平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

善峰寺の文化財

2008年10月31日 | 平安時代

善峰寺・山門

 

 十一世紀の前半、源算上人が十一面千手観音を祀り創建され、1034年に後一条天皇 から「良峯寺」の寺号と聖詠をたまわって以来、門跡寺院となり、五十あまりもの堂塔を有する大寺院となる。 応仁の乱(1467~77)では兵火を受けて焼け尽くされるが、現在の諸堂の多くは、江戸時代に徳川五代将 軍綱吉の母である桂昌院の援助によって再建される。 1621年再建の多宝塔は、現存最古のもので、重要文化財に指定されている。


 多宝塔の前にある樹齢六百年の五葉松は 「遊龍の松」の名で呼ばれ、国の天然記念物に指定されています。

 

 開基である源算上人は、991年9歳の時に比叡山の恵心僧都 源信に徒弟に入りし、13歳で受戒されます。 師・源信は、9歳で比叡山・良源に師事、 横川に隠棲し、念仏による浄土教発展に大 きな影響を与える。  源算上人が剃髪した後、長元二年(1029)後一条天皇在世 の47歳の時、この地に法華院と号する小堂を建てます。 5年後には天皇より「良峯寺」の号を賜り 、8年後には、東山の鷲尾寺の本尊であった千手観音像(安居院仁弘法師作)を当寺に移 して本尊とするようにとの後朱雀天皇の綸旨があり、千手堂を建てて像を安置しています。 1053年後冷泉天皇の時、皇太子尊仁親王(のちの後三条天皇)の后・藤原茂子が懐妊するが、 難産であったため当寺で祈願したところ、皇太子(貞仁親王、のちの白河天皇)が誕生したことから、尊仁親王が報恩のため、本堂、阿弥陀堂、薬師堂、地蔵堂、三重塔、 鐘楼、仁王門、および鎮守七社を建立したと伝えられています。

 

 安元元年(1175)、法然上人が浄土教を開きます。 後年、この年を鎌倉新仏教の起こりと していますが、その翌安元二年、観性上人が当寺境内の蓮華寿院の傍らに法華堂を建て、 一夏九十日間、妙経を読誦されます。  観性上人は葉室中納言顕隆の孫、顕能の子で、 天台座主をつとめた権僧正顕真の弟という名門の出で、観性法橋と呼ばれていました。 ついで、観性上人に親しい天台座主であった慈円和尚が、 上人の招きで当山の中尾蓮華寿院に住んで行法をおこなわれます。     慈円和尚は関白藤原忠通の子で、十一歳の時、覚快法親王(鳥羽天皇 の第七子)のもとで入信、のち法印に叙せられ、名を慈円と改め、のち権僧正、建久三年(1192) に天台座主となり、座主を四度つとめられた名僧です。  慈円和尚は僧として当代の人から崇敬を集めていただけではなく、後鳥羽上皇の信任も厚く、また 歌人としても特に有名でした。 『新古今集』には九十一首の歌が採択され、自身も多 くの歌集を出し、史書の『愚管抄』は神武天皇から仲恭天皇までの歴史を記 し高い評価を得ています。

観音堂(本堂)

 

 観性上人が当寺に住されたことをきっかけに、慈円和尚がこの寺に住されたわけですが、さら に慈円和尚を慕って証空上人善慧(ぜんえ)が蓮華寿院に入られ、また承久三年(1221)後鳥羽上皇による 承久の変後は、難を逃れて西山宮道覚法親王(後鳥羽上皇の皇子)が証空上人のもとを訪れることになります。 これらの人々の入山が、当山の寺格を今日のように高めてきたのです。 証空上人は、やがて蓮華寿院を道覚法親王に譲って自分は北尾往生院に退き、のち浄土宗西山派の 祖となられます。

観性上人墓(左)    証空上人善慧墓(中央)

 蓮華寿院ではその後、青蓮院宮慈道法親王(亀山天皇皇子)、大乗院宮尊円法親王(伏 見天皇皇子)、青龍院宮尊道法親王(後伏見天皇皇子)など、青蓮院関係の法親王が、晩年をここで送 られ、青蓮院の隠居所のようになり、御所屋敷とも呼ばれます。 特に尊円法親王は書道「青蓮院流」の祖で、『門葉記』の著者としても有名。

 『吾妻鏡』によると、源頼朝が鶴岡八幡宮に大塔を建立し供養の導師を天台座主全玄に依頼したが、全玄座主は導師としては善峯寺の観性法橋が適任だとし、観性法橋が導師と決まった。 この後、頼朝は観性上人の応答が懸河(けんが)の如 く堂々としていたため、頼朝は上人を深く崇敬するようになる。 そして、二十八部衆金剛力士な どを善峯寺に安置してほしいという上人の要請にこたえて、頼朝は南都(奈良)の運慶仏師にこれを 作らせ、善峯寺に寄進します。

 慈円和尚も頼朝と親交があり、建久三年(一一九二)、頼朝が征夷大将軍になった年に、和尚は天台座主に就任、鳥羽上皇より慈円のために「良峯寺」を「善峯寺」と改め、自筆の寺額を下賜され、官寺に列せられます。 さらに頼朝より、越前国藤島庄を寺領にもらうなど、朝廷・幕府双方から庇護を 得ることになります。 朝廷・幕府の庇護により五十二僧坊を数えるほどになった善峯寺も、応仁の乱では焦土と化します。 衰微したこの寺を次々に再建し、今日の姿に復興されたのは徳川五代将軍綱吉の母、桂昌院の寄進によるものです。

  桂昌院は二条家に仕えた本庄宗正の娘であるとされていますが、実は京都の八百屋仁右衛門の娘で その名をお玉といいました。仁左衛門の死後、お玉の母は本庄太郎兵衛宗正のもとへお玉を連れて奉公に出ます。 やがて母は宗正の後妻となり、宗正がお玉の義父となります。 成長して三代将軍家光の側妾お万の方の侍女となり江戸へ下ったお玉は、秋野と名を変えて大奥で 働くようになりますが、やがて家光の寵愛を受けて徳松を安産します。  家光の没後は黒髪を落として桂昌院となり、徳松は綱吉となります。 四代将軍家綱には子供がなかったため、その没後、綱吉が五代将軍となり、桂昌院は将軍の御母堂 として江戸城へ迎えられます。  桂昌院は、幼いころのゆかりの善峯寺のため、住職の願いは次々と実現したことで、建築・仏像・宝物などが今に伝わることとなる。  桂昌院は宝永二年(1705) 七十九歳で亡くなり、遺髪は境内に納められ桂昌院廟として祀られています。

 

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まだ緑

2008年10月30日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

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2008年10月29日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

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京都・時代祭り 豊公参朝列

2008年10月28日 | 戦国時代

 1596年5月秀頼初参内の時は、豊公参朝のなかでも最も盛儀であったと伝えられており、本列はそれを模したものである。 秀頼は羽柴秀吉と茶々との間にうまれた二人目の子で、このとき3歳。 前後に従うのは大名で一日晴れとして規則以外に許されたもので、衣冠の姿も普通のものではなく袴に武家風の太刀といういでたちである。

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京都・時代祭り 韓国のお方

2008年10月28日 | 国内旅行散策

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九条邸跡

2008年10月28日 | 平家物語

 九条家は五摂家のひとつで平安後期以降多くの人が朝廷の重要職である摂政や関白につきました。 その娘の多くも天皇妃となり、大正天皇の皇后・節子もその一人です。 江戸末期、米総領事ハリスの通商条約締結要請の対し徳川幕府は了解する考えでしたが、朝廷側の孝明天皇は反対でした。折りしも京都市内では、幕府と朝廷との様々な交渉が行われ、時の関白九条尚忠の邸もその舞台の一つとなりました。広大だった屋敷も、今では池の畔の茶室の拾翠亭と、九条邸の鎮守だった厳島神社が中島に残るばかりです。(看板記載抜粋)

 

 

九条家の起こり

 1000年以上もの長きに渡って政界を支配し続けた藤原北家から近衛、九条家が分家し、各々から鷹司、一条、二条家がさらに分家し鎌倉4代将軍・頼経の時代には五家による摂関が行われた。その後、京都の大路や寺の名前をとって多くの名家が誕生することとなる。 

 藤原忠通のあと嫡男の基実が摂関となるが24歳で亡くなった為、基実の実弟・基房が摂関となり、やがて基通に引き継がれた。 基房は平清盛と対立していて後白河上皇寄りであったのに対して近衛家の祖・基実、基通親子は平清盛の娘を妻にしていて、基通は平家の都落ちの際に行動を共にしている。 またその一方で基通は後白河法皇の男色の相手として寵愛を受け、後鳥羽天皇の摂関になった所以として知られている。 弟の九条兼実は基通の男色を恥ずべきこととして「玉葉」に記した。 しかし源頼朝は義経に追討の院宣に賛同した基通を嫌って、1186年に兼実に摂関を与えている。 10年後に基実が失脚すると基通は摂関として返り咲いたことがあるが、その後、後鳥羽上皇の意向により兼実の後継者である九条良経が摂関となるが5年後に死亡し、基通の嫡男・近衛家実がかわった。家実は1221年承久の乱の頃まで22年の長きに渡って摂関の地位にあったが、この頃は武家政治の最中であり、公家の復活を願った後鳥羽上皇が討幕計画を起こしたが失敗におわり、公家は完全に武家の監視下におかれたのである。

 家実の摂関政治は1228年に九条道家に受け継がれ鎌倉幕府三代将軍・実朝の暗殺により直系が途絶えたときに道家の三男・頼経が4代将軍に迎え入れられた。 道家の嫡男は九条家を継ぎ、次男・良実は二条家の祖となり、四男・実経は一条家の祖となった。 また近衛家の家実の孫・兼平は鷹司家の祖となっている。 こうして藤原北家の本流から五つの摂関家が誕生するのである。また本流から外れたところでは藤原公実からは、三条家、徳大寺家、西園寺家がでているなど、院政期には藤原家から多くが分家して、それぞれの繁栄をもたらすこととなる。  

                   源顕信娘
                     ┣道経
                     ┣基教(鷹司家)
                     ┣家実1179-1243(良経後猪隈関白)
  具平親王              ┃  ┣家通
    ┗源師房             ┃  ┣兼経
       ┣源俊房1035-1121(堀河左大臣)┃  ┗兼平(鷹司家の祖 摂政関白)     
   道長┣源顕房1037-1094(六条右大臣)┃    ┣兼忠
     ┣尊子 ┃┣源国信  藤原忠隆娘 ┃    ┗基忠
   明子   ┃雅実 ┣信子 
基通(1160-1233後白河上皇から寵愛 後鳥羽摂政)
           ┃      ┃
近衛基実(1143-1166近衛家の祖 二条関白 六条摂政)
           ┣賢子  ┃ ┃ 

         隆子┣堀河┃ ┃ 盛子(平清盛娘) 

             白河  ┃ ┃ 三条公教娘  花山院忠雅娘忠子(安徳乳母)   
 
                  ┃ ┃   ┣藤原家房  ┣伊子(木曾義仲側室)
 
                  ┗ ┃俊子 ┣藤原隆忠  ┣松殿師家
 
  
            
 ┃┣近衛基房(後白河側 松殿祖 六条高倉摂政) 
                   ┣┛  
                  ┃藤原仲光娘・加賀 
                 ┃┣九条兼実1149-1207(頼朝推薦 後鳥羽摂政 関白) 
            ┃┣兼房┣良通
             ┃┣慈円┣良経1169-1206(土御門摂政 後鳥羽推薦)
             ┣┛  ┃ ┃藤原清季娘
             ┃   ┃ ┃ ┣忠成王1221-1279(四条皇太子)  
             ┃   ┃ ┃順徳天皇(守成親王)1197-1242
             ┃   ┃ ┃ ┣諦子内親王1217-1243
             ┃   ┃ ┃ ┣85仲恭天皇1218-1234
             ┃   ┃ ┃ ┃  ┣義子内親王
忠実          ┃   ┃ ┃ ┃ 右京大夫局
┣泰子(高陽院1095-1155)┃   ┃ ┃ ┃
忠通(法性寺関白1097-1163)  ┃ ┃ ┃ 徳子(建礼門院)
  ┗藤原呈子(伊通娘)       ┃ ┃ ┃    ┣安徳天皇
 
    ┣-            ┃ ┃ ┃ 高倉天皇
   近衛天皇1139-1155      ┃ ┃ ┃    ┣82後鳥羽天皇1180-1239
  頼長  ┣-             ┃ ┃ ┃信隆  ┣守貞親王1179-1223(後高倉院)
  ┗藤原多子(公能娘)       ┃ ┃ ┃┣坊門殖子  ┃
                  ┃ ┃ ┃休子     ┃
 
                 ┃ ┃ ┃       ┣利子内親王
 
                 ┃ ┃ ┃持明院通基  ┣邦子内親王1206-1283
  
                ┃ ┃ ┃┣持明院基家 ┣86後堀河天皇1212-1234
 
                 ┃ ┃ ┃源師隆娘┣藤原棟子 ┃
                  ┃ ┃ ┃    ┗基宗   ┃ 
 
 
                ┃ ┃ ┃          ┃
                  ┃ ┣立子1192-1247     ┣子内親王
                  ┃ ┣道家1193-1252(仲恭摂政)┣87四条1231-1242 
             
   ┃能保娘   ┣九条竴子(藻壁門院) ┃ 
                              ┃     ┣教実(九条家を継ぐ)  ┣-
                              ┣任子-1238 ┣良実(二条家の祖)┗彦子(宣仁門院)
                            季行娘┃    ┣頼経(鎌倉4代将軍)
                                  ┣昇子 ┣実経(一条家の祖)
                 82後鳥羽天皇 綸子(西園寺公経娘)

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京都御所内 拾翠亭

2008年10月27日 | 陵 古墳 墓 遺跡

拾翠亭は京都御所の南の端の九条家邸宅跡の横に佇んでいます。 時代祭りを堪能したあと、ここ拾翠亭と見事な庭園を観賞しながら贅沢なひと時を過ごしました。

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婚儀の前

2008年10月27日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

京都・東寺にて

  

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京都・時代祭り 江戸文化人

2008年10月27日 | 国内旅行散策

画家・玉蘭               中村内蔵助の妻                歌人・梶            

  

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京都・時代祭り 御鳳輦神幸

2008年10月27日 | 国内旅行散策

 孝明天皇、桓武天皇の御鳳輦(ごほうれん)を要する神幸の本列です。御賢木(おんさかき)を先頭に、宮司以下神職が前後につき従います。 そして後方列には御賢木に献花する白川女の列が連なります。 (延暦時代)

 

 

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京都・時代祭り 吉野太夫

2008年10月27日 | 池波正太郎 江戸時代

 吉野太夫(1606-1643) は京都・六条三筋町の名芸妓で本名は松田徳子。 六条三筋町「七人衆」の筆頭であり、夕霧太夫、高尾太夫とともに寛永三名妓といわれる。  幼少のころに禿(”かむろ”といって遊女の世話をする少女のこと) として林家に抱えられ、禿名は林弥といった。 14歳で太夫になった徳子は和歌、連歌、俳諧や 琴、琵琶、笙などの楽器だけではなく、書道、茶道、香道、華道、貝覆い、囲碁、双六までもを極め、 その才色兼備は国内のみならず、明国にまで名を知れ渡らせたという。 馴染み客には後陽成天皇(1571-1617)と近衛前子との間に第四皇子として生まれた関白・近衛信尋(1599-1649)や、商人で、当時の文化人の一人である灰屋紹益がいた。   1643年寛永20年に38歳で死去した太夫は日乾上人に帰依しており、常照寺に墓がある。  実はさきの関白・近衛信尋は吉野太夫を紹益と競い、紹益のほうが結婚にこぎつけたという話がある。 近衛信尋は後水尾天皇の実弟にあたり、一条昭良や良恕法親王らと共に宮廷文化の担い手となっている。

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石灯篭

2008年10月27日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

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原不動の滝

2008年10月26日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

原不動の滝

日本の滝百選の一つに選定されている原不動の滝は氷ノ山・後山那岐山国定公園内にあり、男滝と女滝からなり、男滝は落差88mと兵庫県最大です。(入園券記載より) 

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桂昌院御廟

2008年10月26日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 徳川五代将軍・綱吉の生母・桂昌院の御廟が京都・善峰寺にあります。 善峰寺は平安の中期1029年の源算上人の開山より栄え、室町時代には後花園天皇により伽藍が改築され多くの僧坊に及んだが、応仁の乱の兵火を免れることはできず焦土と化した。 その後江戸時代に桂昌院によって当山は復旧され現在に至っている。 11月中旬には見事な紅葉が桂昌院を覆い尽くしそうです。

 

 

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京都・時代祭り 和宮親子内親王

2008年10月26日 | 国内旅行散策

静寛院宮 和宮親子内親王 1846~1877年

 今は時の人、NHK大河「篤姫」で篤姫とともに主役を張っているといっていいでしょう。 和宮様とともに篤姫もついでに解説を付け加えたいと思います。

 和宮親子内親王は十四代将軍徳川家茂正室で、 仁孝天皇第八皇女です。 異母兄は孝明天皇。六歳の時に有栖川宮・熾人親王と婚約が決まっていたが、公武合体のため破棄され家茂へ降嫁することになった。 当時公家の子女の間では 「死にたければ東に嫁せ」 と言われるほど江戸は恐れられていて、はじめは強く拒んでいたが、孝明天皇は侍従の岩倉具視の意見を採りいれ輿入れを決めてしまう。

 武家と公家の習慣の違いで初め家茂養母の天璋院とは険悪なムードが流れていたが、その後和宮が踏み石の下置かれていた家茂の履き物をはだしで縁側に下りて上にあげたことから二人の諍いはなくなったという逸話がある。家茂とは仲むつまじかったというが、二人が一緒に過ごしたのは二年足らず。元々体が弱かった家茂は度重なる戦闘指揮に西上し、その疲労から脚気で戦病死した。二十一歳という若さだった。家茂没後は落飾して静寛院宮と号して次期将軍に一橋慶喜を立てた。 江戸城開城後いったん京都に帰ったが五年後江戸に戻る。家茂と同じく脚気にかかり三十二歳で没した。 徳川家の墓地に埋めてほしいという遺言で増上寺の家茂の墓の隣に葬られ、現在も大変立派な墓碑があります。 ただし参拝することは一切できません。 1959年に行われた徳川家墓所の改葬で開かれた和宮の棺の遺体は正装した一人の男性の写真を抱いていたという。開棺後の処置が不十分だったため翌日には写真の人物像は消えてしまったため定かではないが、それは家茂だったと言われる。 和宮内親王の後ろに控える二人の女性はもちろん和宮の母・橋本経子(1826-1865)と 仁孝天皇の典侍・庭田 嗣子(1820-1867)であり、降嫁の祭に二人は和宮付きを命ぜられてともに江戸へ下ったのである。 ところでNHK大河では橋本経子役を若村真由美、庭田 嗣子役を中村メイコがしています。 この二人の年齢差は6歳ですので大河の配役にはミスがある・・・と思ってしまうのは私だけでしょうか。

側室:堀田氏娘らく┳  長女:淑姫(1789-1817)  
愛妾:40人        ┣ 次男:家慶(1793-1853) 趣味に生きた十二代将軍
━┓ 
                  ┗  五男:敦之助  他多数                           ┃     
                                                             ┃   
  ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛   
正室:跡部正賢娘 ┳  徳川慶昌  
側室:清涼院    ┣ 徳川慶喜 養子に迎える                         
側室:本寿院   ┣ 徳川家定 四男脳性麻痺 十三代将軍幼名:政之助
側室:お琴の方  ┃   ┣-               
          ┃  正室:鷹司政道の娘               
          ┃  側室:一条忠良の娘               
          ┃  正室:天璋院篤姫           
          ┗ 他多数いたが成人までに全員死亡 
 
                                             
徳川斎順(和歌山藩主 徳川家斉の七男)  
  ┣━━━━━━┓   
正室:みさ(実成院)┣ 徳川家茂 (家斎の孫) 十四代将軍 
      ━┓         
           (孝明天皇は義兄)               ┃  
                                                             ┃   
  ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛   
正室:和宮親子内親王 ┳ 徳川茂承(実父:松平頼学)   
(仁孝天皇の八皇女)  ┗ 徳川慶喜(実父:徳川斉明)十五代将軍          
           (孝明天皇は義兄)       
          

 一方、篤姫は十三代将軍徳川家定正室(後室)で 父は島津忠剛。叔父にあたる薩摩藩主島津斉彬の養女となる。 家定の世嗣に一橋慶喜を擁立する目的で斉彬は敬子を正室を亡くした家定の後室に推す。 将軍家の正室は宮家公卿からとされていたため敬子はいったん近衛左大臣忠煕の養女となり、篤子と改名して御台所となった。 ところが家定は一年半後、三十五歳という若さで没し、篤姫は二十三歳で未亡人になる。 その後、実家島津家に反して次期将軍に紀伊徳川の慶福(のちの家茂)を立てて養母となった。家茂の御台所として和宮が降嫁するのにあたり、大奥から二の丸に移る。 江戸城開城ののちは家定生母とともに一橋家へ、その後も紀伊邸、尾州家下屋敷、赤坂相良屋敷、千駄ヶ谷(徳川公爵邸)へと移ったが島津家には戻らなかった。 徳川邸で没し、上野寛永寺に葬られた。 享年四十八歳。

 天璋院となった篤姫は、将軍家茂の養母として江戸城大奥を束ね、強い発言力を持ち続ける。 将軍家茂に降嫁してきた皇女和宮との嫁.姑の争いは有名な話であるが、 家茂付奥女中は約130人、天璋院付奥女中は90人、和宮付奥女中は70人であったと云われ、この他に家定生母の本寿院付、家茂生母の実成院付の奥女中たちと、部屋方といって大奥女中たちが自分の部屋で使う女中も合わせれば、およそ八百人の女たちが江戸城本丸の大奥で暮らしていたという。  系図のように篤姫には将軍・家定との間には子供はできませんでした。 先室である鷹司政道・娘や側室との間にも子を設けることができなかったのは、家定が病弱であったからであるとされています。いわゆる暗愚で、生まれつきの脳性麻痺が原因という説もあります。 結果、後継として徳川家茂を養子として迎え入れました。 後に14代将軍となる家茂は清水家を経て和歌山・紀州徳川家当主となった徳川斉順の嫡男として生まれました。 因みに徳川斉順の父は11代将軍・徳川家斉で一橋家の出身なのです。 遡ると、徳川7代将軍の家継が僅か8歳にして死亡し、紀州家から当主が抜擢されて8代将軍・吉宗が誕生して以来、徳川将軍は一橋家・田安家・清水家の 御三卿の筆頭である一橋家と 紀伊家・尾張家・水戸家の御三家の筆頭である紀伊家から輩出されるようになります。当時の大奥では一橋家側と紀伊家側に分裂し、時期将軍の後継争いに一橋家の篤姫と紀伊家の本寿院(篤姫の姑)が意見を戦わす・・・というのは、前述の歴史に所以があります。 こういところに京都・公家の和宮が降稼したのですから話題に事欠かないのは必然のことであると言えます。

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