運命の不思議

運命の不思議さを感じる時があります。そんな時、なぜ?と思いませんか?

運気を邪魔するもの

2010-07-26 10:23:15 | 日記
日常の生活の中でも、運気を感じる時が往々にある。
ラッキーと感じる瞬間である。
宝くじが当たるとか、いい知らせが舞い込んでくるとか。
特に仕事上では、この運気は非常に重要である。

お店では、福を招くため、縁起物を置いたりする。

しかし、私は、経験上、この運気をだめにするものがあるような気がする。

運気が流れてこない。
何かが邪魔をしている。
あるいは、運気を逃してしまった。

これらは、運気を止めたりする何かが、自分の周りにあると信ずる。

運気は自分の感覚が、受け止めているのだが、その感覚が働かなくなるせいではないだろうか。

その感覚とは、何ぞや?

一つは逃げである。
一つは恐れである。

しかし、これらは自分の姿勢である。

それ以外にもう一つ、他人からの攻撃である。

恨み、怨念、・・・。

こんなものを持っている人間から遠ざかることである。

しかし、彼らからは簡単に逃げられない。

さあ、どうする?

恨み返すか?

私は、思う。
この時こそ、瞑想することである。
祈ることでもいい。

自分を無にし、自分の魂に自分のあり方を報告すること。
後は、魂が自らを守ってくれるであろう。

運命と夢

2010-07-23 10:58:17 | 日記
ブラジルの英語の先生の夢の話はご存知でしょうか?
この先生は、時々夢を見る。
それがかなりリアルな夢である。
どこそこの国で、事件や事故が起きるといういわゆる予知夢なのだ。

この先生は、目が覚めるとすぐに、見た夢のストーリーをノートに書き記す。

そして翌日には正式文章にして、公証人役場にその文章を登録し、その書類のコピーを、夢に出てきた当事者に送る。

事件・事故に注意するようにと。

この先生は、全世界の著名人に送っているという。

地震などの場合、その地域の知事に送るのだそうだ。

この先生の夢は確かに起きたという実績がいくつもあるという。

私はここに着目した。

実は夢の大部分は予知夢的要素が多分に含まれているのではないだろうかと。

脳科学者は言う。
夢は大脳の記憶の整理段階で、現れるものだと。

どうも、脳科学者の説にはあまり賛成できない。

長い歴史で、正夢になった話がたくさんあることから考え、夢は我々の運命を感じさせるのではないか?

すなわち、魂は時空を超えて存在するエネルギーだとしたら、まさに、魂が夢を通して、自分に何かを知らせているのだと解釈してもおかしくはない。

夢を見たら、何か気になることを書き残しておくことをお勧めする。

その夢の中に、自分の運命を決定する何かがあるはずである。

川崎大師に行くと、まさにそんな物語が書いてある。

川崎に住むある漁師の夢枕に観音様がスーッと立った。
そして、「明日の早朝、沖に出ていきなさい。そこに仏像が流れている。それを拾ってきなさい。」

その漁師は言われたままに、沖に出てみると、仏像が海に浮かんでいた。
それを、持ち帰り大事に安置したところから、川崎大師が始まる。

昔、弘法大師が唐の国に留学に行った際、自分で仏像を彫り、海に流したものだという。

200年後にこの漁師に拾われた仏像がそれだという。

細胞レベルの戦いを忘れるな

2010-07-22 11:12:02 | 日記
人間の祖先、すなわち、恐竜時代の哺乳類は、卵を生んで子孫を残していた。
しかし、いつの時代からか、これでは卵を食べられてしまうということで、卵を一定期間体内に残し、胎盤で子供を育てた。
その結果、地球の気候の大変動で、恐竜が絶滅したが、哺乳類は生き残った。

そのことは、以前にも書いたが、なぜ、卵を産む生物が胎盤を作ることができたのであろうか?

これは受精卵に意志が働き、受精卵自身が母親の子宮にへばりついて、栄養を吸収して言ったのであろう。

問題は、受精卵に意志があったのか?

通常はあるわけがない。

偶然か?

偶然であるわけがない。なぜなら、遺伝子なる設計図を残す仕組みを持っているのだから。

それでは神か?

そうではない。

受精卵の細胞一つに生きる意志があるのだ。

今我々の体は脳が全てをコントロールしているかのように思えるが、実際には、細胞一つ一つに生命の意志があり、それが脳を形成しているだけ。
すなわち、生命の実体は細胞単位であると考える。

人間の体の一部に、細菌やウィルスなどの外敵が現れたら、脳にその状態が知らされ、応援団の白血球が送り込まれる。

あるいは、体の一部が外傷を受けたときは、再生の指令が脳から出される。
そのときでも、どの部分が傷ついたかは、細胞レベルで情報が送られる。

我々が瞑想をするということは、細胞レベルの生命の意志に触れることだと思う。

細胞レベルの意志こそが魂。

その細胞レベルの意志には当然過去の記憶が残っている。

自分の生命に触れることこそ大事なのだ。

自分が自分を形成している細胞群に、指令を出す。

緊急事態発生。

今から、ここを脱出する。
準備をせよと。

そうでないと、眠った細胞群がいると、パワーが出ないのだ。

緊張感と生命

2010-07-21 12:10:33 | 日記
我々人類の祖先は、小さなねずみで恐竜時代を生き抜いてきた。
いつ恐竜に食べられるかわからない毎日である。
自分の子供や親が目の前で食べられる様を、ずーっと見続けてきた。

このままでは、自分たちは生き抜けない。
自分は変わらなければと感じ続けたことであろう。
少しずつの変化で、自分が変わっていった。

自分を変えるためには、恐竜からの恐怖が必要であった。

恐怖こそが、自分の魂を通して、自分を変えていったのだ。

人間にとって、この種の緊張感がいかに必要なのかは日常の生活を通してよく理解できる。

40年ものあいだサラリーマンとして働いた人が、リタイヤした途端、めっきり老けてしまい、
しゃきっとした生活ができないケースを多く見かける。

朝・昼・晩と出されたものを食べ、平穏に暮らし、時々旅行の計画を立てる程度では、生命力がなくなっていくのであろう。

人間の体の中では、細胞レベルで絶えず戦っている。

細菌やウィルスなどの外敵が侵入してきたら、まず、食細胞が反撃に出る。
また、白血球も自らを犠牲にし、外敵の弱点を知りその対策を講じる。

体の細部で戦っているのに、脳内に緊張感がなければ、指令が的確に出ることはない。

すなわち、免疫力が弱くなる。

かくして、人間の生命力はなくなるのだ。

日々の緊張感こそが生命力の原動力であることを我々は知らなければならない。

緊張感こそ、我々は率先して求めていかなければ、我々は死んでしまうのだ。

戦いこそが必要。

生きる目標を失ってはならない。

食べるものを探し回る意識を忘れてはならない。

恐竜の絶滅と哺乳類の戦い

2010-07-20 14:33:03 | 日記
今、NHKで“恐竜の絶滅と哺乳類の戦い”をやっている。
このスペシャル番組で、我々の知らないことがたくさん出てきた。

22億年前に恐竜が出現。
しかし、巨大隕石の地球への衝突で、火と津波と雲による影響で大半の恐竜は死んだ。
多分、大きな体を持ったものほど死んでいったのであろう。

しかし、そこで生き残ったものがいる。
生き残ったものは、水にすんでいた生き物。
ワニもその一つ。

地上では、人間の祖先が生き残った。
なぜなら、有胎盤類は子供をおなかの中で成長させることができたためと言われる。
もう一つは、有袋類。コアラやカンガルーの類。これも誕生間もない子供を自分の袋の中で育てるのだから、安全である。

また、鳥類も生き残った。しかし、羽で卵を守る種のみである。

自然の猛威から自分を守ることのできた種だけが残ったのだ。
多分偶然の出来事であったであろう。

恐竜は、体が大きく、食べ物がなくなれば、自然に死ぬ。また、卵を産みっぱなしだったから、卵も生き残ることができなかったのだ。

しかし、番組では、なぜ、胎盤ができたのか、あるいは、有袋類のような仕組みがそれぞれの体に出来上がったかまでは言及できなかった。

うまい表現をすれば、突然変異ですべてを説明しようとするのだろうが、本質的な説明はできない。

どのように、哺乳類は、卵を産む動物から有胎盤類に変化していったのであろうか?

受精卵が体内にできた時点で、それが胎盤として子宮の中に着床する必然はどこにあろうか?

そこには魂が介在しなければならない。

魂が着床できる仕組みを考え出したのだ。

なぜなら、人間がねずみのように小さい存在であった時代、いつも、恐竜に食べられる存在だった。

その恐れから、卵を対外に産む仕組みを否定し始めたのだ。

その場合、受精卵の魂が、子宮の中で着床する仕組みを考えたのだ。
それは、まさに植物の根が栄養を求めていくようにである。

寄生のシダが木の中に入り込み栄養を吸い取るかのごとくである。

母親の体が胎盤を作ったのではなく、受精卵が自分の根を張っていったのだ。

そこには魂の存在があったのだ。