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宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

「経文や祝詞の功徳」

2015年09月27日 | Weblog




経文には 耳で聞く功徳と誦す功徳の両方があると記されており、

昔は文字が読めない人 読経を出来ない人も多かった為に、
「聞く功徳のみを受ける」ケースが多かったようです。

以下の体験談に

+++


「もともとお経や祝詞は「耳で聞く」と同時に「口で唱える」事で
二重にご利益や徳があるもので、
お経を聞くだけの一般人よりも、
「口で唱えた」自分の声を「耳で聞いて」いる僧侶の方が
徳が積まれるのはその為なのだそうだ。

+++

とあり、自己が誦す事によって より多くの功徳を受けられる事の説明となっています。


以下 コピペです。


++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++




時期や場所は詳しく言えないけれど私の父の実家がある場所にまつわるお話。

父の実家はとにかくドがつく田舎、集落には両手で数えきれるほどしか家が無い。
山の奥なので土地だけは豊富にあったが、買い物や病院に行くにも
バスを乗り継いで半日はかかるという恐ろしい土地だった。
父から聞いたことによると、集落にある家は全部同じ苗字で、
父が小さい頃は個々の家にはまだ電話がなく、
集落以外の場所へ連絡をとる時は一つだけある商店に設置された電話を使った。



集落の土地はかなり広いので各々の家は距離が離れていた。
その為回覧板はなく、連絡事項は長老さんと呼ばれる家に設置された機材から、
集落の中の電柱に設置されたオレンジ色のメガホンみたいなスピーカーで流していた。
そんな不便な場所にも関わらず集落には若い夫婦が何組かいて、
学年はばらばらだが小学生の子供が何人か居た。
私たち家族は普段は母方の実家に近い、比較的開発の進んだ場所に住んでいた。
例年お盆は父の実家で過ごすのが小さい頃からの恒例で、

車で何時間もかけて行くその集落は自然がいっぱいの別世界、私は毎年お盆が楽しみで仕方がなかった。
私が小学4年生の夏休み。
父方のおじいちゃんの家に泊まった次の朝
私が泊まりに来ていることを知った近所の子供(Aちゃん)が遊びに来た。

Aちゃんは私より一つ年上で、
集落の分校に通っている子供の中では最年長、そしてただ一人の女の子だった。
年に一度しか会えない友達で小さい頃はとても仲良しだったけれど、
毎日年下の男の子に囲まれて実質ガキ大将のようだったAちゃんとはここ数年あまり話が合わなくなってきていた。
私は当時流行っていた女性アイドルグループに夢中で、
Aちゃんは毎日泥んこでチャンバラごっこをやっている、
そんな感じで一緒に遊んでもつまらないと感じるようになっていたからだ。

その日私は、夏休みに入ってから自分のお小遣いで買ったキラキラしたビーズの髪留めをつけていた。
遊びに来たAちゃんは開口一番、それちょうだい!と私の髪留めをむしり取ろうとした。
今になって思えば、Aちゃんも少しずつ思春期を迎えて女の子らしくなりたいと考えていたのかも知れないけれど、
当時私は自分で買った大事な宝物を取られてしまうのが嫌で必死に抵抗した。
Aちゃんは怒って「もう遊んでやらない」と言い残して帰ってしまった。

毎年、泊まった次の日は朝から昼まで、家の中でお盆のお供養があるからと外に遊びに行かされていた。
もともと一人遊びも嫌いじゃなかった私は、

Aちゃんとケンカしたことは少し引っ掛かっていたものの特に支障なく裏庭で遊んだ。
10時をまわった頃、庭にまたAちゃんがやって来た。
さっきあんなに喧嘩したのに、何事もなかったかのような笑顔で話しかけてきたので私はほっとした。
Aちゃんは私の前にしゃがんで、「いいこと教えてあげよっか」と訳知り顔で言った。
私がうん、と言うと、Aちゃんは口に手を添えて、
私の耳に内緒話をするみたいにして鼻歌まじりの不思議な歌を歌い出した。
メロディは唱歌の「浜辺の歌」に少し似ていた。
歌い終わったAちゃんが言うには、その歌は「聞くととっても良いことがある秘密の歌」らしい。
ナイショのおまじないだよ、大人に言っちゃだめだよ、そう言い残してAちゃんは走って家に帰ってしまった。
お盆のお供養が終わって、じいちゃんが私を呼びに来た。
お昼ご飯はそうめんとおばあちゃん手作りの山菜の入ったちらし寿司で、
家族皆で楽しく食べた後、眠くなった私は仏間の隣の部屋で寝転がった。

目を覚ましたのは4時だった。
じいちゃんの家の古い柱時計がぼん、ぼん、と四回鳴って、家の中は一番暑い時間だった。
山に囲まれた集落は日が落ちるのが早くて、昼間と違って外から入り込む光が少しだけオレンジがかっていた。
じーわじーわ、かなかなかなかな、ひっきりなしに蝉の声が聞こえてた。
ああ、寝ちゃったんだと思いながら体を起こした。
頭がクラクラして、父と母も、祖父と祖母も近くにいない。
毎年だったらお供養をした日の夕方はみんなでお墓参りに行っていた時間で、
寝てしまった私を起こさずに置いて行ったんだろうと思って気にせずに、また畳の上に横向きに寝転がった。
そこで、動けなくなった。
じいちゃん家の畳は古くて、日焼けして赤茶色になっている。
ばあちゃんが熱心に掃除をしているからか、所々ニスを塗ったみたいなあめ色になっていて、
その畳の一畳分向こうに、白いお餅の塊みたいな赤ん坊がこっちを向いてごろんと寝転がってた。
金縛りという現象なのか、体は手足も指先も縛りつけられたみたいに動かなくなっていて、
唯一息をする所だけが動かせた。
寝転がった赤ん坊の鼻のあたりに焦点があってしまったまま目玉も動かせず、瞼も固めたみたいに動かなかった。
赤ん坊の顔は真っ白で、この状況を理解できてない頭の中でこれじゃ白ん坊だよなぁなんて思った。
黒目の大きい瞳で、口はお餅に入れた小さな切れ目みたいだった。
ふくふくした柔らかそうなほっぺが餅が膨らむみたいにもりーっと持ち上がって、
ああ口がどんどん開いてるんだな、泣くのかな、と思って、けれどおかしい事に気が付いた。
口が大きすぎる。
目玉が動かせなくてずっと見つめている小さな鼻がどんどん上向いて持ち上がって、
鼻筋どころか目と目の間に小鼻が食い込んでもまだ盛り上がる。
そのうち焦点があっていた場所に鼻はなくなり、口の部分から広がった大きな穴がぽっかり覗いた。
さっきまでぷーっとしていて可愛く見えた筈の顔の大部分が穴になって、
まるで黒いボーリングの玉に赤ん坊の顔面の皮を無理やり被せたみたいに見えた。
怖いのに目が離せない。
瞼が閉じられなくて、目が痛くて涙で視界が滲んだ。
赤ん坊の口は更にどんどん広がっていって、ついに顔中が穴になった。
もう目も鼻も捲れあがって、白い赤ん坊の体の上に、首の代わりにウツボカズラが乗っかっているみたいだった。
ああ、食べられる、と思った。
涙でじんわりした視界の中で相変わらずふくふくしたままの白い手足がクモみたいにうねうね動いて、
ウツボカズラみたいな大穴がこっちを向いた。
真っ黒い穴の奥には、ぎっしりと白いものが詰まってた。
お饅頭みたいな大福みたいな、おにぎりみたいな白いころんとしたもの。
目に溜まってた涙が頬っぺたにボロッと流れて、一瞬だけど視界がよくなった。
全部、真っ白い赤ん坊の手だった。
口だった穴の奥底から、お、あ、あ、と大人の男みたいな声がした。
うわああ、と私の喉から声が出た。
それど同時に体が動いた。
逃げなきゃ、食われる、そう思って手足をじたばたさせたら、しわしわの大人の手でそれを押さえつけられた。
じいちゃんとばあちゃんが暴れる私の手足を押さえて、大丈夫か、しっかりしろ、と声をかけてきた。
傍にお父さんとお母さんも居た。
助かった、そう思って、私は泣きじゃくった。

涙が止まって、気持ちも落ち着いてすぐに、私はさっき見た怖い夢の話をした。
じいちゃんは珍しく厳つい顔をして、父と母はもう大丈夫だよと私を抱き締めてくれた。
もう4年生だったけれど、今夜はお母さんが一緒に寝てくれると言った。
そして、何度もうんうん頷きながら私の話を聞いていたばあちゃんは、
その日の晩御飯の後で、私を仏間に連れて行った。
仏壇の傍の座卓にはじいちゃんも座っていた。
「孫ちゃん、今日みたいな怖い夢を見ないように、良いことを教えてあげる」
そう言いながら、ばあちゃんは歌を歌ってくれた。
昼間、Aちゃんが庭で歌った、あの歌だった。
私がAちゃんの事を言うと、いつもはにこにこして優しいじいちゃんが無表情のまま立ち上がって仏間を出て行った。
ばあちゃんは私の手をとって、私を膝に乗せながらその歌を一小節ずつ、丁寧に丁寧に教えてくれた。
もう怖い夢を見なくて済むように、これからはこの歌を毎日歌ってから寝なさい。
Aちゃんが言った通り、良いことがある歌だよと言って。

その晩、寝る前に私はその歌を口ずさんだ。
父も母もその歌を知っていて、3人で一緒に歌ってから眠りについた。
怖い夢は見なかった。
その次の日、私たちはじいちゃんばあちゃんと別れて家に帰った。
あの日の出来事について詳しく知ったのはだいぶ後になってからだった。
4年生の夏休み以来、毎年恒例だったお盆のお泊りが2~3年に一回の行事になった。
私も中学生になって勉強や部活が忙しかったりであまり気にはしなかった。
ある年の春先、じいちゃんが亡くなり、私たち家族は初めてお盆以外の時期にその集落へ泊まった。
私も母も父も泣きじゃくってじいちゃんを見送り、
ばあちゃんを私たちの家に暮らさせようという相談もしたけれど、
ご近所の人が助けてくれるしこの土地で骨を埋めたいというばあちゃんは説得できなかった。

お葬式も終わり、いよいよ帰ることになった日の朝。
4年生のあの年以来疎遠になってしまっていたAちゃんが訪ねてきた。
Aちゃんは大人っぽい、綺麗な女の人になっていた。
開口一番、Aちゃんは私に頭を下げながら「あの時はごめんなさい」と謝った。
訳が解らなくてきょとんとしている私を見て、奥の間から出てきたばあちゃんが
「そろそろ話しておかなきゃいけないね」と言って、あの時のように私とAちゃんを仏間へ連れて行った。
あの時座卓に座っていたじいちゃんは、遺影になって仏壇の所に飾られていた。

以下は、ばあちゃんが話してくれた方言まじりの昔話を要約したもの。

父の実家があったこの土地は、初め、
ある理由があって村八分にされた一家が落ち逃れてきた事から始まった。
(被差別という訳ではないそうだ)集落の苗字が同じなのはその為で、
もともとは一つの家から始まった遠い親戚の集まりだった。

何十年もして村八分が解かれた後も、
集落の人々は周りの土地に干渉されるのを嫌って内輪だけで栄えてきた。
近親の結婚が続いたせいか、知恵の遅れた子や障害を持った子供がよく生まれたのだそうだ
(ばあちゃんはわろごと呼んでいた)

元々この土地は肥沃な上、少人数の集落だったので食べ物に困って口減らしをすることは無かった。
けれど少人数であるが故に子供は大事な働き手であり、
仕事をすることができないわろご達はそうであると解った時点で殺してしまった。
そんな事が何年も続き、やがて集落と周りの地域との軋轢もなくなり、
集落の外から嫁や婿が来るようになるとようやくわろごが産まれる事も無くなってきた。
ところがその頃から、集落で生まれた健康な子供がある日忽然と行方不明になったり、
山で居なくなったと思った翌日ひょっこり帰ってきたが頭がおかしくなっていたりと不気味な事が起こり始めた。

初めは小さい子供ばかりがそういう目にあったが、
やがて若者、親の世代にもそういう怪異に巻き込まれる者が出始めた。
おかしなものを見たという報告も多数上がった。
皆、口をそろえて真っ白な赤ん坊に食われそうになったとか、
口の大きな真っ白な子供に追いかけられたと訴えた。

これはわろごの祟りではないか?と誰とはなしに噂がたち始めた。
何故なら、かつて殺したわろごは供養することも無く山の中腹にある岩場に放置して、
獣や鳥に荒らされるがままにしていたから。
今と違って「わろご」のような人たちへの差別や偏見がとても酷かった時代、
そういう者が産まれてしまったことを記録として残すのを嫌がったのだそうだ。

集落の人たちはやっとそれらを供養することに決めた。
けれどやはり、そういうものの記録を形に残してしまうことを嫌った人々は、
その地域の山を信仰していた古い修験者さんに「御詠歌」のようなものを作ってもらった。

もともとお経や祝詞は「耳で聞く」と同時に「口で唱える」ことで二重にご利益や徳があるもので、
お経を聞くだけの一般人よりも、「口で唱えた」自分の声を「耳で聞いて」いる僧侶の方が
徳が積まれるのはその為なのだそうだ。

集落に与えられた歌は、殺めてしまったわろご達への供養の意味を込めた歌だった。
ばあちゃん曰く、集落の人はわろごを殺した「加害者」であると同時に、
自分たちの血の繋がった子供を殺された「被害者」でもある。
だから集落の人間は、その歌を「歌うことで供養する」と同時に「耳で聞くことで供養される」立場にあった。
この供養の歌を、毎晩欠かさず歌うように。

修験者からそう言われたことを守るようになってから、集落での怪異は治まった。
しかし、それと同時にある問題が起こった。

ここからはばあちゃんの話した事をそのまま書きますので、差別的な表現が混じってしまうことをお許しください。

わろご達の大半は身体ではなく知的な障害であった。
それ故に、物事の判断をつけることが難しい。
(ばあちゃんは「き○○いだから思い込みも勘違いも激しい」と表現していた)そのせいで、
わろご達の中では、歌を歌って「供養する」人間は自分と相容れないい存在であるものの、
歌を耳で聴いて「供養される」人間を自分達の仲間だと思い込み、
自分たちの中へ取り込んでしまおうと寄ってくるようになったのだ。

歌を歌える人間には怪異は起こらない。
しかし、歌を歌うことができない、
耳で聞くことしかできない赤ん坊や痴呆に掛かった老人が次々に「引き込まれて」しまった
(ばあちゃんはそうとしか表現してくれなかった。
行方不明になったのか、おかしくなったのか、死んだのかは解らない)

それが解って以降、集落ではその歌を「余所者には決して聞かせてはいけない、
集落の子供にもしっかり歌える年になるまでは絶対に聞かせてはいけない」
タブーの歌として伝えるようになった。

ここまでが昔話。
その歌はそんなブラックな昔話と一緒に「集落の伝統」としてひっそり伝えられてきた。
集落の子供たちは、小学校中学年くらいになると親からその歌を教えられるが、
内容が内容なので本当の由来は聞かされず「よその人には決して聞かせてはいけない伝統の歌」
として教わっているに過ぎないのだそうだ。

ばあちゃんの話を聞き終えたAちゃんは言い難そうに私に向き直った。
「あの年、5年生になったばかりの時に私はその歌をお母さんから教わった。
お母さんは「歌えない人には絶対に聞かせてはいけない、何故ならその人が不幸になってしまう歌だから」
って言って教えてくれた。
あの時、都会から来た(私)ちゃんが女の子らしくて可愛くてとても羨ましかった。
ずるいと思った。
ちょっと意地悪してやろうって軽い気持ちで聞かせてしまった」

都会で生まれて都会で暮らしている私には、そもそもその集落のわろご達を供養する責任は無かった。
しかし小さい頃から集落の土地の恩恵を受けて育った父と、その父と結ばれた母には因縁がある。
私は知らなかったけれど、父と母は毎晩寝室で、
寝る前にあの歌を口遊むのが決まりごとになっていたのだそうだ。
そして毎年のお盆のお供養、あの時間私だけが外に遊びに出されていたのは、
お供養の時に皆で歌うあの歌を聴かせない為だったらしい。


あの日の晩、温厚だった私のじいちゃんはAちゃんの家に怒鳴り込んだそうだ。
お前のとこの娘のせいで、うちの孫にまで因縁ができてしまったと。
孫は一生、あの歌に付きまとわれて生きることになったと。
あの夕方、蝉がわめく暑い空気の中で私が見たものは偶然の夢かも知れない。
けれど未だに鮮明に覚えているあの不気味な白い赤ん坊の姿。
あまりにリアルに思い出せるせいで、
私に技術さえあったなら映像にして細部まで再現できるんじゃないかとすら思うあの光景。
赤ん坊との距離も、暴れた手足を押さえつけたじいちゃんばあちゃんの手の感触も、
怖いくらいにありありと覚えている。

そして現在。
ばあちゃんも亡くなり、元々古かった家は朽ちて住めない状態になり、私たちはあの集落へ行かなくなった。
けれど今でも私と両親は、習慣であの歌を毎晩口遊んでいる。

Aちゃんとはその後また仲良くなった。
今でもあの集落に暮らしていて、集落の中で結婚して子供も生まれた。
集落は相変わらずド田舎だけど、周辺の開発が進み前よりは便利な土地になったという。
近年、とあるドラマでとある隠れた名所が取り上げられた。
それまでは観光客など滅多に行かなかったその場所に、年間何千人もの人間が訪れるようになった。
じいちゃんばあちゃんが暮らしていた、あの集落のすぐ傍だった。

何だか懐かしくなって久々にAちゃんに電話をすると、Aちゃんの家も去年から民宿を始めたという。
新しい住人も増え、観光客向けの食堂は土日になるといつも込み合っているという。
「泊まりにおいでよ!タダでいいよ!」
そう話すAちゃんのお言葉に甘えて何年かぶりに集落へ足を踏み入れた私を、
あの日から毎晩口遊んで眠ってきたあの歌が迎えた。
電信柱から生えた、古びて朽ちかけたスピーカーからだった。
オルゴールのような音色のメロディは、浜辺の歌に似た、聞き間違う筈もないあの曲だった。
「12時と5時の時報代わりにね、新しい集会長が決めちゃったんだ」Aちゃんは苦笑を浮かべながらそう話した。

「地元特有の伝統の歌だからね。
観光客相手にもウケるだろうって。
年寄世代は皆亡くなっちゃったし、若い私たちくらいの世代であんな伝統、
信じてる人ほとんど居ないんだよ」
そう言いながら呆れたようにため息をつくAちゃんの横で、

小学生になったAちゃんの息子は無邪気にあの歌を口遊んでいた。
商店の横にある食堂には何人も観光客が並んでた。
「メロディだけなら大丈夫なんじゃない?」そう言って笑うAちゃんにはとても言えなかったけれど、
小学四年生のあの時、裏庭でAちゃんが聞かせてくれたのは鼻歌交じりで歌詞なんか解らなかったよ。
もともとあれは供養の意味だけを込めて作られた歌で、
私みたいに集落出身の血が入らなければどうという事は無いのかもしれない。
けれど、ばあちゃんが言っていた話がもし本当だとしたら。
この集落に憑りついたあの白い赤ん坊に、集落の人とそうでない人との区別なんてつくんだろうか?
都会の人はぐねぐね曲がり角が多い山道の運転に慣れていない。
道幅も狭く傾斜も強い集落への山道は、開発が進んだとはいえ相変わらずの様相だった。
事故は、名所からの帰りの山道で起こる方が圧倒的に多いらしい。
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意識の中の無意識 (無意識の中の意識)
2015-09-27 02:07:25
・・・呪詛を相手に意識的にかける
呪詛を第三者に頼んで呪ってもらう
無意識的に意識をかけて呪う・・・・・
 基本的に人を呪えば穴二つなんだべや
たとえ所期の貫徹は出来たとしても・・・
ブーメラン現象は防ぎようが無い・・・下手すると
子孫にまで悪影響を及ぼすし・・人呪うその者の
行く末くらいオゾマシイものはない・・自業自得
 呪いは神代の頃からあって連綿と現在まで
続いているわけのものだからね・・・音叉の応用
 以下こぴぺ 感謝
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

         呪術  じゅじゅつ

超自然的な存在に訴えることによって、病気治療、降雨、豊作、豊漁などの望ましいことの実現を目ざした行為。[吉田禎吾]

呪術の意味と種類目次を見る
呪術は英語のmagicの訳で、まじない、魔術ともいわれるが、手品師を魔術師ともいうので、手品と区別するために呪術という語が用いられている。magicは、語源的には古代ペルシア語のMagus(占いや呪術を職業としている集団)に由来し、ギリシア語のmagos(マグス人、呪術師)はその借用語である。この行為の背後には超自然的存在に関する信仰が存在することが多いが、信仰が呪術的行為の前提であるとは限らない。
 J・フレーザーは、呪術が超自然的霊格を統御することによって目的を達成しようとするのに対して、宗教は霊格に対する懇願であると述べて、両者を峻別(しゅんべつ)した。しかし、諸民族の宗教体系には両者の区別が明瞭(めいりょう)でないものが多く、宗教という用語のなかに呪術を含んで使われることが少なくないし、「呪術・宗教的」という語も用いられる。フレーザーはまた呪術と宗教の関係を発達段階としてとらえ、呪術のほうが宗教よりもより原始的であると論じたが、もっとも原始的とされる狩猟採集民においても、至高神の崇拝をめぐる宗教体系がみられることがしばしばあり、一概に呪術が古いとはいえない。たとえばアフリカの狩猟民であるサンとインドネシアのスマトラに住む農耕民ミナンカバウとを比較した場合、文化的には後者のほうが複雑であるが、呪術はミナンカバウのほうにいっそう顕著である。
 長い間日照りが続くと、水をまいたり、太鼓をたたいたりして行う雨乞(あまご)い儀礼は世界各地の伝統社会にみられるが、水を地面にまき、太鼓をたたいたりする呪術は、降雨と雷鳴のまねである。このように望ましい現象と似たことを行う呪術を、フレーザーは「類感呪術」あるいは「模倣呪術」とよんだ。これに対し、日本に、病弱な子供を健康にするために、じょうぶな子供の着ていた着物の布きれを集め、それを縫い合わせて着せるという習慣がある。これは、フレーザーが「感染呪術」とよんだもので、「接触呪術」ともいわれる。他人を病気にさせるために、その人の毛髪、爪(つめ)、排泄(はいせつ)物、衣服などを火にかけたりする呪術も、感染呪術の一種である。雨乞いとか健康回復を目ざす呪術は、社会や人のために行う呪術として「白い呪術」ともいわれる。人を苦しめ呪(のろ)い殺すための呪術は「黒い呪術」といい、「邪術」sorceryともいわれる。[吉田禎吾]

呪術と世界観目次を見る
呪術はその社会の世界観と密接に関係している。たとえばインドネシアのバリ島には、他のインドネシア諸地域におけるように、右(手)を優越したものとして尊び、左(手)を不浄視する思想があるが、ここでは、呪術を「右の呪術」と「左の呪術」とに分け、「右の呪術」が病気の治療などを図る呪術のように、よい目的のための「白い呪術」であるのに対し、「左の呪術」は人を呪い殺すための悪い呪術、邪術、「黒い呪術」である。バリ島では、邪術によってかけられた病気を治す方法の一つとして、ヤシの木の北東側になっている若い実をとり、チュクリという陸貝の一種と、海のルンシルと称する貝を油で揚げ、その油をヤシの実の中に入れて混ぜたものを患者に飲ませるという。なぜ北東側になっているヤシの実を使うかというと、バリ南部では北東側がよい方角と考えられているからである。バリでは、「山の方」と「海の方」という象徴的二元論が際だっており、「山の方」が神聖な方角であり、「海の方」が不浄な方角とされている。バリ島中部が山岳地帯になっているため、バリ南部では「山の方」がほぼ北方にあたり、北部では「山の方」が南方にあたる。これとともに、東方を神聖視するので、バリ南部では北東がもっともよい方角となる。北東側になったヤシの実が治療薬として尊重されるのは、このようなバリの方位観に由来している。
 メキシコ南部のマヤ語族に属するツォツィルTzotzil語を話すインディオは、病気を治療するための呪術・宗教的な儀礼を行っている。これを行うのは呪医で、病気治療のための儀礼は一般に東に向かって行う。儀礼のなかで首をひねって殺した鶏が、頭を東に向けて倒れると病気は全快するといわれる。また儀礼のなかで患者の周りに立てた何本ものろうそくが燃え尽きたとき、芯(しん)が東の方に倒れるのは病気の回復を意味するという。これは、彼らが東を「日が昇る所」として尊重し、西を「日の沈む所」として悪い方位としているところからきていると思われる。
 これらのインディオは、飲食物や植物を「熱い」と「冷たい」のカテゴリーに分類しているが、邪術を行う場合、洞窟(どうくつ)の中で「熱い」と分類されている牛肉を埋めると、相手は発熱と下痢に苦しむとされ、卵、カタツムリ、魚など同様に「熱い」とされている食物を埋めると、相手の胃が熱くなるという。そして「冷たい」と分類される豚肉を埋めると、相手は寒気を催し、風邪(かぜ)をひくと考えられている。豚の頭を西向きに埋めると、相手の腹を冷やし、下痢をおこすという。ここに「日の沈む所」(西)を悪い方位とする観念も表れている。健康体は「熱い」と「冷たい」の均衡が保たれていることであり、この均衡が崩れ、「熱い」状態になりすぎると、また「冷たい」状態になりすぎると病気になるとされている。これを呪術・宗教的な儀礼によってもとの均衡状態に戻すのが呪医の役割なのである。[吉田禎吾]

妖術と邪術目次を見る
ヨーロッパにおいて16世紀から17世紀にかけて、いわゆる「魔女狩り」が盛んに行われた。魔女というのは、なにか超自然的な方法で他人に害を与えるとされる女性のことである。呪術によって他人を病気にさせ、あるいは危害を与えるとされた者の多くが女性であったことは明らかであるが、なかには男性もいたので、魔女という語はかならずしも適切でない。呪術によって他人を病気にさせたり、危害を与えることができるという信仰はヨーロッパに限らず、前述のインディオそのほか多くの伝統社会にみられ、呪術(邪術)を用いたと非難される者が女性である社会も少なくないが、なかには、アフリカのルグバラLugbaraのようにつねに男性である社会もある。したがって、こういう現象を広く比較してみるためには、魔女という語は適切でない。文化人類学では妖術(ようじゅつ)師とか邪術師という語のほうが用いられることが多いし、しいて日本語にせず、英語のウィッチwitchという語がそのまま使われることもある。
 アフリカのアザンデの人々の間では、ある人のもっている神秘的な霊力が働き、その人に意図がなくても、他人に憎しみやねたみを感ずると、相手の人に災いをもたらすと信じられている。そのような一種の心霊作用は妖術witchcraftといえよう。このほかに意図的に他人に災いを与えるために行う呪術(邪術)の観念がある。このように妖術と邪術の区別はアザンデの人々が行っているのであって、伝統社会において、両者の区別が明白になされていない所も多く、アザンデの人々のいうような邪術の信仰があって、無意図的な心霊作用を意味する妖術の観念の欠如している社会もしばしばある。ここで注意しなければならないのは、ヨーロッパの妖術の観念と、アザンデのそれとの相違である。前者の場合にはキリスト教神学とともに科学思想が存在していたわけで、両文化の観念体系という脈絡を離れて妖術を論ずることはできない。
 魔女、妖術師、邪術師などの容疑者に対する非難はどの社会においても大なり小なり行われるが、こういう非難や迫害が16、17世紀のヨーロッパにおけるほど激しく行われた例はほかに見当たらない。
 ヨーロッパの妖術信仰においては、前述の邪術と妖術の区別はかならずしも明白ではなく、これをすべて意図的な呪術としての邪術に含めてしまうことはできない。またヨーロッパにおける妖術観念はキリスト教が生み出したものではなく、キリスト教が広がる前から存在したことも明らかである。キリスト教化された西洋社会がそれを一定のステレオタイプに性格づけ、妖術師を悪魔と契約を結んだものとして激しく迫害したのである。ヨーロッパの妖術の全盛期(16~17世紀)は、経済的、政治的、社会的な変動の嵐(あらし)が各地に巻き起こっていた時代であり、このような社会不安は妖術師とされた者への迫害を激化させた一因であるといわれる。
 妖術や邪術の信仰が存在する社会では、当然これらに対抗するための手段、これらを防ぎ、治療する手段がとられる。治療の場合に、妖術(邪術)をかけた者の発見が必要条件とされることもある。予防のためには、下につける下着を頭にかぶるような「逆さまの呪力」を用いるとか、排泄物の呪力を活用することがある。
 妖術(邪術)の患者を治療する場合にも、象徴的逆転といわれる呪術が行われることがある。メキシコのマヤ系インディオにおいては、呪医が病気治療のための儀礼を行うが、邪術による病気の治療においては、ある呪医によると、ろうそくを逆さまにし、その底部を切ってしんを出し、これに火をともして祈る。これは邪術を「ひっくり返すため」であるといわれ、ここに象徴的逆転の観念がうかがえる。
 妖術はいろいろな社会で(たとえばバクウェリの社会で)「ねたみ」「そねみ」の観念と結び付いており、妖術師のねたみを買うとその餌食(えじき)になると信じられている。アフリカの農耕民ニャキュサの妖術師は、夜間に空中を飛んできて、恨みに思う者を襲うとされている。ねたみを受けると妖術師の攻撃を受けやすいとされている。また妖術師は、けちな人をねらうともいわれる。要するに妖術師は、けちな人間や、不親切な人間、成功しすぎた人間を襲うと信じられている。こういう人間はまた妖術師の嫌疑を受けやすい。このように、妖術や邪術に対する恐怖が、人々に社会の規範に従わせるという面を備えていることは否定できない。[吉田禎吾]

           妖術のイメージ

妖術の観念が存在する多くの社会において、妖術の観念はそれぞれの社会に応じて著しく異なり、妖術という語を安易に使うべきでないとする学者もいる。しかし反面において、互いに地理的、歴史的、文化的にかけ離れ、異なる諸民族の間に存在している妖術師の観念には類似点もみられる。多くのアフリカ社会、古代ローマ、中世から近世にかけてのヨーロッパ、北アメリカのナバホには、妖術師自ら動物に変身することができ、人の死体を食べると考えられている。東インドネシアのロングレン(レンバタ)島のケダンでも、妖術師はカラス、ネズミ、蛇に変身するとされている。いろんな社会における妖術師のイメージは、その社会の正しさ、善、常人とまったく反対のイメージであり、邪悪のイメージである。社会の秩序に関する基本的な条件はどの社会においてもそれほど違うものではないので、妖術者についてのイメージには、差異のある反面、このように類似する要素がみられるのである。アフリカのルグバラの社会では、妖術師(つねに男性である)は動物に変身できると信じられており、普通の人間が黒いのに対して妖術師の皮膚の色は白いか灰色であり、身体のどこかにほかとは異なる点があるとされている。足が不自由であったり、背が曲がっていたり、睾丸(こうがん
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上の体験談 (もみ@夜は墓場で運動会)
2015-09-27 09:15:19

|・)…

上の体験談に出てくる 「奇怪な赤ん坊」というのは、
殺された人々の魄が 100体とかそれ以上分のものが融合凝縮して結成されたもののようで

そういうものは 200年ぐらいの時間で消滅する事はなく
人間の手に負えないものみたい|・)…

「歌を流して聞かせる」というのは 一つの呪詛で

そういう事をやろうとする事自体
魄の集合体に操られているっぽくて

事故死者の魄を更に取り込み、
半永久的に消えなさそうばい。


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