私は小学3年まで喘息が酷く、週1くらい学校を休んでいた。
喘息が出るのは決まって月曜日。
夜は発作が出て横になることが出来ず、呼吸が苦しくてヒューヒューしてる私の上体を起こし、ずっと背中をさすってくれていた。
小児科からは乾布摩擦などをすすめられ、実行したがまるで効果なし。
母も随分と悩んだんだろう。
月曜日に出る喘息。精神的なものもあると思ったのか、発作が出て歩くのも苦しい私を学校まで行かせたり。
学校までは1キロあった。
しかも学校は山の上にあり、階段をたくさんのぼらなければいけなかった。
呼吸が苦しくて、自然と顎が上にあがる。
ヒューヒュー、ゼイゼイ、いいながら階段をのぼる姿は、同じ小学生達から見て異常だったらしく、指を指されて笑われたり、真似されたり。
でも、そんなこと気にしてる場合じゃないくらい息が苦しかった。
私の実家も山の上だった。
この日も喘息の発作が出てたが、休ませてはもらえなかった。
でも近所の坂道をおりた後に、学校まで辿り着けない…と思い、家まで帰る為に坂道をのぼった。
家に帰ると母に怒られ「あの坂道をのぼって帰ってこれたんだから学校まで行けたはずだ」と言われ、ランドセルをかるったまま家の廊下を発作が出た状態で何往復も歩かされた。
幸い、坂道の途中にある家のおばちゃんが苦しそうに歩いてた私の姿を見かけたらしく、心配してくれて家まで来てくれた。
「お宅のお嬢ちゃん、すごく苦しそうにしてたから気になって」と、言いに来てくれ、母も「もう歩かなくていい」と言ってくれた。
発作がでると会話も出来ない。
だから母もわからなかったのかな。
というより、必死だったのだろう。
今ならわかるよ、お母さん。
一生懸命、乗り越えさせようとしてくれてたんやね。
短距離なら得意だったけど、やはり体力がなくマラソンは学年中で最下位くらい。
でも私にも転機が来た。
小学4年の時に夏休みの短期集中でのスイミング。
カナヅチだった私に当時の担任の先生がすすめてくれた。
1週間の集中講座は地獄で、スパルタだったが、少し泳げるようになった。
でも、それと同時に肺炎になった。
夏休み明け、しばらく学校に行けなかった。
そんな私ですが、それを機に喘息発作はでなくなった。
中学では学校一厳しいと言われる部活で3年間頑張れた。1時間マラソンや100回スクワットは当たり前。毎日「うちら何部?」と思う日々で、他の部の人達から「筋肉部」とからかわれたり。
でも、それが自信に繋がった。
何が言いたいかというと、母の厳しさのおかげかなって思うのです。
私の喘息はJIJIよりも重度だった。
だけどね、母は無頓着な人で、今ほど情報が飛び交ってなかったこともあり、特別扱いすぎずに(かなり厳しかったけど)育ててくれた。
私はJIJIが喘息と診断されて、いろいろ調べて、、私は重度だったのだと初めて知ったくらい
母の厳しさの中にはいろいろな気持ちがあって、それがわかるまで随分と時間がかかったなぁ。
母に当時の事を聞いても「そんなこともあったかねぇ? 私はなんでもすぐに忘れるけねぇ」と笑い飛ばされる。
母らしい答えだ。
私は今どうなんだろう。
悩みまくりだ。
最善の方法もわからず、手探り中。
でも、育児の結果なんてすぐには出ない。
だから精一杯悩んでみることにする。
喘息が出るのは決まって月曜日。
夜は発作が出て横になることが出来ず、呼吸が苦しくてヒューヒューしてる私の上体を起こし、ずっと背中をさすってくれていた。
小児科からは乾布摩擦などをすすめられ、実行したがまるで効果なし。
母も随分と悩んだんだろう。
月曜日に出る喘息。精神的なものもあると思ったのか、発作が出て歩くのも苦しい私を学校まで行かせたり。
学校までは1キロあった。
しかも学校は山の上にあり、階段をたくさんのぼらなければいけなかった。
呼吸が苦しくて、自然と顎が上にあがる。
ヒューヒュー、ゼイゼイ、いいながら階段をのぼる姿は、同じ小学生達から見て異常だったらしく、指を指されて笑われたり、真似されたり。
でも、そんなこと気にしてる場合じゃないくらい息が苦しかった。
私の実家も山の上だった。
この日も喘息の発作が出てたが、休ませてはもらえなかった。
でも近所の坂道をおりた後に、学校まで辿り着けない…と思い、家まで帰る為に坂道をのぼった。
家に帰ると母に怒られ「あの坂道をのぼって帰ってこれたんだから学校まで行けたはずだ」と言われ、ランドセルをかるったまま家の廊下を発作が出た状態で何往復も歩かされた。
幸い、坂道の途中にある家のおばちゃんが苦しそうに歩いてた私の姿を見かけたらしく、心配してくれて家まで来てくれた。
「お宅のお嬢ちゃん、すごく苦しそうにしてたから気になって」と、言いに来てくれ、母も「もう歩かなくていい」と言ってくれた。
発作がでると会話も出来ない。
だから母もわからなかったのかな。
というより、必死だったのだろう。
今ならわかるよ、お母さん。
一生懸命、乗り越えさせようとしてくれてたんやね。
短距離なら得意だったけど、やはり体力がなくマラソンは学年中で最下位くらい。
でも私にも転機が来た。
小学4年の時に夏休みの短期集中でのスイミング。
カナヅチだった私に当時の担任の先生がすすめてくれた。
1週間の集中講座は地獄で、スパルタだったが、少し泳げるようになった。
でも、それと同時に肺炎になった。
夏休み明け、しばらく学校に行けなかった。
そんな私ですが、それを機に喘息発作はでなくなった。
中学では学校一厳しいと言われる部活で3年間頑張れた。1時間マラソンや100回スクワットは当たり前。毎日「うちら何部?」と思う日々で、他の部の人達から「筋肉部」とからかわれたり。
でも、それが自信に繋がった。
何が言いたいかというと、母の厳しさのおかげかなって思うのです。
私の喘息はJIJIよりも重度だった。
だけどね、母は無頓着な人で、今ほど情報が飛び交ってなかったこともあり、特別扱いすぎずに(かなり厳しかったけど)育ててくれた。
私はJIJIが喘息と診断されて、いろいろ調べて、、私は重度だったのだと初めて知ったくらい

母の厳しさの中にはいろいろな気持ちがあって、それがわかるまで随分と時間がかかったなぁ。
母に当時の事を聞いても「そんなこともあったかねぇ? 私はなんでもすぐに忘れるけねぇ」と笑い飛ばされる。
母らしい答えだ。
私は今どうなんだろう。
悩みまくりだ。
最善の方法もわからず、手探り中。
でも、育児の結果なんてすぐには出ない。
だから精一杯悩んでみることにする。