建築・仏像・宝物などが今に伝わることとなる。 桂昌院は宝永二年(1705) 七十九歳で亡くなり、遺髪は境内に納められ桂昌院廟として祀られています。