goo blog サービス終了のお知らせ 

子ども2人不登校でした


不登校からニートとなった息子の母のブログ☆

回想その13 〜毒子散財する〜

2022-02-28 21:57:00 | 回想
毒子に「成人式の振袖を買ってあげる」と言われた時

私は「成人式出ないから要らない」と答えた。

ひねくれていた私は、成人式に振袖を着るという呉服屋の商業主義に乗せられるのは愚かだと思っていた。

それに、小学校単位で開かれる成人式には行く気がしなかった。会いたい人もいなかった。

そして1番の理由は、そんな高い物買ってもらったら悪いと思ったからだ。

私は子どもの頃から毒子に「うちにはお金がない」と聞かされて育ってきた。

私が幼い頃、毒子は家でボタン付けの内職をしていた。わたしが1人で留守番できるくらいの年になると、毒子はパートに出かけた。

節約して家計をやりくりして大変だったのは事実なのだろう。

しかし、私が大学に入った頃には友蔵は出世していて給料は上がっていただろうし、子どもたちは2人とも自宅から国立大学に通っていたので、仕送りも必要なく、学費は安いという、大変羨ましいご身分となっていた。


毒子はその頃はとっくにパートをやめ、カラオケや刺繍などのカルチャーセンターに通っていた。

「奥さん会」と言われる、警察官の妻の交流会があった。署長クラスの奥さんの中には高級ブランドの服を着てくる人達がいたようだ。

「〇〇さんはアシダジュン、〇〇さんはピエール・カルダン、〇〇さんはいつもレリアン」

毒子は高級ブティックの常連となり、張り合うように高級ブランドの服を買うようになった。

ある日毒子は「ホリが私を無視した!」と店員の名を呼び捨てにして怒っていた。

いつも毒子にすり寄ってチヤホヤしてくるホリという店員が、他の客の相手ばかりして自分の方に寄って来なかったと言うのだ。

それは毒子よりも上得意な客が来ていたのだろうと誰でも分かることだが、毒子は怒りが収まらない様子で「もうあんな店では二度と買い物しない!」と怒っていた。

あんたは何様や…

毒子は始終こんな感じである。

その高級ブティックで服を買わなくなったのはいいが、今度毒子がハマったのは着物だった。

ある日のこと、成人式はもう済んでしまったのに、毒子が私の振袖を買うと言ってきた。

次の年の成人式用に開かれた、振袖の反物の大掛かりな展示会に連れて行かれた。

そこには呉服屋の主人が待ち構えていて、私は鏡の前に立たせられた。呉服屋が次々と持ってくる反物を、流れ作業のように毒子が私の体に充てがっていった。

「やっぱりuparinには赤が似合う」と言い、振袖を選んだのは毒子だった。呉服屋は隣で毒子の趣味を褒め称えていた。

その振袖がいくらしたのかはっきり聞いていないが、結構な値段だったようだ。

成人式は終わっていたが、振袖は大学の卒業式の謝恩会や友人の結婚式に活躍することとなった。

それ以来、呉服屋がしょっちゅう家に来るようになった。

毒子は自分の着物も買っていたようだが、着物を着る機会なんて滅多にないので一、二着買ったらもう必要がない。

呉服屋のターゲットは私だったようだ。

娘さんの嫁入りに着物を揃えないといけないという口車に乗せられ、まだ将来結婚するかどうかも分からない学生の私に、毒子は次々と着物をあつらえていたのだ。

当時の私はそんなことは知らなかったのだが、毒子が呉服屋主催のバス旅行にしょっちゅう行っていたのは覚えている。着物を買うと招待されるようだった。

私が嫁入りに持ってきた箪笥の中には、一度も袖を通したことのないたくさんの着物が仕付け糸がついたまま眠っている。

何を考えてこんなに着物を買ったのかと呆れる。総額何百万円になるのだろうか…

今売っても二束三文にしかならないのに。

このお金は友蔵が働いたお金だ。

そりゃ、毒子も家事労働はしてきたには違いないが

友蔵の給料は毒子が吸い上げて、友蔵は小遣いをもらっている。年金生活となった今でもそれは同じだ。

毒子は私が子どもの頃は「あんな男とは離婚する!離婚する!」といつも言っていた。

「あんた達(兄と私)がいるから離婚できない」とも言われた。

子ども達が成人したんだから離婚すればいいものを、毒子の「離婚する」は口先だけだった。

そりゃ、離婚したら呉服屋にチヤホヤされて着物を買いまくる道楽なんてとてもできないからね。

友蔵のお陰で贅沢ができるのに、生活が豊かになっても毒子の友蔵への悪口は止まなかった。

しかし、この頃は友蔵があまり相手にしなくなったのか、若い頃のような激しい喧嘩はなくなっていた。

ある日、県警の広報誌に友蔵のプロフィールが載っているのを目にした。

好きな漢字は『忍』と書いてあった。

『忍』の意味は『がまんする』『じっとこらえる』

友蔵は毒子にいつも我慢しているんだと思い、すごく腑に落ちた。




タイムマシンがあったら結婚前の友蔵に会いに行って言ってやりたいよ。

あの女と結婚するのだけはやめなさい!!と。

そうしたら私も生まれていなかった。

私が生まれていないのは全然構わないが、

長男やニイト君も生まれて来なくなるなぁと思うと複雑な気持ちがする








長々と愚痴りましたが

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

もう少しお付き合いくださいませ💦





回想その12〜洗脳が解けた瞬間〜

2022-02-26 22:29:00 | 回想
大学一年の夏休みのこと

友蔵の車でドライブに出かけた。

ここで初めて明かすが、友蔵の職業は警察官だった。

仕事一筋だった友蔵は高卒の叩き上げで巡査から地道に出世し、この頃には田舎の小さな警察署の署長になっていた。

家庭内の地位は毒子により低められていたが、社会的な地位は着々と築いていたのだった。

友蔵が私を単身赴任先の近くの滝を見に連れて行ってくれると言い、私は暇な大学生だったので断る理由もなく、付き合うことにした。

その道中のことだ。

山道でバイクが故障して立ち往生している中年男性がいた。

友蔵は車を停めてその人に声をかけた。

そして、その人を乗せて目的地まで車で送り届けた。

その中年男性は友蔵に、とても助かったとお礼を言い、財布から千円札を数枚出して渡そうとした。

友蔵は「そんなのは受け取れない」と断ったが、その人も「これは気持ちだから受け取って欲しい」と引き下がらなかった。

しばらく「受け取れない」「受け取ってくれ」と押し問答していたが

友蔵は頑として受け取らず、結局その人が折れて深々とお礼を言って去って行った。

私はその光景を目の当たりにして

(あれ?友蔵、ええ人やん)

と思った。

今思えば、非番とはいえ警察官として当たり前のことをしただけなのだが

子どもの頃から友蔵が『悪人』であるかのように毒子から吹き込まれてきた私は、

それまで抱いていた友蔵像がガラガラと音を立てて崩れるのを感じた。

まさに、洗脳が解けた瞬間だった。



友蔵は誰の悪口も言わない。

自分の自慢をしない。

クソがつくほど真面目。

法定速度は厳守。(よく渋滞のヌシになる)

一滴でもお酒を飲んだら運転しない。
(今は当たり前だが、この頃はお酒を飲んでも運転する人が多かった)

浮気もしない

ギャンブルもやらない

働いたお金をちゃんと家に入れている

まじめに働いて出世して、警察署長にまでなった。

なのに、毒子からはボロクソに言われている。




毒子が私にこんなことを言ってきたことがある。

私が小1の時の作文に、「うちにはぼうりょくだんがいます」と書いたのだそうだ。

「暴力団」というのは友蔵のことだが、担任の先生が赤ペンで「何のことか先生にはわかりません」とコメントを書いていたと。

毒子は「あんた覚えてないの?」と言ってケッケッと笑った。

私はそんなことは全く覚えておらず、それを聞いて恥ずかしくなった。

『暴力団』という言葉を小1の少女が知るわけがないので、それは毒子が私に「お父さんは暴力団みたいや」と教えたのだ。

私が母親だったら子どもがそんな作文を書いたら先生に対して恥ずかしいし

子どもにそんな思いをさせていたのかと心を痛めるだろう。

しかし、毒子はケッケッと愉快そうに笑っていた。

警察官の父親を子どもに『暴力団』と教える神経が私には分からない。

私は見ていないが、友蔵は毒子に暴力を振るったことがあるのだろう。

しかしそれは毒子の口の暴力に対抗しただけだったのに違いない。

実際、毒子に激昂して友蔵が包丁を持ち出してきたことがある。

その時は本当に恐ろしかったが、友蔵は直ぐに包丁を手から離した。

刺し殺したいほど憎かったのか、

ヒステリックに友蔵を罵り続ける毒子を黙らせるために脅してみただけなのか…



毒子は友蔵の前で平気で友蔵の実家の悪口を言う。

若い頃、友蔵の給料が安くて生活がカツカツだったと言う。子どもの給料が安かったら普通は親が援助するのに、友蔵の実家は何も援助をしてくれず、毒子の実家から援助を受けたという話は何度も聞かされた。

友蔵の実家は山や田畑をたくさん持っているのにケチだと。

私にはまるで毒子が友蔵の実家の財産目当てで結婚したかのように聞こえた。

そして友蔵の母親(私の祖母)の悪口もよく言っていた。

もしも私が友蔵だったら、毒子を殴りたくなっただろう。

もちろん、友蔵にも悪いところはあるだろうが

友蔵と毒子、どちらが『悪人』かと問われたら

今の私は迷わず「毒子」と答える。













回想その11〜大学合格と食事会〜

2022-02-25 23:28:00 | 回想
結局、共通一次の総合点は 地元の大学に入るのにちょうど良い点数だった。

二次試験で挽回できる自信もなかったので、第一志望校を諦め、地元の大学に願書を出した。

二次試験の勉強は全くやる気が起こらなかったが、無事に合格した。

かくして、下宿して家を脱出するという2年越しの私の策略は失敗に終わった。

私は大学受験を『敗北』と思っていたのだが、友蔵と毒子はそんなことはつゆも思わなかったようだ。

なぜなら私の合格祝いに豪華な食事会が開かれたからだ。

私の記憶では、子供の頃に家族で外食したことなんて片手で数えても指が余るくらいだ。
少なくとも、中高時代には一度もなかった。

それなのに、いきなり地元で一番格式の高いホテルのフランス料理のディナー🍽に連れて行かれたのだ

今になり親の立場で考えると、友蔵と毒子はよほど嬉しかったのだろう。

塾も行かずに自分で勝手に勉強して、県立高校から国立大学に合格したなんて

しかも大学は自転車で通える距離だから下宿代も交通費も要らない。

何というコスパの良い娘だ!!

私が親だったら大喜びだよ💢

毒親の元から飛び出したいと必死に勉強した結果、毒親を喜ばせてしまうことになるとは、何という皮肉…



毒子は私に入学式のスーツのほかに、高級ホテルのディナーを食べに行くのに恥ずかしくないようなワンピースを買ってくれた。

モノトーンで細かい千鳥模様のワンピースを着て、友蔵と毒子と3人で、高級フレンチのコースを食べに行った。

そこに兄がいないことに、当時の私は何も思わなかった。

あんな家庭で育ったから仕方がないと思うが、兄は私よりもコミュ障で変人だったので、誘われても来なかっただろう。

しかし、今思い返すと兄が大学合格した時はお祝いの食事会など開かれなかった。兄はきっと面白くなかっただろう。




家ではいつも口汚く罵り合っている友蔵と毒子が、レストランではよそ行きの顔をして普通の夫婦のように振る舞っていた。

毒子は「私はテーブルマナーを高校で習ったから知っている」と自慢して、フォークとスプーンは外側から順番に使うのだと勿体ぶって教えた。

友蔵はフランス料理なんぞ初めて食べたかのようにぎこちなくガチャガチャ音を立ててフォークとナイフを使っていた。

もちろん私も初めてのフランス料理だった。

ウェイターの前で上流家庭のふりは流石に無理だが、ふだん喧嘩などしない普通の家族の芝居をしているようだった。

とても変な感じがしたが、私はそのような芝居は嫌ではなかった。





続く








回想その10 大学受験

2022-02-24 20:32:00 | 回想
下宿して家を出たいという一心で

高2から脇目もふらずに勉強を始めたのに

高3で邪魔が入り、模試の成績は落ちていた。

志望校にはあと少し手が届かない感じだった。

しかし、共通一次で◯◯点以上獲れたら志望校を狙えると思っていた。

模試や過去問の結果から本番の点数を予測した。

英語と数学は安定した点数が取れ、国語は問題による。物理、化学はまあまあ。

私が苦手なのは社会科。特に世界史が大苦手だった。

小学生の時に『ベルサイユのばら』が大好きで、フランス革命の知識が少しあるという理由で世界史を選択したことをとても後悔していた。

フランス革命なんて世界史の膨大な範囲のほんのわずかで、ベルばらの知識は全く役に立たなかった😓

直前に点数を上げる可能性があるのは暗記科目だと考えた。

共通一次の直前は、理系なのに世界史ばかり勉強した。





そして共通一次を迎えた。

世界史は予想より出来たのに

得意だったはずの数学でコケた。

もう終わりだ…



共通一次の2日目の帰り、駅のトイレに駆け込んだ。

トイレの扉を閉め鍵をかけた瞬間、堪えていた涙がポロポロと流れ出した。

和式便器にしゃがみ込み、声を押し殺して号泣した。

ヒックヒック、いつまでもしゃくり上げた。

志望校は絶対に無理だと思った。


こんなに悔し泣きするのは、小5のあの時以来だ。

『わかっているのに発表しないのは卑怯』とクラスみんなの前で教師に叱責され

床に突っ伏して泣いたあの日…




長い間、駅のトイレを占領してしまった。



泣き腫らした目は家に帰ってもまだ熱を持っていたが


私は毒子の前ではまた平静を装い、何食わぬ態度を取った。


11歳だったあの日と何ら変わらなかった。










まだ続く



回想その9〜懲りない男Y〜

2022-02-23 16:40:00 | 回想
私は男女交際というものは、
『付き合ってください』と言われて、それを承諾して初めて始まるものだと思っていた。

私はYから付き合って欲しいと言われたことはない。もっともそう言われたら断っていた。

毎日一緒に帰って、時々喫茶店に入ったり、日曜日に電車で出かけたり、手までつないだら、私たちは第三者から見たら『付き合っている』と思われても仕方がない。

(違う。私はYとは付き合っているわけではない)

いつ、どの時点で、どうすればよかったのだろう。私はYが初めて声をかけてきた時まで遡って考えを巡らせた。
ついて来ないでと言えばよかったのか。
喫茶店へ行くべきではなかったのか…

日曜日に一緒に電車で出かけた後、Yはますます図に乗ってきた。

Yの友達の〇〇が何組の〇〇さんと一緒にラブホテルに行ったと私に言ってきた。

私は不快になった。

Yはこうも言った。

『俺はオアズケを食らっている犬だな』

私はYが嫌になった。

嫌になり出すともう止まらなかった。

どうやったらYに『私たちが付き合っていない』ことを分かってもらえるだろう。

私は悩んで勉強が手につかなくなった。

高2の時は順調に上昇していた校内順位が高3から下降し始めた。

(あいつのせいだ)

私はYのせいにしたが、高3になって他の生徒たちが真剣に勉強し始めたからだということも分かっていた。




私はYがいつも待ち伏せして合流してくる道を避けて、遠回りして帰ることにした。

あいつは今日も待ち伏せしているだろう。約束したわけでもなんでもないのだ。あいつが勝手に付いてくるだけなのだ。

どの道から帰ろうと私の勝手だ。可哀想なんて思ってはいけない。
私は心に言い聞かせた。

最初からこうすれば良かったのだと思う反面、どうしてあいつのために私が遠回りしないといけないのかと腹が立った。

しかし、Yは懲りない男だった。

避けられているというのに、電話をかけてきて、私のことを好きだと言った。

私は自分のどこが好きなのかと、以前から不思議に思っていたことを聞いてみた。

Yは最初、目が好きと言った。

そのあと、全部が好きと言い直した。

私はYからそう言われても鬱陶しいだけだった。



私はYに訣別の手紙を書くことにした。

便箋10枚近くに渡って長々と

自分がはっきりした態度を取らなかったので勘違いさせてしまったお詫びを混ぜ

自分はあなたと付き合っているつもりはないし、この先も付き合うつもりはないと書いた。

手紙を書くのに何時間もかかった。

こんなことしている場合じゃないのに!!

なぜ受験が迫っているのにこんなことに巻き込まれているのかと思うと、腹立たしかった。


手紙はYの家に郵便で送った。

手紙を受け取ったYは電話をしてきて、

「手紙は燃やした」と言った。

あんなに何時間もかけて書いた手紙を一瞬で燃やされたのかと少し悔しかったが、

よく考えればそんなものを後生大事に取っておかれてYの子孫が見つけたりしたものなら私も恥ずかしいから、燃やしてくれてよかった。



それからも、しばらくの間は学校から遠回りして帰っていたが、元の道に戻した。

Yはもう現れなくなった。

学校では会うけれど、もともとクラスの中ではお互いに知らん顔していた。

男女で会話する人はほとんどいないという変わった学校だった。

私とYのことも同級生にはあまり知られていなかったと思うが、Yは自分の友達には私と付き合っていると話していたようだ。

Yはまだ懲りていなかった。

「クリスマスにプレゼントを渡したい」と電話してきた。

家の前の公園で待っている。プレゼントを渡すだけで帰るから、これで最後にするから少しだけ出てきて欲しいと言った。

私は断った。

しかし、Yは出てくるまで何時間でも待っていると言った。

勝手にすればいいと思った。

私は家を出なかった。

2時間経ったか3時間経ったか分からないが

少し気になって家の前の公園に出てみた。

さすがにもういないだろうという予想は外れ、制服を着て首にマフラーを巻いたYの姿を見つけた。

外は寒かった。

馬鹿じゃないかと思った。

受験生なのに、こんな大事な時期に何やってんだ。

Yは私にプレゼントを渡すだけで本当に帰って行った。

YがくれたプレゼントはRの文字が連なったブレスレットだった。

私のイニシャルはRじゃないのになぜRなのかと不思議に思った。それがロベルタというブランドのマークだと知ったのはずっと後のことだ。



それ以来Yは電話もして来なくなった。




やっと勉強に身を入れることができると思った。

しかし共通一次まであと1か月くらいしか日にちは残されていなかった。






続く