
|抗日ソノラマ|
(鏡リュウジ)
( `m´)つ|ガラッ
(鏡リュウジ)
( `m´) 「…夢見る少女のオカルトマガジン 月刊 紫の鏡の
来月号の原稿を持参いたしました。
"秋の夜長の 魔女大特集" という事で
ハロウィーンも近いこの季節、
魔女の本質に 少しでも近づけます事を祈って。」
(大 物 主)
( `m´) 「…この企画に対して 各地読者の熱烈反応があれば、
来年の秋には 増刊 丸ごと一冊 魔女特集 秋の特大号を出したい。」
(大 物 主)
( `m´) 「…一方 あの魔女っ子は
母大陸に 未だ従わないのであるが…」
|・) 何の話しかな。
(大 物 主)
( `m´)
(鏡リュウジ)
( `m´) 「…おや 魔女っ子さんも いらっしゃいましたか。
どうぞ 来月号の原稿を御覧になって下さい。
来月号の中には 詩篇魔術の実践法についても書きました。」
(鏡リュウジ)
( `m´) 「…さて
神道において 祓い清めは非常に重要な事であり、
また仏教やキリスト教などにおいても
懺悔と 罪の清め 自己の内なるは 非常に重要で、
これなくして 霊的な進歩は あり得ないとされています。
そこで 来月号では 内なる清めの聖書魔術を紹介させて頂きます。
聖書魔術は 信仰心をもって 響くようにして詩篇を誦します。」
「ヨハネによる福音 1章9節
イザヤ書 1章18節
エフェソの信徒への手紙 1章7節
ダニエル書 9章9節」
「イエス・キリストの み名によって
主イエス・キリスト、わが聖主よ
罪人(つみびと)の身をもって
御身になげきたてまつる。
御身は 唯一 わが内を清むるを得たれば
御身の十字架上における御血を流したまいて
わが十字架を取り去り、
失われしが 我を再び全一ならしむる為、
これが わが最大の獲得なるゆえに、
わが罪を赦したまえ。
アーメン。」
(大 物 主)
( `m´) 「…この魔女っ子は いまだに 母大陸への不従順を懺悔していなくて と…」
|・)
(大 物 主)
|ミ サッ (`m´ ) 「早く懺悔して 帰順を誓わないか!!!!!!」
さしずめ彼らはセミプロなんだべや。
死について
人生は夢にすぎず、至福の情景は 幻のように
過ぎ去るとはいえ、死は はたして眠りなのか。
つかの間の喜びは 夢のようなものなのに、
死ぬことは もっとも大いなる苦痛だと ひとは
考える。
現世の人間が さまよいながら、苦悩の人生
を歩み、それて゜も その嶮しい路を放棄しよう
としないのは なんと不思議なことよ。あるいは
ただ目覚めているにすぎない。未来の運命を
あえて独り眺め見ようとしていないのは。
白鳳社 キーツ詩集 出口保夫より
|・)…
昔より
「カロリーオフ」が売りの人口甘味料は
百害あって一利なしと言われていて、
もみも 出切るだけ避けているのだけど、
昔 日本で
レストランのテーブルに塩などと一緒に置かれていた
パルスイートを 全部取って持ち帰った女性がいて、
「痩せたい」という思いからだったのだろうけど、
取って行ったのは有害なものだったという|・)…
純潔とは正確ということである。
死とは、精神と塵埃の間の
対話である。
「解体せよ」と。
死は命じる。精神は答える。
「いえいまだ希望を信じているのです」
エミリー・ディケンソン
以下 ウイッキ こぴぺ 感謝
エミリー・ディキンソン
若かりし日のエミリー・ディキンソン。1846年か1847年。長い間、彼女の肖像として残る唯一の写真であった。
エミリー・エリザベス・ディキンソン(Emily Elizabeth Dickinson、1830年12月10日 - 1886年5月15日)はアメリカの詩人。生前は無名であったが、1700篇以上残した作品は世界中で高い評価を受けている。
生涯[編集]
エミリー・ディキンソンは、マサチューセッツ州(Massachusetts)のアマースト(Amherst)で、政治や教育の世界で勢力のあった有名な家庭に生まれた。祖父は、アマースト大学創設者の一人であるサミュエル・フォウラー・ディキンソン(Samuel Fowler Dickinson、1775年 - 1838年)である。同大学はディキンソンの家から1.5kmほどのところにあった。また、父は弁護士で、同大学の出納係でもあったエドワード・ディキンソン(Edward Dickinson、1803年 - 1874年)である。彼は政治的にも卓越した人物で、1838年から1842年まではマサチューセッツ州高等裁判所で、1842年から1843年まではマサチューセッツ州上院議会に勤務。1852年にはホイッグ党員としてアメリカ合衆国下院議員に選出された。母エミリー・ノルクロス・ディキンソン(Emily Norcross Dickinson、1804年 - 1882年)は、物静かな人物で慢性病を患っていた。ウィリアム・オースティン・ディキンソン(William Austin Dickinson、1829年 - 1895年)は、兄で、オースティンというミドルネームがよく知られている。彼は後に、エミリーの親友であるスーザン・ギルバート(Susan Gilbert)と結婚し、エミリーが生涯の大半を過ごした家の隣で暮らした。妹のラヴィニア・ノルクロス・ディキンソン(Lavinia Norcross Dickinson、1833年 - 1899年)は、しばしばヴィニー(Vinnie)として知られ、エミリーの死後、その詩の編集や出版を促した。
エミリーは、人生の大半を、現在は、エミリー・ディキンソン・ミュージアム(Emily Dickinson Museum)として保存されている生家で過ごした。1840年に、アマースト中等学校の近くにあった、入学の2年前に女子にも門戸の開かれた旧男子学校で教育を受ける。そこでは英語学と西洋古典学を専攻し、ラテン語を学び、アエネアスを数年掛けて読んだ。また、宗教、歴史、数学、地理、生物学も同時に学んだ。1847年、17歳のエミリーは、サウスハドレー(South Hadley)にあるメアリー・リヨン(Mary Lyon)のマウントホリヨク(Mount Holyoke)女学校(現マウントホリヨク大学)に学ぶようになった。しかしながら、春に二度目のホームシックに罹ったとき、オースティンがエミリーを実家に連れて帰り、結局女学校に在籍したのは1年に満たなかった。その後、エミリーが外出したのは、ボストン、ケンブリッジ、コネチカット州に住む親戚の元を訪れる旅ぐらいであった。長い間、通俗的には、エミリーは広場恐怖症的な隠遁者として描かれて来た。最近では、もっと広い交際があったという学説が呈示されている。
エミリーが性愛の冒険者であった可能性について、伝記作家や批評家らの間で、大きな論争となっている。情熱の理解が、いくつかの詩や手紙によって明らかにはされているものの、愛情が向けられている対象についての結論を導き出す証拠がほとんどない。それに関しては、マスターレター(Master letters)と呼ばれる「マスター」宛の一連の手紙(後に出版された)が注目されている。エミリーがある恋人にその手紙を書いていることは明らかなのだが、住所が書かれていない上に、それらが送られたこともないのである。多くの伝記作家は、エミリーが父親の友人で新聞発行人のサミュエル・ボウルズ(Samuel Bowles)やオーティス・ロード判事(Otis Lord)やチャールズ・ワズワース牧師(Charles Wadsworth)らに対して空想的な恋愛をしていると信じ切ってきた。伝記作家はまた、エミリーが若い頃に、女性への空想的な愛着を抱いていたことを発見した。乏しく不明瞭な証拠にもかかわらず、この仮説は人気を博した。そのように主張された1850年頃のエミリー・フォウラー(Emily Fowler)との恋愛の後、1851年に教師であるスーザン・ギルバートに恋をした可能性を推測する者もある。しかし、エミリーの詩におけるマゾヒズムと暴力について批評したカミール・パーリア(Camille Paglia)のような急進的な文学批評家らは、エミリーとスーザンが肉体的関係にあったことを徹底的に否定している。エミリーの詩や手紙の多くは熱のこもった、情熱的でエロチックなものであるが、エミリーが誰かと肉体的な関係を持ったと信じている伝記作家や批評家は少ない。
スーザンは、エミリーの兄であるオースティン・ディキンソンと1856年に結婚した。エミリーは、かつてないほど力を込めて作った自身の詩を批評するようスーザンに依頼した。1886年5月15日、死去。死因はブライト病(腎臓疾患の一種)であると考えられている。
死に際し、家族は800以上の詩が記された手とじの本40冊を発見した。
詩とその影響[編集]
1859年頃のエミリー・ディキンソン。これら2枚の写真の他、肖像は存在しない。
エミリーの詩は、他の詩人の作品とは異なっていて、しばしば一目で見分けがつく。バラードと賛美歌の韻律を作る才能、草稿に見られるダッシュの多用と型にはまらない大文字の使用、風変わりな語彙と比喩的描写などにより、独特の叙情詩を作っている。
1840年から50年の10年間に、マサチューセッツ西部を席巻した信仰復興のただ中に、エミリーは詩人という天職を見出した。彼女の詩の多くが、日常の小さな出来事の反映であったり、社会の大きい事件であったりする。その大半は、南北戦争中に作られた。南北戦争が、詩に緊張した感じを与えていると考えている人も多い。エミリーは、一時的にではあるが、自分の詩を出版しようと考えており、文学批評家であるトーマス・ウェントワース・ヒギンソン(Thomas Wentworth Higginson)にアドバイスを求めたほどであった。ヒギンソンはただちに詩人の才能を認めたが、彼がエミリーの詩を、当時人気のあったロマン主義的なスタイルに倣い、より華麗な文体に「改善」しようとすると、エミリーはすぐに出版計画への興味を失った。
1886年の死去までに、わずかに7つの詩が世に出され、そのうち5つはSpringfield Republican紙上に掲載された。死後の1890年代に出版された3つの詩集で、エミリーはパワフルな奇人であることが証明されたが、詩人として評価されるのは20世紀を待たなければならなかった。エミリーの詩は、その死後、ヒギンソンとメイベル・ルーミス・トッド(Mabel Loomis Todd)によって撰集された。トッドは、収集と整理を、ヒギンソンは、編集を行った。彼らは、草稿の句読法と大文字の使用法を19世紀後半の正書法にあわせるため、詩に大幅な編集を加え、時にはエミリーの間違いを減らすために、言葉の置き換えを行うこともあった。1890年、詩集「Poems」がボストンで発行され、大変な人気となった。それは、1892年の終わりまでに、11刷に達したほどである。「Poems: Second Series」(第2集)は1891年に発行され、1893年には5刷に達し、第3集は1896年に発行された。エミリーの2冊の書簡集は、1894年に出版されたが、それはトッドによって過度に編集と選り分けがなされており、中には日付すら改変されたものがあった。死後の一連の出版によって、エミリーの詩は、初めて衆目を集めることになり、ただちに読者を得た。ヒギンソンとウィリアム・ディーン・ハウエルズ(William Dean Howells)の好意的な論評や批評の支えもあって、詩は1890年から1892年の間、好評を博した。だが、90年代後半には否定的な批評が台頭する。トーマス・ベイリー・アルドリッチ(Thomas Bailey Aldrich)は、批評誌「アトランティック・マンスリー(Atlantic Monthly)」1892年1月号に、匿名で、影響力のある否定的な批評を掲載した。
「ディキンソンが奔放でグロテスクな想像力を備えていたことは明白である。彼女はブレイクの神秘主義に色濃く染まっており、また、エマーソンの手法の影響を強く受けていた・・・しかし、彼女の短詩に一貫性がなく、雑然としているのは致命的である・・・一風変わった、夢見がちで、中途半端に教養のある、へんぴなニューイングランドの村(あるいは他のどこか)に住んでいた隠者は、罰を受けずには、引力と文法の法則を無視することができない。」(in Buckingham 281-282)
20世紀初頭には、エミリーの姪であるマーサ・ディキンソン・ビアンチ(Martha Dickinson Bianchi)がさらなる詩集のシリーズを出版した。それには、以前には発表されていない詩が多く含まれており、同様に句読法と大文字の使用法が修正されていた。The Single Houndが1914年に、 The Life and Letters of Emily DickinsonとThe Complete Poems of Emily Dickinsonが1924年に、Further Poems of Emily Dickinsonが1929年に世に送られた。トッドとビアンチによって編集された他の書籍は、段階的に、以前には発表されていない詩を公開しつつ、1930年代を通して出版された。現代詩の興隆にともない、19世紀における詩形の観念では、失敗作だとされていたエミリーの詩は、もはや驚くべきものでもなかったし、新しい世代の読者とって不快なものでもなかった。そして、フェミニズムの新しい波によって、彼女は女性詩人としてより強い支持を得るようになった。疑いなく、彼女の株は上がったが、一般的には初期現代詩人の中の偉大な詩人であるとは考えられていなかった。それは、1937年に書かれたブラックマー(R.P.Blackmur)の批評においても明白である。
「彼女はプロの詩人でも、アマの詩人でもない。他の女性が料理や編み物をするのと同じように飽きもせず、個人的な詩を書いていたのである。彼女の言葉を使う天賦の才能や彼女が生きた時代の文化的な苦境が、彼女を、背もたれカバー作りではなく、詩作に駆り立てたのである。……テートが指摘するように、彼女が生まれたのはある種の詩作には適していた時代であった――すなわち、洗練された、異様な幻視の詩作である。いくつかの詩篇とすぐれて具象的な詩節に限っていうならば、そうした時代に生まれたことは彼女にとって良い方向に働いたともいえる。しかし……彼女の詩の大半は具象的ではなく、断片的な直説法による覚え書きにすぎない。残念なことは、彼女にはテーマも洞察力も観察眼も深い誠実さもあり、あとはいかにして、そしてなぜ、短い断片的な詩節では
|・)…
御嶽山は
行者は9月初旬を過ぎたら 登拝しない事になっているようで、
噴火によって 亡くなられた方の 登山グループの中には
統一教会の信者団体があったという話しが出ており、
なぜ 統一信者が 御嶽山のような霊山に登ろうとしていたのかなど 多少不可解な点があるそうばい。
++++++++++++
376 :名無しさん@0新周年@\(^o^)/:2014/10/05(日) 02:14:49.25 ID:kamPNH3n0.net
今登山板を見てきたが
統一教会信者たちが
御嶽山の山頂で太鼓叩いてたとかありえんだろ、
統一教会はキリスト教系の新興宗教なんだから
天父報恩鼓ってなんですか?
天父報恩太鼓
韓国の産んだ、基督教統一教会・平和奉仕ボランテイア隊のことで
2000年に結成された、創作太鼓のチ-ムで太鼓を使いパフオ-マンスをし各地をまわっています。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14110043699
YOSAKOIソーランは創価だけだと思ってたけど
統一教会も関わってたのか
太鼓の叩き方チャンゴだしな
あっちもこっちも朝鮮カルトに侵食されてる
中日新聞、当初は17人の宗教団体と書いてあったのに
きょうは地元のアウトドアサークル
とかになってた・・
大人の事情なのか?
TVでは「太鼓演奏仲間」とかボカして言ってたな
登山スレ見てきたら
なんか山頂でやったらしいんだよな
御嶽教の聖地なのに
山の神様が怒られて
他が巻き添えになった
ような気さえしてきた
(山岳信仰の宗教も入山しない期間を狙った…?)
112 :名無しさん@0新周年@\(^o^)/:2014/10/03(金) 10:35:43.51 ID:JnC6Hi9Si.net
山岳信仰御嶽教の聖地で
信者も入山しない期間に
統一協会の御一行様が登山
264 :名無しさん@0新周年@\(^o^)/:2014/10/05(日) 01:23:40.05 ID:U5GfPqw30.net
統一協会じゃねぇだろ
修験道とかの山岳信仰の団体だよ
東スポに載った団体ちゃうか
281 :名無しさん@0新周年@\(^o^)/:2014/10/05(日) 01:28:43.74 ID:Ov+aTgzeO.net
御嶽教は入山しない期間
8/10から社務所も閉まってる
東スポがデマ
統一協会から金でも貰ったんじゃないかと勘ぐりたくなる
統一協会の件は
過去スレにソースあったから勝手に掘ってくれ
御嶽教は9月3日に頂上の神社で閉山式をして
閉山してからは、田の原(7合目)より
上に登ってはいけないそうだ。
閉山後は神様は頂上ではなく
里宮にいらっしゃるという考え方らしい。
ソースは御嶽教の先達と住職をしている方のブログ。
住職も自分の寺の講を引率してまさにその日に登拝していたが
いろいろの偶然もあって噴火の瞬間も気が付かないほど
安全な場所で難を逃れた。
東スポは何か混乱して誤報を流しているか、
ウラを取らないで誰かに騙されてるか。
御嶽教の中でも閉山後に頂上に行く講が
あるのかもしれないが。
御嶽教に合わせて閉山してれば
誰も死なずに済んでるわけだ
本当に信仰の場を荒らしたらいかんな
本当にそれ。
江戸時代は修業した行者が
長期の精進潔斎をしてから登ったけど、
それを簡略化して一般信徒も登れるように
した行者がいたらしい。
今のように誰でも観光登山するようになったのは
環境が整備されてからなんだろう。
余談だけど、御嶽教の信徒も最盛期よりは
減っていてかつ高齢化もしているから、
御嶽山の関連業種の人も一般人に頼らないと
やっていけないのかもな。