運命の不思議

運命の不思議さを感じる時があります。そんな時、なぜ?と思いませんか?

私に代わって、手を挙げた

2010-08-02 11:50:54 | 日記
不思議体験

あるとき、大学の友だちに
「あたし出席日数が足りないから、単位が取れないかも。」
と心配そうに言ったら、一同微妙な顔。

友人・・・『なんかね、あなたの名前を先生が呼ぶ時にいつも代返する人がいるよって』
私・・・『え?ホント?誰かしら?』
友人・・・『いや、私の学科じゃないから知らないけど女の子だって』
私・・・「エーッ、気持ち悪いね~、・・・・」

一週間後、次のその授業でまた遅刻。
授業が終わってから先生のところに行くと、
「出席ぼには遅刻・欠席一つもなし」
と言う。

私がポカーンとしていると、先生が不思議がって、
「じゃあ、誰かが代返したの?」

「私は代返頼むことは絶対にしません。自分の責任で遅刻も欠席もしてます。」
と答えた。

しばらくして出席したその授業で、出欠席の確認のため、名前を読んでいた。

私の番が来たとき、声を出そうとした瞬間、

知らない人が手を挙げているんです。

顔の確認はできなかったが、姿かたちから見て、私の知り合いではなかった。

授業が終わり、その女の子の所に行こうと思ったが、なぜかそこにはその女の子はいなかった。

未だに、その子が誰だったかわからない。

学生証を失くした

2010-07-31 13:29:10 | 日記

最近は、インターネットでさまざまな情報が手に入る。

面白半分で、不思議体験を調べてみた。

すると、あるわあるわ。

いろんな方が、いろんな体験をしていることがよく解る。

このような体験を読んでいると、偶然にしてはできすぎている。

全てが全て、事実とは思わないが、何か霊や魂がいて、我々に何かを伝えようとしている。

私の読んだ不思議体験を披露します。

著作権の問題があるので、リンクという方法を使います。

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不思議体験 その1
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私は個人クリニックで事務をしています。

朝8時過ぎ、いつも通り出勤し仕事の準備をしていると電話が鳴りました。
若い男性の声で「学生証をなくしたみたいなんですが、そちらに忘れてないでしょうか?」といった内容でした。
・・・・・続きを読む


空海の凄さ

2010-07-28 11:22:48 | 日記
今、司馬遼太郎の“空海の風景”を読んでいる。
空海は、地元讃岐の中学?を卒業し、奈良の都の大学?入学している。
日本全国からわずか20人程度が入学。

この大学に入るには、地元で裕福であるのは絶対。
しかも、地元のトップに紹介状を書いてもらわなければならない。
また、地元のトップと奈良の天皇家との間にも強い関係がなければ、入学できなかった。

そんな難関を突破して入学した空海は、それから1年後には中退をして、乞食同然の姿で全国行脚を始めた。

そのままで行けば、エスカレータ式に・・・、と考えるのが一般民衆の考えること。

真実を探求する人にとっては、立身出世、栄達、ご昇進など全く問題にはしないのだ。

そして、24歳には戯曲を書いている。
『三教指帰』と呼ばれるもの。
簡単に言えば、仏教と儒教と道教の三つを比較し、どの教えが最も優れているかというもの。

その中に書いてあることを知ってビックリ。
仏教の曼荼羅が説明され、いかに、我々は生きるべきかが記してある。

その中の一部を披露しいよう。

人間というものは三界に家はないものだ。
すなわち、欲界・色界・無色界の三つの世界に定住することはない。

人間は六趣の世界にいる。
ただし、この世界は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、そして、天上界に分かれている。
この6つの世界を輪廻しているのである。

さらに、こう書いている。
仏陀は入滅されるとき、
「自分の後継者は弥勒菩薩である」と宣言された。

釈迦という人間存在が解脱し、仏陀になった。
言わば、仏陀は人間界・生物界の頂点に立ち、さらに、その上に上がる際に、弥勒菩薩を後継者にしたのだ。

しかし、その弥勒菩薩は、兜率天(とそつてん)にいる。
この弥勒菩薩は釈迦没後56億7千年後に、地上に生まれ出てくる。
そこまで待てないから、自らが兜率天に行こう。

そこで、本来の人間のあり方を教えてもらおう。
そのツアーの申し込みをするのが仏教であるというのだ。

他の菩薩や如来はみんな、弥勒菩薩に使えているのだ。

たった、24歳の青年が、インドから中国を渡ってきた書物を読んで、
全てを理解するのだから大変なもの。

辞書もない。
パソコンもない。

そんな時代の話である。

それなのに、私はもう60歳。

丸坊主のすすめ

2010-07-27 11:37:46 | 日記
なぜ、頭を丸めるの?
坊さんになることは頭を丸めること。
すなわち、丸坊主になること。

そのことに昔から疑問に思っていた。

丸坊主になることに、なることにどんな意味が隠れているのだろうかと、ぼんやりと考えていた時代がある。

それも回答が出ないままに、放っていたが、最近、また気になり始めた。

頭髪は一体全体どんな妨げになるのであろうか?

それも、モスレムの女性の頭巾を見てから一層関心が湧いてきた。

イスラム流に言うと、髪はセックスを感じさせるものだというのだ。

しかし、ヒンズー教的に言うと、あるいはヨガ的に言うと、セックスは大事な修行の一つ。

あるいは、悟りを開く大事な行為とされる。

しかし、仏教になると、戒律として、丸坊主を義務づけている。

丸坊主になった人はみんな言う。
ああ、さっぱりしたと。

何がさっぱりしたのかは知らないが、丸坊主になった気分は、全てを捨てたということなのであろう。

邪心を捨てるということなのか。

邪心を捨てる行為は、大事なことであろう。

私も、最近坊主になりたいと思うときがある。

私の動機は少し違う。

どうも、頭髪は頭を守るためにできているが、魂を感じるためには不要でないかと思っている。

坊さんが丸坊主なのは、修行の過程で、もっとも、魂を感じやすいからだと思うようになってきた。

西洋には、神様がいて、神の教えは聖書に書いてあるし、牧師が教えてくれる。

だから、考える人生である。

仏教の教えはいつも、魂を感じることを最優先に考えているのではなかろうか。

つまらない考察に、お付き合いいただきありがとうございました。

今のあなたの運気を変えるために、丸坊主になってみませんか?

丸坊主のすすめ。

ナゲナワグモの不思議

2010-07-26 18:02:03 | 日記
昨日のNHKの、“ダーウィンが来た”をご覧になっただろうか?
日本に生息している、ナゲナワグモの不思議を記録したもの。

普通ののクモは、クモの糸でクモの巣を張る。
そして、昆虫がやってくるのを待つ。

しかし、ナゲナワグモは巣を張らない。
投げ縄を使うのだ。

投げ縄といっても、実際になちょっと違う。
投げ玉といった方が正しい。

ナゲナワグモは、蛾(ガ)だけをえさにするのだ。

一般のクモの巣には、蛾はかからない。
理由は、蛾の羽には羽粉があり、クモの巣にを壊すだけで、かからない。

しかし、ナゲナワグモの作る投げ玉には、この羽粉をを溶かす力があり、この投げ玉が蛾をを捕らえるのだ。

ナゲナワグモが投げ玉を円形状に振るさまが実に面白い。

木にしっかりとしがみついた腰の曲がった老人がな玉がついた糸を回転させているようだ。

蛾が近づくと、蛾の動きに合わせて回転させる。
その玉が瞬間、蛾の羽につくと、その老人は直ぐに糸を伝って、えさを確保しに行く。

しかし、この老人は蛾しか食べない。

運悪く、蛾がいなければ死んでしまう。

寿命は1年。

その時期が近づくと、投げ玉の糸とは違う細くて金色の糸を出し、そこに卵を産む。
さらにその卵を守るようにしっかりと金の糸で巻く。

それだけではない。
金色では目立つために、その糸を茶色に染める。

そして、自分の最後はその卵に寄り添うように、静かに死ぬのだ。

まさに、自分の魂を卵に移すように。

こんな小さな昆虫が、こんな複雑な子孫保存の仕組みを、どのように記憶したのだろうかと思う。

脳があるわけではない。
本能があるだけ。

本能、これこそが魂。