(アルナーチャラ聖山の聖河)
アルナーチャラ聖山の聖河を念礼して誦す事で
自己が浄められます。
★「ドヴィデ・サムブヤ・ドゥニ・ピナキニ・ドヴィデ・ルドリ
ヒ・タヌ・ピナキニ・ドヴィダ・タノルッタラトピ・チャキコ
ヤシャ・プラヴァハ・プラヴァハ・ロ(Lの発音)カ
プラヴォッタラ・タトラ・ピナキニ・ヤ・スヴァティラガン
サムバサタン・プナニ・アシャ・パト・ダクシナタ・プラヴァホ
ナナナディユク・プラヴァ・セヤム
ロ(Lの発音)カストゥタ・ヤミャピナキニティ・スヴァヤム
ヒ・ヤ・サガラマヴィヴェ・マナク・サダナルティム
ヴィナ・パパハントリ・プナナピ・ナナージャナドヤ・ディハントリ
アナヤサト・ヤ・ピナクヤプティダトリ・プナトヴァハンソ
ナー・ピナキニャヴィトリ
アルナチャラ(Lの発音)タ・カンチャ・アピ・ダキシナディクスティタ
チダムバラシャ・カヴェリャ・アプユドギャ・プナトゥ・マーム
ヤディマサヴァシャーチャイトリャム・クルタクシャウラシャ
メル(Lの発音)パカ・スナパナイ・クシャナドルヴッダ
サッダセヴャ・ピナキニ。」
以下ネットに投稿されていた体験談のコピペです。
++++++++++
石じじいの話です。
みなさんは、念写というものをご存知ですね。
念写は、光をあてることなく思念?でフィルムを感光させる行為で、
サイコキネシス(PK)の一種だそうです。
念写ができる人がいたそうです。
その人の性別や年齢は不明です。聞き取りメモにありませんでした。
その人は、フィルムに「幾何学模様」や「文字」を念写できたそうです。
念写される文字は、すべてキリル文字だったそうです。
じじいはロシア語がほんの少しできたので、それがキリル文字だとわかったのです。
Д、Ж、Щ、Юなどの文字だったとか。
他人から言われたものや文字を念写するということはできなかったようです。
あるいは、できたのかもしれませんが、メモにはありません。
その念写の方法は:
その人は正座して、フィルムを両手に包み込むようにして持ち、
額に近づけて「念を込める」のだそうです。呪文のようなものを唱えることなく終始無言でした。
両手に包み込まないといけないので、フィルムの大きさは限られていたそうです。
念写する場所はどこでもよく、時刻もいつでも良い。
人が同席してもかまわない。
同席している人のなかに、「その人の念写に疑念を持つ人」がいてもかまわない:と言っていたそうです。
よく、「わたしの能力に疑問を持つ人が近くにいると、
『超能力行為』が成功しない」という言い訳がよくありますね。
念写に要した時間はメモにはありません。
小さいフィルムには、モノの全体が小さく念写されました。
つまり、そのフィルム、イコール念写先のサイズにおさまるようにモノの全体像が念写されたのです。
じじいが同席して、ある実験を行ったそうです。
それは、パトローネ式の35mmフィルムを金属缶に入れたまま、そのフィルムに念写するというものでした。
その人は、その念写を成功させたそうです。
キリル文字のいくつかが、フィルムの10コマ目に念写されていました。
これはすごい!ということでした。
フィルムは光を当てると、あたった部分が全部感光してしまうので、
何重にも巻いてあるフィルムの一コマのみを感光させるのは困難だからです。
光やX線を利用したトリックではないということでしょう。
その人は、フィルムだけではなく紙にも念写できたそうです。
像を結ぶ「キャンバス」として感光剤を必要としない。
さまざまな種類の紙を、巻いたり折りたたんだりして、
フィルムの場合と同じようにして念じると、その紙の一部に、
焦げたような色の文字や模様が浮き出たのです。
その後、その人がどうなったかは、ノートに書かれていません。
別の聞き取りノートに、「念力能力を持つ人が行方不明になった」というメモがありますから、
それがこの人だったのかもしれません。
***
私は小学生の頃よく祖母の姉、大叔母の家に遊びに行っていました。
近くのスーパーまでは車で1時間弱はかかるようなドがつく田舎でした。
私が小学3年生、従兄弟が小学5年生の頃、大叔母の家に夏休みの間の1週間ほど泊まることになり、
街中から約2時間強かけて大叔母のお家につきました。
大叔母の家はその村?集落?の人が1日に2組来ればいい方な食事処をしており、カラオケもあり、
小学生の私達にはカラオケがあるというだけで天国のような場所でした。
しかし、家についたらやらなければならない仕来り?があり、
仏壇へのお参りともう一つ、
仏壇に置いてある小さいグラスに注いである養命酒のような液体を飲むことでした。
そしてそれを飲まないと、その地のものは口にしてはいけない。というものです。
その(面倒くさいので養命酒と呼びますが)養命酒は毎回いつからあるのか
埃が浮いているし不味いし、それだけが私達子供にとっては地獄でした。
が、その日は状況が違いました。
小学5年生の男子は丁度反抗期にはいるのでしょうか。尖って?きていて、
屏風に丁度阻まれて仏壇が周囲から見えないのをいい事にその不味い養命酒を押し付けてきたのです。
仕来りと言っても当時はそんなに理解しておらず、
どちらかが飲まないと2人して怒られる。という認識でしたので、
仏壇で騒いで怒られるのも、後から1つ残っていることがバレて怒られるのも嫌だなと思い、
鼻をつまみながら2つ飲みました。
(以前飲まなかったときは大叔母がこれを飲まないと焼け死ぬど!と言いながら
2人に平手打ちをしてきたのを覚えています。私達は焼け死ぬだって~wと思っていましたが、、)
それを見た従兄弟はさっさと私から離れ、
当時小学生の間で流行っていた歌をカラオケで大熱唱していました。
そして18時頃。
夕飯ができ、養命酒のことなどすっかり忘れていた私達は
都会ではあまり食べることの出来ない料理に舌鼓を打っていると、
突然隣に座っていた従兄弟がバタリと倒れました。
喉の方を押さえて今まで見た事ない苦悶の表情を浮かべのたうち回っているのです。
私は何が起きたか分からず、恐怖と焦りで「あ、、あ、、、」しか言えていませんでした。
「どうしたんな!しっかりせえ!」と従兄弟を揺すぶる大叔母。
私は養命酒のことなど忘れていましたから、必死に何か今までと違うことをしたか悩み、
本当に小さい声で「あ、あれ従兄弟ちゃん飲んでない、、」とだけ絞り出しました。
大叔母は私をビンタすると走って隣の部屋に行き、
神棚から盃?平たい皿を降ろすと、それに注がれた養命酒を従兄弟の口に注ぎ入れました。
そして「母ちゃん達に電話しろ!○○病院行くけえ!あんたぁすぐ家帰れぇ」と言い残し
私を家において車で従兄弟を病院に連れていきました。
私は突然の出来事に現実味を感じられず呆然としながら大叔母の家の固定電話で母に連絡し、
ボーっと母が来るのを待ちました。
それからはもう何もかも早かったように思います。
私は到着した母と共に家に帰り、
従兄弟は喉が焼け爛れて?引っ付いてしまったらしく喉に管を通しました。
あの時私がすぐあれを飲んでないと伝えて居れば。そもそもちゃんと飲まないと駄目だと言っていれば。
あの日のことは家族の中でタブーとなっていて聞きたくても聞けません。
従兄弟の母はノイローゼ気味になり疎遠になりました。