ベッキーさんシリーズ3作目にして完結編。
これで直木賞を貰ったらしい。ようやく。
わたしは北村薫が直木賞を取るのは遅すぎたと思う。
――余談だが、直木賞って新人に与えられる建前の賞だったんですってね。
わたしは数年前に知った。北村薫が直木賞を取ったのが2009年だから、
もしかしたらその頃かもしれんけど。
芥川賞は新人賞の部分を残しているけど、直木賞にはないですね。
しかもこの作品で直木賞ってのはイタイなあ。
これ、シリーズ3作目ですからね。シリーズとして受賞したらまだしも、
「鷺と雪」で受賞したら、これだけを読む層もたくさんいるじゃないですか。
シリーズとして全部読んでも微妙なのに、3冊目だけ読んで面白いわけがない。
わたしは2002年……くらいまでの北村薫は全部ツブした。当時大好きだった。
「円紫さんと私シリーズ」や「覆面作家シリーズ」など、何度読み返したことだろう。
大好きな作家だった。
が、北村薫は微妙な位置にいる作家だと思う。
本人、ミステリが好き。そして文学が好き。
文学に寄りがちなミステリ、ミステリに寄りがちな文学。
エンターテインメントのど真ん中のミステリと、我の最たるものである文学。
お互いの位置が遠すぎて、相容れない。
北村薫はいさぎよく、ミステリはミステリ、文学は文学、とジャンルを分けて
書いた方が良かったんじゃないかなあ。
わたしの好きな初期の作品群は、うっすらと文学をまとったミステリとして
すごく気持ちがいい位置にいた。
が、年を経て、北村薫が書きたいことを書くようになると、
そのバランスが崩れて文学に寄りがちなミステリになって、
……それが成功しているとはいえない気がする。
目指しているのはミステリと文学の融合なのだろうけど、
それはすごく難しいことなのだと思うのよ。
そしてどっちつかずになった時の作品は、力を持たない。
――と、いうことを考えているんだけど、2002年(頃)以降の作品を
あまり読んでないわたしが言えることではありませんでしたな。
今後順次つぶしていくので、読んでいくに従ってどうなっていくのか。
※※※※※※※※※※※※
「鷺と雪」は……まあまあ。
1作目の「街の灯」は久々の北村薫ということでテンションが上がった。
2作目の「玻璃の天」はそのミステリ的な仕掛けに疑問を感じた。
3作目は、ここに着地点を持ってくるのか……というところで、
そこが美点でもあり、欠点でもあるような気がしている。
歴史を背景として取り入れる場合、どの程度が一番効果的なのか、
考えどころだなあ。
最近読んだ蜂谷涼、あの人なんかは背景と割り切っていた。
今回の北村薫は、最後の締めに持ってきていて、……でもそれが
十全の効果をもたらしているかというと、わたしはそうは思わないなー。
むしろ大トリに持って来たことによって、肩透かしと思う読者もいるだろう。
まあ好き好きだが。
ベッキーさんを運転手にしたことが効果的だとは思わないんだよ。
当時珍しい女運転手、才色兼備、本当の身分、という部分は良いんだけど、
お嬢様と運転手という立場は、近いようで遠いようでやっぱり遠い。
家の中でお嬢様のそばに常時いられるわけではないってことがネック。
なので、家族で過ごすシーンが多いこの作品では、そこにベッキーさんの姿はない。
安易だけど家庭教師か小間使いにしたら、もっとベッキーさんを描けただろうし、
話も無理がなかったと思う。
運転手という立場では活躍出来る場に制限があった。
運転手ならでは、という場面もないではなかったけど。
しかし陰に隠れてさっと動くという形になるから、主人公と読み手は
驚かされるばかりで、一緒に楽しめることが少なかった。
「円紫さんと私シリーズ」に似た「ベッキーさんシリーズ」だった。
久々に巡り合った、わたしが好きだった頃の北村薫でうれしかった。
でもどちらが好きかといえば前者で、前者と同じくらい好きになれる作品は、
もう北村薫は書かないのではないかなと思うとさびしい。
それはこちらの感受性の問題でもあるけれども。
これで直木賞を貰ったらしい。ようやく。
わたしは北村薫が直木賞を取るのは遅すぎたと思う。
――余談だが、直木賞って新人に与えられる建前の賞だったんですってね。
わたしは数年前に知った。北村薫が直木賞を取ったのが2009年だから、
もしかしたらその頃かもしれんけど。
芥川賞は新人賞の部分を残しているけど、直木賞にはないですね。
しかもこの作品で直木賞ってのはイタイなあ。
これ、シリーズ3作目ですからね。シリーズとして受賞したらまだしも、
「鷺と雪」で受賞したら、これだけを読む層もたくさんいるじゃないですか。
シリーズとして全部読んでも微妙なのに、3冊目だけ読んで面白いわけがない。
わたしは2002年……くらいまでの北村薫は全部ツブした。当時大好きだった。
「円紫さんと私シリーズ」や「覆面作家シリーズ」など、何度読み返したことだろう。
大好きな作家だった。
が、北村薫は微妙な位置にいる作家だと思う。
本人、ミステリが好き。そして文学が好き。
文学に寄りがちなミステリ、ミステリに寄りがちな文学。
エンターテインメントのど真ん中のミステリと、我の最たるものである文学。
お互いの位置が遠すぎて、相容れない。
北村薫はいさぎよく、ミステリはミステリ、文学は文学、とジャンルを分けて
書いた方が良かったんじゃないかなあ。
わたしの好きな初期の作品群は、うっすらと文学をまとったミステリとして
すごく気持ちがいい位置にいた。
が、年を経て、北村薫が書きたいことを書くようになると、
そのバランスが崩れて文学に寄りがちなミステリになって、
……それが成功しているとはいえない気がする。
目指しているのはミステリと文学の融合なのだろうけど、
それはすごく難しいことなのだと思うのよ。
そしてどっちつかずになった時の作品は、力を持たない。
――と、いうことを考えているんだけど、2002年(頃)以降の作品を
あまり読んでないわたしが言えることではありませんでしたな。
今後順次つぶしていくので、読んでいくに従ってどうなっていくのか。
※※※※※※※※※※※※
「鷺と雪」は……まあまあ。
1作目の「街の灯」は久々の北村薫ということでテンションが上がった。
2作目の「玻璃の天」はそのミステリ的な仕掛けに疑問を感じた。
3作目は、ここに着地点を持ってくるのか……というところで、
そこが美点でもあり、欠点でもあるような気がしている。
歴史を背景として取り入れる場合、どの程度が一番効果的なのか、
考えどころだなあ。
最近読んだ蜂谷涼、あの人なんかは背景と割り切っていた。
今回の北村薫は、最後の締めに持ってきていて、……でもそれが
十全の効果をもたらしているかというと、わたしはそうは思わないなー。
むしろ大トリに持って来たことによって、肩透かしと思う読者もいるだろう。
まあ好き好きだが。
ベッキーさんを運転手にしたことが効果的だとは思わないんだよ。
当時珍しい女運転手、才色兼備、本当の身分、という部分は良いんだけど、
お嬢様と運転手という立場は、近いようで遠いようでやっぱり遠い。
家の中でお嬢様のそばに常時いられるわけではないってことがネック。
なので、家族で過ごすシーンが多いこの作品では、そこにベッキーさんの姿はない。
安易だけど家庭教師か小間使いにしたら、もっとベッキーさんを描けただろうし、
話も無理がなかったと思う。
運転手という立場では活躍出来る場に制限があった。
運転手ならでは、という場面もないではなかったけど。
しかし陰に隠れてさっと動くという形になるから、主人公と読み手は
驚かされるばかりで、一緒に楽しめることが少なかった。
「円紫さんと私シリーズ」に似た「ベッキーさんシリーズ」だった。
久々に巡り合った、わたしが好きだった頃の北村薫でうれしかった。
でもどちらが好きかといえば前者で、前者と同じくらい好きになれる作品は、
もう北村薫は書かないのではないかなと思うとさびしい。
それはこちらの感受性の問題でもあるけれども。
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