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宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

「仏教の功過格」

2015年11月21日 | Weblog





(  `m´) 「…道教影響と思われますが
          仏教にも 功過格がありまして
          内容的には 道教のそれと同じ、

          ただ功過の単位が もっと細かいと言えましょうか…」


【功】


・一つの人命を救う:一徳



・生涯に渡って経文を信奉する:五善

・生涯に渡って聖訓を信奉する:五善

・生涯に渡って 因果応報を信じる:三善



・天地を1回祭祀する:九功

・聖人や賢者を1回褒め称える:八功

・経文を1冊与える:三功

・神仏を誠敬する事を1回行う:三功

・淫念を起こさないで1日を過ごす:一功

・百個の文字を教えるごとに:一功

・夫婦が互いに敬うごとに:一功

・礼仏や読経を1回行う:一功

・落し物を届けてあげる:一功

・師を敬う:一功


・旧暦の毎月1日と15日の朝に焼香する:五得

・礼仏読経する人を1回褒める:五得

・竈のある場所の清静を1回保つ:五得

・祖霊祭祀を1回行う:五得

・食べ物の寄付を1回行う:五得

・神仙や仏を 1回思敬する:一得

・衣服を1回清潔にする:一得

・道路や路上を清掃する:四得



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18 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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燃える樹 (人間(ひと)もまた一つの生命(いのち))
2015-11-21 09:51:35
燃える樹

どっしりと
根をおろしたまま
もうどこへも
行けない
樹は樹であることを生きている

ふかく足をふんばり
たかく胸をふくらませ
ひろく腕をのばしながら
百年も千年も
いのちを
あたらしく
いのちをふかめてきた

樹も人もおもう心は同じ
春には若葉でわらい
夏に茂ることですずしい
秋にはもみじした葉が
美しく舞うし
冬には
すっぱりはだかになって
自分をみつめる

寒風にふるえながらも
地底のあしうらから
天をさすほそい指さきへ
いくすじにもわかれて
たちのぼる
いのちのぬくみをだいている

くらやみに
しんといてついて
立つ樹
無心な樹よ
芯で燃える

  石風社 人間(ひと)もまた一つの生命(いのち)
                    みずかみかずよ

返信する
功過格と得仙 (もみ@サルティンバンコ )
2015-11-21 10:42:50

|・)…

1日の中で 神仏を思敬する事を10回行えば
それだけで一功になるみたい。

また読経1回で一功になるので
読経で得仙しやすい1つの理由になるみたい。

日本大衆仙道は 宗教的部分を極力切り落として

周天法とか 房中術など 難しい方のもの、現代事情にまずそぐわない方法を選んで
「仙道は無理」 何て言ったりしているけれど

仙道は宗教の一部である事を認識するならば
読経も 仙道修業の一つである事を理解できると思うばい。


返信する
刑事(でか)上額ではなく (形而上学)
2015-11-21 14:22:00
・・日々空気を吸って吐いて、三度の食事を摂り
そして水を飲んで生きている・・でも生きている
意味はよくはわからんばい。一生懸命生きても
好い加減に生きてもヤガテ死はやってくるヤーヤーヤー
 以下こぴぺ 感謝


(1)人生の目的・人生の意義。

人生は真実を知るためにある。

人生は何のためにあるかと問われたら、私は躊躇なく、「真実を知るためにある!」と答えます。なぜなら、人生ほど謎めいたものはないからです。"人生は不可解なり!"と遺書を残し、滝つぼに身を投げた学生がいたと聞きますが、その気持ちが分からないでもありません。

あなたは、人生をどう捕らえておりますか?。今日まで、何を求めて生きてきましたか?。現代人に、”人は何のために生きているのか”と問うと、「家族を養うため!、良い家庭を築くため!、」と答える人が大半です。殆どの人は「分からない?、死ぬわけにゆかないから生きている」と首を傾げながらいいます。中には「食べるために生きている、楽しむために生きている、」という人さえいるのですから、いかに人生が不可解なものか思い知らされます。

何も分からず、何も考えず、ただ肉の欲するままに生きる、そんな人生で良いのでしょうか?。生まれたからには、ぜひ人生の謎解きをして帰りましょう。

人生において一番大切なこと。

世の人々は、地位や、名誉や、財産を多く残した人を成功者と呼びます。でも彼らは、本当に成功者なのでしょうか?。もしそうなら、この世の地位や名誉や財産を、そっくりそのままあの世に持ち帰っているはずです。しかし、そのような人は一人もおりません。それは、地位や名誉や財産はこの世限りのもで、永遠では無いからです。私たちが求めるべきものは、永遠に無くならない真実です。




人生において大切なのは、

 ○幸せだったか?、不幸せだったか?、ではないのです。

 ○長命だったか?、短命だったか?、ではないのです。

 ○何を成し遂げたか?、成し遂げなかったか?、ではないのです。

 ○世に名声をとどろかせたか?、とどろかせなかったか?、ではないのです。



人生で一番大切なことは、どれほど真実と向き合うことができたか?、どれほど魂を揺さぶる人生を送れたか?、すなわち、どれほど本当の自分(真実)を知り得たかなのです。しかし多くの人は、物やお金や地位や名誉を得るために命を削っています。

私はこの世の物を否定しているわけではありません。地位や名誉や財産よりも、もっともっと大切なものがありますよ!、それは真実を知ることなのですよ!、といっているのです。

私達が求めるべきものは真実です。すなわち、「本当の自分を知ること」です。これ以外人生の目的はありません。

成功者とは、真実に少しでも近付けた人のことをいうのです。 

真実を知るために生まれてきた私達。 

では、本当の自分は何なのでしょうか?。ズバリ言いましょう。本当の自分は、「生命」です。この真実を知るために、私達は生まれてきたのです。

これまで多くの覚者が下生し、衆生に真実を知らしめんと奮闘してきましたが、未だに多くの人が自分のことを人間と思い、人間として生きています。したがって生・老・病・死から逃れられず、苦しみに喘いでいます。生命に目覚めたら、一切の苦しみから解放されるというのに、それが人間には分らないのです。といっても、この迷妄から目覚めるのは容易なことではありません。だから神様は刺激の強いドラマを用意し、目覚めるのを待っているのです。

悲しいドラマも、苦しいドラマも、生命の自分を発見するために必要なドラマです。もし、楽しいドラマや退屈なドラマばかりなら、何の疑問を持たず一生を終えてしまうでしょう。これでは、何のために生まれてきたのか分りません。

この世の厳しいドラマは、「早く目覚めて下さい!、早く目覚めて下さい!」と催促する目覚まし時計のようなものです。さあ、うるさい音に悩まされたくなかったら、一日も早く「生命の自分」に目覚めましょう。

人生の思索に死の題材は欠かせない。

人は、肉親の死を前にして嘆き悲しみます。特に若者の死は、残された家族に強烈なシヨックを与えます。それを人は、不幸と呼びます。でも、死は本当に不幸なのでしょうか?。

幸せな時にはあまり考えませんが、肉親の死を目の当たりにすると、人は死に対する疑問を持つようになるものです。


   ・死とは何か?、

  ・人は死んだらどうなるのか?、

  ・人生とは何なのか?、等々・・・。



なぜ神は、人に生きる悩み、老いの哀れさ、病む苦しみ、死の恐怖を与えたのでしょうか?。それは、人生に疑問を持ってもらうためではないでしょうか?。その意味において死は、貴重な思索の題材を提供してくれていることになります。死を有益なものにするか、無益なものにするかは、残された家族がどのように死と対峙するかにかかっているのです。

一人の死が、周りの人の人生を変えた例はいくらでもあります。それほど人の死は、周辺に大きなインパクトを残していくのです。だから人の死を、単なる不幸と考えてはならないのです。

人生において追い求めるべき宝物は何か?。

今人間は、どんな宝物を追い求めているのでしょうか?。失わない宝物でしょうか、それとも失う宝物でしょうか?。残念ながら殆どの人は、お金や財産や地位や名誉など、この世限りの宝物を追い求めています。それも何の疑問も持たないで・・・。

「私の持っている富に比べれば、あなた達の持っている富は、針の先にも当たらない小さな富なのですよ!」と聖者達がいうのは、人間が追い求めている富は消えて無くなる幻の富だからです。

永遠の私達が、消えて無くなる富を追い求めるなど愚かです。求めるなら、永遠に無くならない富を追い求めましょう。では永遠に無くならない富は、何処にあるのでしょうか?。

・遠い秘境にあるのでしょうか?。

・深い海の底にあるのでしょうか?。

いいえ、手よりも足よりも近い、自分の心の中にあるのです。それは生命として、本当の自分として・・・。

神様は人間に、難しいことを要求しているのではありません。素直に手を伸ばせば、すぐに掴める宝物(生命)を受け取りなさい!、といっているのです。

どうか難しく考えないで下さい。子供のように素直になって、食べたいお菓子にかぶりついて下さい。生命にかぶりついて下さい。

人生に続きがあるか?。

人生に続きが有るか無いか考えるのは、とても大切なことです。なぜなら、それによって生き方がまったく違ってくるからです。

あなたは一回限りのキップと、プレミアム付きのキップのどちらを大切にしますか?。続編のある物語と、続編の無い物語のどちらが心に残りますか?。人生も同じです。これっきりの人生は、どうしても刹那的な生き方になりがちです。「今楽しかったら良い!、今幸せだったら良い!、後は野となれ山となれ!」そんな生き方になるのです。

今人類が刹那的な生き方をしているのは、人間を一時の存在だと考えているからです。もし人間が永遠の存在で、今の生き様が未来の人生に重大な影響を及ぼすと知ったら、決して刹那的な生き方はしないでしょう。

今の子供達の目に輝きが見えますか?。何一つ夢も希望も与えず、ただガムシャラに現実を直視させ勉強せよと叱咤する教育が、本当に子供達のためになっているのでしょうか?。子供達は真実を知りたがっているのです。もし彼らに人生の真の意味を教えたら、おそらく目をギラギラと輝かせ希望を持って生きることでしょう。どうでしょう、やってみる価値があるのではないでしょうか?。

たとえ私が唯物論者だとしても、人生に続きがあるか無いか問われたら、私は五分五分だと答えます。現代科学に、これを否定する根拠は何も無いからです。無いということは、確率五割だということです。私は体験から百パーセントあると断言できますが、たとえ五十歩下がって五十パーセントだとしても、大いに現実味のある話だと思います。あなたは、五分五分の勝負はしないのですか?。ますます混乱する地球の現状を、五分五分の勝負だからといってしないつもりですか?。未だかって人類は、このような勝負はしたことが無いのです。やってみてダメなら、元に戻れば良いではありませんか?。ただ非科学的だからといって、笑って済ますつもりですか?。人生に続きがあるか無いか論ずるのに、なぜそのように逃げ腰になるのですか?。

同じ血を分けた兄弟姉妹なのに、なぜ気質や性格が違うのでしょうか?。同じ環境に生まれ、同じ環境で育った一卵性双生児でさえも、気質や性格が違うのですよ。それは過去において、違う人生を歩んでいたからではありませんか?。一回限りの人生なら、この謎は解けないはずです。

生まれながら幸運な人もいれば不運な人もいる?、頑健な体を持て生まれてくる人もいれば脆弱な体を持って生まれてくる人もいる?、これも人生に続きがあると考えなければ解けない謎です。

「人生に続きがあるといえば命を粗末にする者が出てくるから、軽々しく口にしてはならない!」、という人がおりますがとんでもない!、一回限りの人生だと思っているから、命を粗末にするのですよ!。もし、今の人生が未来の人生に重大な影響を及ぼすと知ったら、軽んじるどころか今以上に大切にするはずです。恐らく、自殺する人など一人もいなくなるでしょう。

本当の自分を知るために生まれてきた私達。

人間は意識するしないにかかわらず、常に真実を求めています。これは、人間が宇宙生命なるがゆえの本能的欲求ですが、顕在意識はその自覚が無いため、この世的な何かを求めては自分を慰めているのです。それが地位であったり、名誉であったり、お金であったりするわけですが、どんなに偽物を手に入れても心は満足しません。だから多彩な趣味を持ったり、夜の街を徘徊したり、酒で自分をごますような行動に出るのです。でも何をしても生きている実感が得られない、そこで過激な行動に走る人も出てくるわけです。

「私の人生は充実しています!、私は幸せです!」、といい切る人がおりますが、それはただの錯覚か負け惜しみです。彼らの笑顔の下には、満たされぬ心の苦みが隠されているのです。だから人生の終焉を迎えた時、人一倍強い悔悟の念を持ってこの世を去るのです。

人生の目的は、真実を知るためです。すなわち、

「本当の自分を知るためです。」

真に生きている証が立てられるのは、本当の自分を発見した時のみです。それ以外は、錯覚か、ごまかしか、騙しです。

充実した人生を送ろう!。

平凡な人生を歩んでいる者の成長は少ないものです。なぜなら、苦しみも悲しみも無いところに、疑問も気付きも起きようが無いからです。人は疑問を持ってこそ、真実の扉を開こうと努力するのです。だからイエス様はいわれたのです。

「苦しむ者は幸いなり、その者は神の国を見るであろうと・・・。」

あなたは今日までの人生において、平凡だった時と苦しかった時のどちらが心に残っておりますか?。多分、苦しかった時だと思います。その時あなたは、「なぜ、こんなに苦しいのだろう?。」と疑問を持ちませんでしたか?。

苦しみが人を成長させるのは、アスリートが肉体を鍛える心に通じています。その心の出どころは、強くなりたい!、成長したい!、と願う向上心です。向上心の旺盛な人は、現状に満足できないのです。疑問を持ち、まだまだできると、常に先を見つめています。だから、人生を価値あるものにできるのです。

無為な人生を送るほど、空しい一生はありません。ぜひ、充実した人生を送りたいものです。そのためには、大いに疑問を持つことです。持ったらその
返信する
スカッとコカコーラ世代 (そして団塊!!!その子供達)
2015-11-21 14:42:13
 オウム世代が導火線に火を点けたのかな・・・
赤黄青信号みんなで渡ろうネ~

以下こぴぺ 感謝
       ハルマゲドンはいつか?
    ハルマゲドンの戦いが起きるとき

 私たちは最近、「ハルマゲドン」という言葉をよく耳にします。これはもともと聖書の言葉ですが、最近では聖書を信じない人々まで、よく使うようになっています。そして、
 「ハルマゲドンまであと数年しかない!世界最終戦争、人類滅亡の日がやって来る」
 というのです。しかし、「ハルマゲドン」は世間では必ずしも本来の意味で使われているわけではなく、曲解されている場合が多いのです。私たちは「ハルマゲドン」に関する正しい理解を持たなければなりません。

 ハルマゲドンの戦いは一九九九年という説もあった

 「ハルマゲドン」とは、聖書・ヨハネの黙示録に記された、世界最終戦争の起きる"場所の名前"です。
 これは地名ですから、厳密には「ハルマゲドンが起きる」とか「ハルマゲドンが来る」という言い方は、正しくありません。「ハルマゲドンで戦争が起きる」「ハルマゲドンの戦いが起きる」等と言うのが正しいのです。
 しかし一般社会では、ハルマゲドンを地名としてではなく、最終戦争の別名と誤解して用いていることが多いようです。
 一般社会における近年の"ハルマゲドン現象"は、多くの場合、「ノストラダムスの予言」に煽られて起こったと思われます。ノストラダムスは、
 "一九九九年、七の月、恐怖の大王が降ってくる。「光の反対のもの」というものも降る。それで世界は荒れ果て、すべては絶滅してしまうだろう"
 と予言しました。こうして二〇世紀の世紀末にはたいへんなことが起こる、世界は絶滅してしまうという、世俗的終末論が起きたのです。
 それで人々の中には、「ハルマゲドンは一九九九年である」という、一九九九年説が生まれました。
 最近警察の追求を受けているオウム真理教の麻原彰晃・教祖も、最初はハルマゲドンの戦いは一九九九年と言っていたようですが、その後、
 「一九九七年から九八年にかけて、ハルマゲドンが起こる」
 と言って、時期を早めました。彼はこうしてノストラダムスの予言等に対する人々の関心を利用しながら、信者を扇動していったのです。
 そのほか、最近の新興宗教の中には世紀末思想、また世俗的終末論を利用して、信者を扇動しているものが少なくありません。
 しかし、ハルマゲドンの戦いは本当に一九九七年~一九九九年の頃に起きるのでしょうか。
 聖書の予言から言って、それはあり得ません。
 聖書の予言によれば、やがてエルサレムにユダヤ教の神殿が再建されます。その神殿再建後、しばらくして、エルサレムが異邦人によって踏みにじられるようになります。その時、二人の神の預言者がエルサレムに現われて預言活動をします。
 ハルマゲドンの戦いは、エルサレムが踏みにじられ始めるこの時から数えて、七年後に起きるのです。
 今年は一九九五年ですが、現在はまだ、エルサレムにユダヤ教の神殿は再建されていません。また、エルサレムは異邦人に踏み荒らされていません。
 ですからハルマゲドンの戦いは、現在から数年後の一九九七~一九九九年の間には、決して起きないのです。

 ハルマゲドンの戦いは患難時代の最後の出来事

 ハルマゲドンの戦いは、聖書に予言された終末の「患難時代」と呼ばれる期間の、最後の出来事として起きます。
 「患難時代」は、前兆期、第一期、第二期、第三期に分けられます。
 前兆期は、聖書・ルカ福音書二一・一〇~一九等に記された初期的な事象の起きる期間です。
 戦争、大地震、疫病、ききん、にせキリスト、にせ預言者、にせ救世主、迫害、愛が冷えること、犯罪の増加等の事象が数多く起きます。これらの兆候は、現在すでに見受けられます。
 そののち第一期に入ります。これは5ヶ月の疫病がおそう期間です(黙示9:5)。
 さらに、この前兆期~第一期の期間内に、エルサレムにユダヤ教の神殿が再建されるはずです(マタ二四・一五、二テサ二・四)。実際、ユダヤ人は最近、神殿再建のために熱心に計画を立て始めています。
 ユダヤ人はこの神殿を、「第三神殿」と呼ぶでしょう(第一神殿はソロモン建造の神殿、第二神殿はゼルバベルによって再建され、ヘロデによって修理・増築された神殿)。
 つぎに、患難時代第二期になると、ルカ二一・二〇~二四等に記された事柄が起きます。エルサレムは異邦人の軍隊に踏み荒らされます。
 「しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときにはその滅亡が近づいたことを悟りなさい。・・・・異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に荒らされます」(ルカ二一・二〇、二四)。
 またこのとき、神の二人の預言者がエルサレムに現われて、預言活動をします。
 「(異邦人)は、聖なる都を四二か月の間踏みにじる。それからわたし(神)がわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て一二六〇日の間預言する」(黙示一一・三)。
 このように患難時代第二期は、「四二か月」すなわち「一二六〇日」すなわち三年半です。
 つぎに、患難時代第三期になると、ルカ二一・二五~二八等に記された最終局面の出来事が起きます。
 第三期も、第二期と同様三年半で、この時期には「獣」と象徴的に呼ばれる独裁者が世界に台頭し、この世の悪は最高潮に達します。
 「この獣は傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四二か月間活動する権威を与えられた」(黙示一三・五)。
 このように第三期も、「四二か月」=三年半です。第二期は三年半、第三期も三年半で、合計七年です。
 第三期の終わりに、キリストが再臨(再来)し、悪の勢力を打ち砕かれます。それが「ハルマゲドンの戦い」と呼ばれるものです。
 したがってハルマゲドンの戦いは、第二期の開始を告げるエルサレム荒廃から数えて七年後、ということになります。

エルサレムにやがて第三神殿がたつ。その後
エルサレムは異邦人によって踏み荒らされる。
ハルマゲドンの戦いは、そのエルサレムが
踏み荒らされる時から7年後に起きる。

ハルマゲドンの戦いはエルサレム荒廃から七年後

 ハルマゲドンの戦いについて、黙示録は次のように記しています。

 「第六の御使いが、鉢を大ユーフラテス川にぶちまけた。すると、水は日の出るほうから来る王たちに道を備えるために、かれてしまった。
 また私(ヨハネ)は、竜(サタン)の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出てくるのを見た。
 彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出ていく。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。
 ――見よ。わたし(キリスト)は盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。――
 こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた」(黙示一六・一二~一六)。
 
 ハルマゲドンの地に、多くの国々からなる同盟軍が集結するのです。
 ハルマゲドンは「メギドの丘」という意味で、イスラエル北部の地にあります。ガリラヤ湖の南西四〇キロくらいの所です。
 古くから、雌雄を決する戦闘が行なわれてきた戦場としても有名で、世界最終戦争もここで行なわれることになります。
 しかし、世の多くの人はハルマゲドンの戦いは人間同士、また国と国との戦いだと思っています。
 それは第三次世界大戦とも言えるもので、人類絶滅戦争となるだろう、また、核も使われて核戦争となるのではないか、と思っています。
 けれども、ハルマゲドンの戦いはそのようなものではありません。それは人間同士が戦う普通の戦争とは異なります。ハルマゲドンの戦いは、神の勢力と、地上の悪の勢力との戦いなのです。聖書はこう記しています。
 「私(ヨハネ)は、開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は『忠実また真実』と呼ばれる方(キリスト)であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。・・・・天にある軍勢(クリスチャンたち)は、真っ白な清い麻布を着て、白い馬に乗って彼に従った。・・・・
 また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、(ハルマゲドンで)、馬に乗った方(キリスト)とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。
 そして、このふたりは、硫黄の燃える火の池(地獄)に、生きたままで投げ込まれた。残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた」(黙示一九・一一~二一)。

 神の軍勢はキリストとクリスチャンたち、また悪の軍勢はハルマゲドンに集結した王たちと、獣(独裁者)、また偽預言者です。ハルマゲドンの戦いは、このように神の軍勢と地上の悪の勢力との戦いなのです。
 それは決して、第一次世界大戦や第二次世界大戦のような人間同士の争い、また領土の奪い合いではありません。ハルマゲドンの戦いは、再臨のキリストが地上の悪の勢力に対してなさる審判なのです。

ハルマゲドンの戦いは人類絶滅戦争ではない

 世の多くの人は、「ハルマゲドン」と聞くと、背筋の寒くなるような人類絶滅戦争と思いがちです。しかし聖書の語るハルマゲドンの戦いは、決してそのようなものではありません。
 クリスチャンにとってハルマゲドンの戦いは、恐れるべきものではなく、むしろ待ち望むべきものです。それは人類絶滅戦争ではなく、悪の勢力に絶滅をもたらす神の審判だからです。
 ハルマゲドンの戦いは決して、善人も悪人も無差別に死んでしまう戦争ではありません。そのとき死ぬのは、滅びるべき人々だけなのです。
 死は無差別にではなく、選択的に起こります。そのとき、主イエスに従うクリスチャンたちは一人も滅びません。
 「これらのことが起こり始めたら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖い(救い)が近づいたのです。」(ルカ二一・二八)。
 「あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。あなたがたは、忍耐によって自分の命を勝ち取ることができます」(同二一・一八~一九)。
 ハルマゲドンの戦いは、悪の勢力を一掃するものであり、地上に至福と平和の「千年王国」をもたらすものです。クリスチャンたちはこのとき全員生き残り、キリストにあって、来たるべき千年王国を継ぐのです。

返信する
合ったよモミさん (もみサンのテーマ曲)
2015-11-21 14:57:58
・・なるほど~を

もみさんの曲があったばい 偶然それは必然?

では追加リクエスト よろしく
                 ユーチュー&もみサン感謝

  ~紅葉(もみじ)~ NHK東京児童合唱団Part.1
196,214.
上記 リクエスト よろしく
返信する
若さなきバンバン晩晩秋 (Get 0ld ナ かまやつさん)
2015-11-21 15:30:24
 おそらく今四人はアイドルのビートルズが
生きていて武道館でライブ公演やったとしたら
こういう形のバンバンバンになるんだろうね。
 玉手箱も開き、浦島太郎はお婆さん~

では追加リクエスト  意味深なのだ

「バン・バン・バン」ムッシュかまやつ
.
                      視聴回数 801 回
Love Folksong

Love Folksong
チャンネル登録3,172

 もう一丁
 
 レアアース で Get ready こちらもタノミンCーcc









.









返信する
日も暮れて (夕陽も沈む)
2015-11-21 17:56:48
 なんとなく茫洋とした一日だった。
別に虚しくも淋しくも悲しくもないし、
ただただ茫洋とした中に佇んだ一日。
辺りも日が暮れて・・・・・・

では 追加リクエスト よろしく
   ゆーちゅー&もみさん 感謝


Tea For Two(今井美樹)..Harmonica Tokunaga
.                    視聴回数 360 回

徳永延生










返信する
ずんどこべろんちょ (モミハょちんろべこどんず)
2015-11-21 22:35:24
 あぶだかだぶら あぶだかだぶら
・・・・以下こぴぺ 感謝
          
         ズンドコベロンチョ
2014年10月)

「ズンドコベロンチョ」は、1991年4月18日にテレビドラマ『世にも奇妙な物語』内で放送されたストーリー。また、2015年11月21日にも放送された。第94作目。同回の作品に「愛車物語」「ライバル」がある。

ストーリーテラーであるタモリが最も好きな作品でもあり、2009年4月6日に放送された『SMAP PRESENTS ドラマの裏の本当のドラマ』内でも、その様にコメントしている。

脚本は北川悦吏子。過去にも番組の脚本をいくつか担当していたが、この作品をきっかけに注目されるようになる。

当時、放送終了後に「ズンドコベロンチョ」に関する問い合わせがフジテレビに殺到した(北川本人によると約650件)。

三谷幸喜脚本のドラマにおける「赤い洗面器の男」の話や富士ゼロックスの「Apeos」のCMに似た手法が取られている。
あらすじ[編集]

主人公は、優秀なエリートサラリーマンの三上(草刈正雄)。主に仕事の場を中心に自分の知識の広さ・深さを披露し、日々、難解な言葉を頻繁に駆使・活用して周りから畏怖・尊敬されていた。ある日、身の回りで「ズンドコベロンチョ」なる言葉を耳にする。その言葉は知っていて当然だと語っているため、部下から急に話を振られた三上はつい知ったかぶりをする。その後すぐにどういうものなのか調べようとするが、全く意味を知ることができない。

気が付くと、「ズンドコベロンチョ」は流行の中心となっていて、常に周囲の会話の中に「ズンドコベロンチョが…」「やっぱズンベロだよ…」と出てくる程。三上は度々その会話に聞き耳を立てるものの、その内容を得るには至らない。当然三上も周囲の人間に話を振られるが、今更聞くに聞けない状況になってしまい、適当に相槌を打つしかない。

意味を推測してもことごとく外れる上、周囲や家族のズンドコベロンチョに関する会話の内容に共通性が無く、三上をますます混乱させる。また、度々核心に迫るチャンスがありながら、それを逃し続ける。

どう画策してもその言葉の意味を知ることが出来ず、半ば錯乱状態になってしまう。そんな三上を尻目に、ついに会社でも「ズンドコベロンチョ・プロジェクト」が発動。しかも自分がその責任者に大抜擢されてしまう。進退窮まった三上は、ついに半泣きで皆に「教えて…、ズンドコベロンチョって、何?」と尋ねる。そんな彼に、周囲は驚愕と失望の声を一斉に上げるのだった。

スタッフ[編集]
脚本:北川悦吏子
演出:金澤克次
製作:にっかつ撮影所

キャスト[編集]
草刈正雄
田山涼成
丸岡奨詞

特記事項[編集]

作者の北川悦吏子によると、知り合いのサラリーマンと懐石料理を食べている最中に「友人から電話が来ても結婚の話ばかりだ」と言い、「もし結婚と言う言葉が解らなかったらどうなるだろう。自分の知らない言葉が在るってのは怖い」と続けた。ならその解らない言葉は何がいいだろうと言うとそのサラリーマンは「ズンドコベロンチョはどうだろ」と言った事からこの作品が誕生した。

その後、会議でシナリオを出したところプロデューサーが即、映像化を決定し放送されることとなった。この番組で会議の際に即映像化が決定される作品は珍しい。 北川は書いたらすぐ忘れていくため一度目に書いた脚本のデータを消してしまい二度目の脚本が使われている。

なお、「ズンドコベロンチョ」の意味は未だに不明である。太田出版発行の「世にも奇妙な物語7」に収録されているノベライズでは都市伝説の牛の首の様に誰もが皆知ったふりをしているだけで存在しない物と言う事になっているが、この作品はノベライズを担当した作家による独自の展開であり、ズンドコベロンチョの意味も本来とは異なる可能性がある。

ノベライズ[編集]
世にも奇妙な物語7(1991年7月23日発売 太田出版)最初のノベライズ。展開の一部が小説オリジナルになっている。世にも奇妙な物語III(1993年11月29日発売 太田出版)「世にも奇妙な物語7」の文庫版。世にも奇妙な物語 北川悦吏子の特別編(2003年3月11日発売 角川書店)北川悦吏子の作品を集めたノベライズ。この本に収録されている物が一番オリジナルに忠実。
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なんとなく個人的にはハードな一日だったね (11月の時節としては暖かいね)
2015-11-21 23:30:31
・・・すこし憂鬱な気分が続いているんだけど
では明日のリクエスト

   ゆーちゅー&もみさん感謝


Nana Mouskouri - Serenade
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Artemisia159

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夢追い人 (聞えますか、母さん)
2015-11-22 00:02:30
           夢追い人

金子みすゞが
優しく微笑み
そっと肩に手を添えてくれる
サトウハチローが
破顔の笑顔で手招きし
一杯の冷たい麦茶を
差し出してくれる
谷川俊太郎は
自然体が一番と
私を素に戻してくれる
時の心の師は
私を包み込み
そして
空中に放り出す
私は必死に
何かにつかまろうとするが
風は笑う
鳥は私に背を向ける
今、私は
現実と夢の中を
ゆらりゆらりと
行ったり来たり
そして
夢の中で
一回転する
私は実体のない
夢追い人
夢追い人

  文芸社  聞えますか、母さん 多喜田百合子
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