(新版)お魚と山と琵琶湖オオナマズの日々

補聴器を通じて聞こえる音は、残念ながら、世界のすべての音ではない。障害があると、残念ながら「世界が狭くなる」のが現実だ。

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2014年02月22日 20時36分48秒 | 政治的なこといろいろ
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短編小説 (東野 重富美)
2019-04-21 17:56:36
以前にも短編小説投稿しましたが、懲りずに又お送りします

信長は、光秀を呼んだ。
「ぬしに、丹波攻略を命じる」
 例によって言葉が短い。
「はっ」
「ついては藤孝が、おれば何かと便利であろう」
「策が練れれば、藤孝と共にまいれ」
 光秀は、信長の慧眼にはいつもの事ながら、感ぜぬには居られない。
 丹波は、はるか昔細川家の領地でもあったところである。
 光秀は、信長の冷酷さほどではないが、冷徹な頭脳を持ち合わせている。そして他の武将より知識と学を持ち合わせている。
 さらに、鉄砲に関しては、信長さえも畏怖する腕をも持っている。
 坂本に戻った光秀は一人居室に閉じこもった。
 信長には光秀に期待すること大であった。他の武将と違い、使えば使うほどその使いがいのある人間であるからである。
 やがて夕刻に近いころ、藤孝と共に光秀は信長のもとに参上した。
 この頃はまだ岐阜城である。
「策は練れたか」
 光秀は言上した。
「良かろう さすればそのほう共姻戚になれ光秀の娘玉と藤孝の嫡子忠興を娶わせろ わしが間を取り持とう」
「ははっ」
「光秀、その方だけわしと共に別室にまいれ」 信長はそう言うと、光秀を連れて行った。
 外からは何を話しているのか解らない。小声で密談していたことには変わりない。
 しかしその秘事は次なる戦の作戦であったであろうということしか憶測できない。
やがて二人はその部屋から出てきた。
「二人の縁組は明日にでも執り行う帰って支度せよ」
「かしこまって御座る」
「しかし、ぬしはなかなか切れる頭を持っておるのう」
「信長さま程では御座りません。信長さまは、我らに欲する一を聞いて十を知れという事が自らお出来になる」
 信長は、カラカラと笑った。
「家臣の中でそれが出きるのは、ぬしと猿のみよ」
「では、明日藤孝ともども参上仕ります」
 光秀は退出した。
猿とは誰でもよく知っている、藤吉郎秀吉のことである。
 信長から見れば猿と金柑頭(光秀)ほど使い勝手のいい部下は無い。他の家臣どもは、自ら考えることの出来にくい木偶の棒みたいな者共であるゆえ、細かいところまで言わねばならず、適材適所とは言え頭を悩ませている。
 翌日光秀と藤孝は、藤孝の嫡子忠興と光秀の娘を連れ岐阜に参った。
 両子を娶わせた後数日して信長は二万数千の兵を連れ長篠へと向かった。
 兵には小荷駄隊に偽せた者があり、荷駄にはかなり長いものや、明らかに鉄砲と思しきものなども有るようであった。
 長篠、設楽原とも云い、あるみ原を挟んでいる。
 その行軍は、緩やかであった。
 天候は良くなく常に雨が降り続いていた。 時間をかけて家康の陣に到着した。
 浜松で家康と信長は陣立てについて図面を前に密議をしていた。
「しかしどうして勝頼をここにおびき出すかだ」
「それが課題だ」
 家康も思案投げ首のの態である。
 その間も外では馬防柵の設備が運ばれてきた岐阜の木の棒で組まれている。
 その時に酒井忠次が陣所にて、あまりにも畏まった風情で座り込んでいるのに気がついた信長は蚊を潰してつま先で弾いた。
 蚊は図面の鳶の巣山の所に飛んだ。
 はっと先に気づいたのは忠次であった。
 その後信長は、軍議を解散した。忠次も退席しようと腰を浮かしかけた。
「忠次そちは残れ」
 信長の声がかかった。
「はっ」
「そちは気づいたみたいだな」
「家康、忠次の軍勢を借りるぞ」
「そちは鳶の巣山を攻めるのに如何程の軍勢を必要と考える」
「約一千か、一千五百程でと考えまする」
「少ない織田勢を三千ほど貸す背後から夜襲せよ」
「さすがは、織田殿恐れ入ります」
「直ちに準備せよ」
 そう言うと追従してきた秀吉の軍勢から三千の兵を貸し与えた。
 払暁合戦が始まった頃を見計らって、杯を含ませた、酒井忠次の兵が鳶の巣山の裏手から忍び寄り一斉に襲い掛かった。 不意を衝かれた武田の兵が気がついた時には遅く、死傷者を出し算を乱して壊滅した。 鳶の巣山での合戦は武田軍に衝撃を与えた。 進むしか方法が無いと、捉えるか。
 もしくは、部分的にでも突撃して何とか打開策をとるか。
 しかし信長は両方に対しても万全の方策を考えていた。
 それは馬防柵の張り巡らし方に工夫を凝らしていた。
 
 夜が白々と明け染める時部分的に晴れ間が顔を覗かせていた。
 武田軍の眼に見える光景は、真正面に見える連吾川の対岸に織徳連合軍が馬防柵の三段目の後ろに整然と並んでいる姿であった。
 それも鶴翼の陣を大規模にした形であった。 それを見た信玄以来の老将はすべてを悟った。
 敵の足軽隊が手にしているのは、種子島銃である。
 過去信玄は、鶴翼の陣を使い石つぶてを投げる戦法を使っていた。
 その時の事を覚えている老将はそれを鉄砲隊に置き換えている事、それも思いもよらぬ大規模な形であることに気がついたからであった。
 織田信長の合理的でしかも敵の戦法を応用するその頭脳に恐れをなした。
 これでは例え部分的に攻撃してももはや勝算は無い。
 信玄の戦法が、それを計算に入れての戦法であることは、老将が一番よく知っている事である。
「謀られた」
 それが武田の重臣の偽らざる本音であった。「勝頼に伝えよこの度は引くにしかず、すぐに攻撃すると見せかけ、順に撤退すべしと」
 伝令にそう告げたが、
 戻ってきた伝令は、
「臆するとは心外な、そのような大将は勝頼には、要らぬとの仰せで御座います」
 との返答に眉間に皴を寄せた。
「これはだめだ、この戦は負ける」
 心中歯噛みする思いで、僥倖さえあればと思い声をあげた。
「では、参るぞ叫べ者ども」
 大声を上げると、トウトウと押し太鼓を打ち鳴らし突撃を始めた。
 が、昨夜迄の雨で酷い泥濘である。
 難儀しながら、進めた所で連吾川が目の前で飛び越えようにも加速が付いてない為飛び越えられたのは、少しの人数で他のものは川に飛び込んでしまった。
 そこに種子島銃の一斉射撃がお見舞いした。それも三段撃ちである。馬の者は馬を殺られ川や地べたに投げ出され、徒歩で突撃しようにも二段目の一斉射撃でそれらが遣られ柵に取り掛かろうとした者が三段目の一斉射撃で遣られた。
 その時に鳶ヶ巣山で第二の銃音が、響いた。
「先手の山県勢は成ら成んだと見える、種子島銃のために。全員盾をを用意して掛かれ」 そう言うと弾除けの盾を構えて第二陣武田信康が突撃を開始した。
 足元の惨状に眼を奪われ怯んだ時に、頭上から一斉に矢が多量に降り注いできた。
 思わず持っていた盾でそれらの矢を防いだ時に胸と脇が開いた。
 その時を狙って一斉に種子島銃が火を噴いた。
 これは、先に安土城で信長が光秀と密議を凝らしたときに光秀が提案した作戦であった。 信長の頭の中で光秀の作戦の立案に満足すると同時に、さらに両脇を攻められた時にはどうするとも聞いた。
 光秀は即答した。前面程で無くとも良いが、槍衾を用意すれば良し。攻め立てて、柵の前面に武田勢を押し込めよ。
 と提案した。
 流石は光秀、よく見抜いておったわ。
 信長は、感嘆しながら次々に指令を飛ばしていった。
 銃弾を穿き返す為の盾が矢を防ぐ為に使われてしまった為に、間髪を入れずに放った種子島銃の為に第二陣の武田信康の陣も雪崩を打ったように壊滅した。
 三段撃ちの戦法は、無かったとの説もあり、また、三千丁の鉄砲の千という数字が脇に書かれている古文書も実在する為、未だに定説が確定しない恨みが有るが、堺に多量の鉄砲を発注している事は事実で、また織田軍で集められるだけ集めて布陣している事から、少ない量ではない事は言える。
 鉄砲隊の主戦力を担うのは、明智軍団から借りた鉄砲隊である。
 第三陣、第四陣次々と同じ戦法で殺られ、只事成らじと感じた馬場信春が、
「この度は、様子を見て退却すべし」
 勝頼に諫言したが、返って勝頼は激昂し、「今だ突破できぬ状態で諫言するとは何事だ」 と怒りをぶつけた。
「信玄公が見ればどう思しめさるか」
 そう呟くと諦めたように、
「されば後はどうなるかご自身で目されよ」 そう言うと、陣を率いて突撃を開始した。 次々と鉄砲で配下の者たちが殺られる中辛うじて柵まで辿り着き馬ごと柵に体当たりしたが、馬が倒れ柵はビクともしなかった。
 銃弾がみまなう中自ら自刃して果てた。
 ようやっと勝頼は床机から立ち上がり、あるみ原を望見した。
 累々と屍をさらしているのは武田軍ばかりである。
 仰天した勝頼は、さらに徒歩で攻めよと下知を下した。
 ほとんど鉄砲で殺られているのに徒歩で行けば格好の的である。
 案の定全滅し、退陣命令を下した時には遅かった。
 鉄砲隊が、隊列を組みながら三段撃ちを仕掛けてきて、前進してくるではないか。
「退け!鉄砲が届かぬ位に退け」
 しかし後塵を拝する部隊は、そうはいかず次々と鉄砲の餌食と成っていく。
 山間に逃げ込んだ武田勢を深追いせずに織徳連合軍は陣をとめた。
 この報を聞いた光秀は一人ニヤリと北曾笑んだ。
 自分が進言した作戦が、信長によって実現され、しかも信玄の陣法を大掛かりにした鉄砲の三段撃ち。そのほとんどが光秀の案によるものである。
 信長自身が考えたのは三段撃ちだけである。 長篠の合戦における勝利は信長と光秀との両者の案による勝利であった。
 ちなみに、この時代は兵農分離の進んだ織徳連合軍のような軍団と農閑期にしか軍を動かすことの出来ない兵農分離の出来てない地域とが、日本には存在してたのである。
 面白いことに現在の土建業と一部のケーブル工事が農繁期には減少するし、農閑期には多くなるのである。工事の下請け業者の実務者が、どういう処の出身者か、およそ見当がつくので面白い。

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