うさこが行く!

漫画家山田うさこのお仕事&趣味?&あれやこれやの日々

センム!!

2009-06-20 01:00:17 | 今日のうさこちゃん2
そろそろお風呂にはいろっかなぁ~と思ってたら、A-studioが始まって。
ゲストは財津和夫氏だというので、やはり風呂だwと思ってたら。

いきなりセンムの写真がテレビ画面に!

そういえば、チューリップの所属事務所はシンコーだったわね。

鶴瓶師匠の言うことにゃ、福岡までセンムとレコ会社の新田さんがライブを観に来て、上京が決まったとか。
そしてデビューし、ブレイクまで時間がかかったこと。

「心の旅」の、イントロにサビ部分を持ってくるようにという案を出したのがセンムだったとか。

センムはその後アイドル路線で行きたかったので、「青春の光と影」のシングルは、反対していたことなど、紹介。

実際はその反対をおして「青春の光と影」を出したら、大ヒットしたという。

センムのお墓の石碑には、センムが生前に残した小粋なメッセージが刻まれているそうで。
「みなさん、会いに来てくれてありがとう。ボクはロックな旅にでます」
という冒頭からはじまって、センムが好きだった音楽、プレスリーからいろいろと洋楽曲が連ねられている中、唯一日本のバンド。
チューリップの「青春の光と影」と記されていると紹介。

「草野さん、いったいいつから(この曲)好きになったんや」
と鶴瓶師匠は笑いをとっていましたが。

たぶんセンムは最初からめちゃんこ好き(センムの口癖)だったと思うよー。
ただ経営者だから、確実な路線を考えていたんだと思う。

思わず泣いてしまったわー。

ちょうど前日に奥様と電話でお話したばかりだったので、なんか縁だなあと。

ちなみにワタクシ、チューリップはいっぱいは食べられませんがw
「青春の光と影」はとても好き。


い~い番組でした。
元々、この番組好きだけど。今回は見逃さなくて良かった。

たぶん、ご遺族の要望だと思うけど、センムを当時の役職、草野専務で表記していたのが嬉しかった。

そうなの、センムは社長でも会長でもセンムなのよね(笑)

ロックな旅は順調なんでしょうか?
あっちには仲間が大勢いるだろうから、漣健児として大活躍かもしんない。


草野昌一=漣健児

wikiより抜粋

早稲田大学第一商学部在学中の1951年9月、父・草野貞二が経営する新興音楽出版社(1983年に新興楽譜出版社と合併、シンコー・ミュージック、さらに2004年にシンコーミュージック・エンタテイメントに社名変更)から雑誌『ミュージック・ライフ』を創刊(貞二が1937に年創刊、『歌の花籠』に改題するも1943年休刊した同名の雑誌の復活)、初代編集長を務めた。
1958年4月、新興楽譜出版社専務取締役に就任。以来、同社社長、会長に就任後も「センム」と呼ばれるようになった。
日本の音楽出版ビジネスの先駆者であり、1960年に音楽出版業務を開始。1965年には、音楽出版社として日本で初めて原盤制作を行う(マイク真木「バラが咲いた」)。1965年には音楽出版社から初めてJASRAC理事に就任。1973年には音楽出版社の統一団体・音楽出版社協会(MPA)設立(それまで新興など出版社系が所属する日本音楽出版社協会(NOSK)と、日音、PMP(現フジパシフィック音楽出版)など放送局系が所属する全日本音楽出版社連盟(JAMP)の2つの団体があった)に尽力。1980年にはMPA会長に就任。
1978年、カントリー・ミュージック協会国際委員としてホワイトハウスに招待される。日本の音楽関係者では草野が唯一である。
実弟の草野浩二は東芝EMIの名物ディレクターであった。次男の草野夏矢は現シンコーミュージック・エンタテイメント社長。

訳詞家・漣健児 [編集]
1959年には「新田宣夫」名義で「赤鼻のトナカイ」などの訳詞を手がけていたが、漣健児名義で初めて訳詞を手がけたのは、坂本九「ステキなタイミング」(1960年)。その他代表作としては、飯田久彦「ルイジアナ・ママ」、ナット・キング・コール「L-O-V-E」、中尾ミエ「可愛いベイビー」など。ただし、ザ・カーナビーツの「オブラディ・オブラダ」に代表されるように、訳詞というよりは創作といって良い歌詞や、一部メロディーまでいじくったことに対しては批判もある。

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