大和浪漫

私、瓜亀仙人が奈良・大和路の社寺や自然、生活の様子などをお伝えしたいと思います。

稲むらの火のこと

2009年08月11日 | 和歌山県
今朝は大雨の音で目が覚めた。
台風9号は去って行ったが、N盆地には大雨が降り、大雨洪水警報が発令されたのだ。
TVを点けると地震のニュース。
静岡で大きな地震が揺ったとのこと。
私は寝ていて分からなかったけど、Nも少し揺れたらしい。
我が家が地震に強いから? それとも私が鈍感なのか?
「地震」と聞くと連想するのは「稲むらの火」のこと。
和歌山へ鯨を見に行った時、高速道路の横にその看板を見た。
今度、和歌山へ行くことがあったら、広川町を散策してみたいなぁ~
南海地震、いつ来るんやろか?

※「稲むらの火」について
1854年(安政元年)12月の夕刻、紀州の広村(和歌山県有田郡広川町)は大きな地震(安政南海地震)とそれに伴う津波に襲われた。広村は、36名の死者を出し、被害にあわなかった家は1軒もないほど大きな打撃を受けた。
このとき、当時35歳の浜口梧陵(本名、儀兵衛)は、暗闇の中で逃げ遅れた村人を救うために、道筋にあった水田の稲むら(脱穀した後の稲わらを積み重ねたもの)に松明で火をつけ、高台にある広八幡神社の境内に導いて村人の命を救った。
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、1896年(明治29年)の三陸沖地震の津波被害の惨状と、伝え聞いていたこの話を取材して、「生ける神」(“A Living God”)という短編小説を書いた。
その後、地元出身の小学校教員中井常蔵により小学校国語教材「稲むらの火」として書き改められ、1937年(昭和12年)から10年間、5年生用の小学国語読本に掲載された。
その内容は、五兵衛という老人が、大きな地震の後に海水面が引くのをみて津波の襲来を予測し、何も気づいていない村人に異変を知らせるため、稲むらに火をつけ、高台に誘導したというもの。
浜口梧陵の偉業は津波から村人を救っただけではなかった。地震と津波で倒壊した村人の家屋を再建し、村の「百年の安堵をはかる」ため、私財を投じて高さ約5m、長さ約600mの堤防(国指定史跡「広村堤防」)を築くという土木工事を行って、被災した村人に仕事を与えた。この堤防は、約80年後に発生した昭和南海地震(1946年(昭和21年))の津波から多くの住民を守ったという。
「写真;高速道路で見た「稲むらの火」の看板」



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