
「広博厳浄不退転輪経」の一部でも読経したり 写経したり
または他人に説く事は
諸仏を目の当たりにするのと同じ事であり
臨終において 諸仏を見
未来において 阿耨多羅三藐三菩提に至り不退転となるとされます。
広博厳浄不退転輪経は長文ですので
一部を掲載させて頂きます。
「爾時(じじ)
花光開敷遍身如来(かいこうかいふへんしんにょらい)
聞二菩薩作如是言(もんにぼさつさくにょぜごん)
又籌量観察深心所行(ゆうちゅうりょうかんさつしんしんしょぎょう)
復以仏法誡敕安慰告言(ふくじぶっぽうかいちょくあんいこくごん)
善男子(ぜんなんし)
汝今欲往娑婆世界(じょこんよくじゅうしゃばせかい)
見釈迦牟尼仏(けんしゃかむにぶつ)
並諸菩薩及余衆生者(へいしょぼさつきゅうよしゅじょうじゃ)
当生尊重心怜愍心饒益心(とうしょうそんちょうしんれいびんしんじょうやくしん)
所以者何(しょじしゃか)
彼諸菩薩(ひしょぼさつ)
于甚深法不生怖畏(うじんしんほうふしょうふい)
亦不誹謗(えきふひぼう)
能奉三世諸仏教戒(のうぶさんぜしょぶっきょうかい)
以無著心種所善根(じむちゃくしんしゅしょぜんこん)
不為果報勤行諸波羅蜜(ふいかほうごんぎょうしょはらみつ)
此諸菩薩摩訶薩等(ししょぼさつまかさつとう)
以本願故生彼仏土(じほんがんこしょうひぶつど)
為守護諸仏法城塹故(いしゅごしょぶっぽうじょうざんこ)
亦欲遍学一切仏法故(えきよくへんがくいっさいぶっぽうこ)
汝等今欲往彼見耶(じょとうこんよくおうひけんや)
時二菩薩白仏言(じにぼさつびゃくぶつごん)
世尊(せそん)
若承仏神力及三世(じゃくしょうぶっしんりききゅうさんぜ)
諸仏威勢護助願欲往見(しょぶついせいごじょがんよくおうけん)
爾時(じじ)
華光開敷遍身如来告(かこうかいふへんしんにょらいこく)
美音妙音菩薩摩訶薩(びおんみょうおんぼさつまかさつ)
今欲往者当与文殊師利法王子倶往(こんよくおうじゃとうよもんじゅしりほうおうじぐおう)
善男子当共汝往(ぜんなんしとうくじょおう)
爾時(じじ)
美音妙音菩薩摩訶薩(びおんみょうおんぼさつまかさつ)
語文殊師利法王子言(ごもんじゅしりほうおうじごん)
我今因仁者力(がこんいんじんしゃりき)
欲往娑婆世界(よくおうしゃばせかい)
見釈迦如来(けんしゃかにょらい)
並諸菩薩及余衆生(へいしょぼさつきゅうよしゅじょう)。」
突然最近冷蔵庫が断末魔の声・・・・暑いしね
如何しようかと思案・・・不運な事に工務店の社長
不運が三つも四つも重なって冷蔵庫どころではなく
如何しようかと思案してて、するとちょっとしことで
不思議と直ってしまったんだよね冷蔵庫、摩訶不思議
今は普段通り動いて平常
実際ここ数ヶ月我が家毎日オカネトティクな現象が
発生してて・・・本来見えない裏のエナジーとでも言ったら
いいのか、その作用で三次元的なもの達が動かされていささか無気味なんだけど・・・・・
表裏一体・・・表はすべてうらが統治管理されて
塵もチリチリバンバンバンって事・・再認識させられた
次第だね・・・・稲生平太郎も真っ青さ 百鬼夜行
ノビタキが舞う
低木の枝から草の穂先に
ひらひらと はばたいて
胸のオレンジ色が 愛らしい
高原の 澄んだ大気
天にむかってさえずるのは
わたしの至福のとき
赤ゲラの巣穴
木の幹は ひなを抱いて
育ちを楽しんでいる
スイートホームは オーケストラの音合わせ
親鳥が様子をうかがいながら
巣穴に入るのをためらっている
心を残して そっと立ち去る
風は語る
ウグイスやオオルリに
おまえのさえずりを どこへ届けよう
青い絵の具をといたような
静かに佇む木々の間を くぐりぬけ
枝葉をふるわせる そのうたごえ
樅ノ木の高くで イルカは歌う「お菊二十四」
森ははくせくむ
留鳥や渡り鳥を
みやまざくらや おおやまつつじ
すみれ 二輪草
音をたてて はしる清流
清流のそばを 突然鹿が走り去る
森は やさしさと静寂の中に すべてをつつみこむ
(清里高原にて)
土曜美術社出版販売 詩集 落雁とその飛翔
杉山利子の詩
|・)…
をじさんが冷蔵庫に対して使われた手段は
密教的な手法と言えそうばい|・)…
冷蔵庫さんは
どこかで もみと繋がっていたのかも|・)…
|・)…
陰湿ジャップ同士なら
多分 同じ陰湿的な感覚的力学が働くと想像されるのだけど
もみに関しては
そういう「内輪感覚」で捉えて欲しくないばい。
先ほど偶然 日本のお菓子の画像を見たけれど
もう 日本のお菓子は
細か過ぎて理解出来なかったりして
多分 陰湿ジャップとだけでなく
今の日本の感覚と もみの感覚の間には
年々 隔たりが大きくなっていると思うばい。
陰湿マンコ野郎でも
日本の中では 一応「男」として見てもらえるのかもしれない、
しかし もみから見たら
ただの「陰湿 パールハーバー・マンコ野郎ジャップ」でしかないばい。
詩を感じることってあまりないよ・・・詩は何処に?
以下こぴぺ 感謝
谷川俊太郎『詩に就いて』(36)(思潮社、2015年04月30日発行)
おやおや
一日外で働いて帰ってきたら
詩がすっかり切れていた
ガソリンではないのだから
すぐ満タンという訳にはいかない
落ち着いて待っていれば
そのうちまたどうにかなるだろうと考えたが
気がついて見ると私は詩が切れていても平気なのだった
おやおやと思った
二行目「詩がすっかり切れていた」というときの「詩」とは何だろう。「詩情」か。その「情」が切れるとは、自分のなかで詩を感じるこころがなくなるということ、詩を感じなくなっているということか。詩を感じるこころがなくなると、詩がなくなる。
もし「詩(作品)」がそこにあったとしても、それを読んでこころが動かない、反応しないということがあれば、それはやはり「詩が切れている」という状態なのだと思う。
そうだとすると「詩」の存在は客観的なものではなく、詩を感じるこころがあるかないかにかかわってくる。
「三つ目の章」にはひとと詩の関係が書かれている、と私は何回か書いた。「小景」「二人」「同人」などの作品では、女が「詩を感じる対象(ことば)」と男(谷川?)が「詩を感じることば/自分が詩だと思って書いたことば」のあいだに「ずれ」があった。それがたとえ詩であると認めることができたとしても、女はそれとは違う詩を欲していた、という状況が書かれていた。詩は、それを詩と感じるこころがあって、はじめて詩になるということは、そこでも語られていたことになる。
詩と人間との関係を、谷川はそんなふうに「定義」して、それをさらに自分に当てはめている。他人ではなく、谷川自身と詩の関係を語っている。
「詩が切れたとき」(詩を感じなくなったとき)、どうするか。何をするのか。谷川は積極的には何もしない。「待つ」ということをする。
落ち着いて待っていれば
そのうちまたどうにかなるだろうと考えたが
この「待っている」は「放課後」の「窓際で詩が少年の姿をして言葉を待っている」とおなじである。「詩」というよりも「言葉」を待っている。
「言葉」を待っているといっても、ことばはいつでもどこにでもある。ことばそのものを待っているのではなく、ことばとこころが一緒になって動くのを待っているということになる。だからほんとうに「言葉」を待っているのか、こころが動くのを待っているのか、区別は難しい。考えても、わからない。
このあとのことばの展開が非常におもしろい。谷川は「待つ」ということをする、と私は書いたが、それだけではない。何もせずに待っている訳ではない。
そのうちまたどうにかなるだろうと考えたが
気がついて見ると私は詩が切れていても平気なのだった
おやおやと思った
「考えた」「思った」。二つの動詞が出てくる。「考える」と「思う」の違いはどこにあるか。
「考える」とは自分でことばを動かすことだ。「待っていれば/そのうちまたどうにかなるだろう」とことばを動かす。これが「考える」。そして、ことばを動かすと、そのことばに刺戟されて別のことばが動きはじめる。「気がついてみると」とは、「考える」ことばに刺戟されて目覚めたことばが動き出し、「私は詩が切れていても平気なのだった」ということばになったということ。そこには何らかの「結論」のようなものがある。
そういう「結論」の前に書かれている、「詩がすっかり切れていた」や「ガソリンではないのだから/すぐ満タンという訳にはいかない」というのも「考え」なのだ。つまり、「ガソリンではないのだから/すぐ満タンという訳にはいかない(と考えた)」と「考えた」という動詞が省略されていることになる。「論理」が動く。
それにつづく「落ち着いて待っていれば/そのうちまたどうにかなるだろう」は「と考えた」ということばと一緒にあり、まさに「考え」そのものである。そして、それは「論理」である。
だから、それは「詩」ではない。ここまでの行の展開に詩はない。「詩」は「論理」を超えるものだから、と唐突に書いてみる。
では、詩は? 詩はどこにあるのか。
もうひとつの「動詞」、「思う」とともにある。
おやおやと思った
この「おやおや」とは何か。「おやおや」あるいは「おや」ということばは誰もが言う。あるいは、漏らすというべきか。これを「意味」として説明するのは難しい。「おやおや」を自分のことばで言い直すとどうなるか、と考えると、「肉体」がいらいらする。「肉体」ではわかりきっているので、ことばにならない(ことばにできない)ということが起きてしまう。
広辞苑に頼ってみると「おやおや」は「おや」強めていう語。「おや」は「意外な事に出会った時などに発する語」と説明している。
「意味」など、ない。ただの「声」である。「無意味」である。「無意味」だから、説明できない。
言い直すと「考える」が中断してしまう瞬間が「思う」なのだ。「考え」は中断するが人間は生きているから「肉体」のなかの何かが反応して動いてしまう。「ことば」になるまえに、何かが動く。「肉体」のどこかで「未生のことば」が動いているのかもしれない。これが「思う」のはじまり。
広辞苑の説明に、「意外な事」という表現があった。この「意外な事」は、谷川の今回の詩集では「思いがけない」という表現で何度か書かれている(「坦々麺」「あなたへ」「脱ぐ」が思い浮かぶが……)。谷川の書いている「思いがけない」が「意外」と言い換えられるとは限らないが、似通った意味あいを持っている。
「考える」は「頭で考える」、「思う」は「こころで思う」。「頭」はあくまで「論理的」にことばを動かし、整理するが、「こころ」は論理以前、整理以前の、あいまいな領域をうろついて、それそこ「おやおや」のように、「声」を発するだけのこともある。「思いがけない」から、それにふさわしいことばが見つからない。「肉体」のなかでうごめく衝動に突き動かされて、ことばがことばにならずに「声」として出てしまう。未整理の、未生の本能。
この詩は何も書いていないような印象を与えるけれど、そんなふうにして読むと、谷川が詩の本質を「思う」という動詞のなかにこめていることがわかる。ことばにならない「声」、衝動のように発せられた「声」のなかに、「未生のことば」の萌芽がある。「本質」がある。
「論理」がふっと途切れて、その瞬間、それまで追いつづけてきた「論理」とは違うところから、「声」がふっと漏れる。その瞬間が詩。
ここから、この詩を読み直すと、また気づくことがある。
一日外で働いて帰ってきたら
詩がすっかり切れていた
この書き出しには「と思った(と思う)」ということばが省略されている。「詩がすっかり切れていた」と思ったのである。「働く」というのは「他人の論理」に自分をあわせて動かすということである。「論理」なのかを動いていると「詩」はなくなる。「論理」から離れたときに、それに気づき「詩がすっかり切れていた」と思った。「考える」前に、それが「実感」として「肉体」からあふれてきた。
「思った」からはじまり「思った」で終わる。途中で「論理(考え)」が動くが、その「論理」を作品が終わる寸前で叩き壊して「思う」に還る。これは谷川の詩の「構造」に共通していることかもしれない。
少しだけ詩集を振り返ってみる。
巻頭の「台が要る」。
机が要る
と書き出されている。その行には「と思った」を補うこともできるし、「と考えた」を補うこともできる。
それからつづく行も「と思った」「と考えた」の両方をあてはめることができるが、「紙を載せるためのもの」の「……ための」というような表現を手がかりにするなら「考えた」の方がふさわしいだろう。「論理」が動いているのだから。
けれど、詩の最後。
もしかすると空のテーブルには
始めから載っているのかもしれない
詩が
無文字の詩が
のほほんと
ここには「考えた」よりも「思った」がふさわしい。「もしかすると」「かもしれない」というのは「論理」としてあいまいである。「論理」としては不完全である。けれど「思う」は不完全を苦にしない。むしろ「思いがけない」ことを思うのが「思う」の仕事である。
最終行の「のほほんと」の「のほほん」も論理的に説明しようとすると、うまくできない。「のほほん」ということは、もう「肉体」でおぼえてしまっている感覚であり、それを別なことばで説明すると嘘になってしまう。
「思う」は「思いがけない」ことを「思う」のだが、それはいつでも「ほんとう」を思うのであって、嘘を思わない。嘘は「考える」ものである。
これは、しかし、これ以上は書かない。
「論理」というのは、自分の都合のいいように、そこにあることを「整理」して動かしてしまうものだから、書こうとすればどこまでも「論理」にあわせて嘘をでっちあげることが可能だからである。
私は、最後の詩を読み、谷川の詩はいつでも「思う」からはじまり、そのつづきを論理的に「考える」という形でことばを展開し、最後に「論理」を突き破って、「思う」にかえる詩の「定型」が多いと思った/考えた、のである。
もみさんは実はメールだったりして・・・
言葉はべらんめいだし・・アル意味毒わい舌
まあ気にはしない主義なんだけど・・
いささか不可思議ポンチいかりソース気味なんだべや
巧言令色を跳び越えて暴言卑猥令色気味
まあまあまあ気に歯しないけれどなんだべや
本来呆けブラリーとはそういったニュアンスのもの
かもしれないけれど・・いささか不思議ふしぎ
その内なんとかなるだろう~♪
|・)…
アメリカでは
甘いお菓子やデザートが
非常に安く売られているのだけど
いつも 「甘過ぎる」という問題がつきまとい
砂糖の過剰摂取は
健康を害するだけでなく
霊的には 幸魂の陰面を浪費させてしまうように思われるばい。
そこで
甘すぎず 添加物が少なく食べ易いお菓子という事で
イスラム食品のお菓子を食べたりしているばい|・)
|・)(し゜ゃっぷし゜ゃっぷ…)
数年前 高麗人のことわざとして紹介されたもので
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韓国のことわざはすごいですね!
「女は三日殴らないと狐になる。」
「他人の牛が逃げ回るのは見ものだ。」
「他人の家の火事見物をしない君子はいない。」
「弟の死は肥やし。」
「梨の腐ったのは娘にやり、栗の腐ったのは嫁にやる。」
「母親を売って友達を買う。」
「営門で頬を打たれ、家に帰って女房を殴る。」
「姑への腹立ち紛れに犬の腹をける。」
「人が自分にそむくなら、むしろ自分が先にそむいてやる。
「野生のまくわ瓜は、最初に独り占めした物が持ち主だ。」
「一緒に井戸を掘り、一人で飲む。」
「自分の食えない飯なら灰でも入れてやる。」
「川に落ちた犬は、棒で叩け。」
「泣く子は餅を一つ余計もらえる。」
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今の日本人の多くは
直接表現しないだけで
精神的には これらのことわざ通りになっているように見えるばい。
玄学界も同様ばい。