ある牧師から

ハンドルネームは「司祭」です。

元エホバの証人との対話

2021年06月30日 | 宗教問題・カルト問題

クリスチャントゥデイで、山崎純二先生の「元エホバの証人との対話」が始まりました。

元エホバの証人との対話(1)証人となった経緯 山崎純二



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コヘレトの言葉12章1~5節

2021年06月30日 | 聖書

教会の聖書日課に基づいて、コヘレトの言葉12章を読みます。


12:1 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と、言う年齢にならないうちに。2 太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。3 その日には、家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。粉ひく女の数は減って行き、失われ、窓から眺める女の目はかすむ。4 通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。5 人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い、アビヨナは実をつける。人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。


人生はいつまでも若き日であるわけではありません。「身をかがめ、目がかすむ」(12:3)老年の日が来るのです。「通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い、アビヨナは実をつける」(4~5ab節)。これらはすべて老年の日を表現したのです。

そしてついには「人は永遠の家に去る」(5c節)のです。永遠の家とは墓のことであり、これは死を意味しています。3章2節に「生まれる時、死ぬ時」とあり、人生という「時間(ゼマーン )」が示されていましたが、その終焉(しゅうえん)が訪れたわけです。

12章5節にはさらに、「泣き手は町を巡る」とあります。泣き手とは、葬儀の時に職業として泣く者といわれますが、彼らは町を巡るとあります。この「巡る」は、1章6節に「風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き、風はただ巡りつつ、吹き続ける」とありました「巡る」と同じ言葉です。両者がインクルージオによる対の語であるとすると、町を巡る泣き手たちとは、「巡り続ける残された人たち」と取ることができます。一人の人生が死で終っても、生命(いのち)は無限に巡り続いていくわけです。

わたしたちを造られた神よ、
若い季節(とき)に知った。
あなたのみ名は すばらしい。

わたしたちを担われるイェスよ、
巡る季節(とき)に知った。
あなたの愛は かわらない。

(『讃美歌21』549番より)

コヘレトから作られた讃美歌です。ここに「巡る季節(とき)に知った」とあります。人の一生は、太陽の下の無限の中での、「巡る季節(とき)」なのです。

そして、このように「無限」の中で与えられた「人生」という「時間」において、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」(12:1)と、「無限」より高次元の「永遠」の神とつながることが説かれているように思えます(冒頭の讃美歌も参照してください)。「神を畏れ、その戒めを守れ」(13節)と、この書が結論付けられていることも同じであろうと思います。コヘレトは冷笑家です。そのコヘレトにとって、「太陽の下」と表される「無限」は、空しいものなのです。しかし、その空しい「無限」の中で、「永遠なる神」とつながって生きていくことは、空しいことではないのです。

*クリスチャントゥデイの拙コラム「コヘレト書を読む」をお読みいただければ幸いです。

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フィレモンは牧会者である

2021年06月30日 | フィレモン書とコロサイ書とエフェソ書

フィレモンへの手紙1~7節です。この手紙には章はありません。


1 キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、2 姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。3 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

4 わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています。5 というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです。6 わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。7 兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。


フィレモンとアフィアは夫婦でしょう。そして二人は夫婦牧会者でしょう。初代教会には、アキラとプリスカという夫婦牧会者がいました。フィレモンとアフィアも同じだろうと思います。

「フィレモンは信徒」という論がありますが、私は違うと思います。なぜなら7節に「兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。」とあるからです。

前回、「フィレモンの家の教会とコロサイ教会は同一である」と申し上げましたが、ですからフィレモンはコロサイ教会の牧会者です。

以上が私の、「フィレモン書とコロサイ書とエフェソ書」に関する論点の第2点です。

①フィレモンの家の教会とコロサイ教会は同一である。
②フィレモンとアフィアは家の教会=コロサイ教会の牧者である。

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コヘレトの言葉11章1~6節

2021年06月29日 | 聖書

教会の聖書日課に基づきコヘレトの言葉11章を読みます。昨日の10章は人災でしたが、ここは天災に関することが書かれています。


11:1 あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。2 七人と、八人とすら、分かち合っておけ、国にどのような災いが起こるか、分かったものではない。3 雨が雲に満ちれば、それは地に滴る。南風に倒されても北風に倒されても、木はその倒れたところに横たわる。4 風向きを気にすれば種は蒔(ま)けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない。5 妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。6 朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから。


「国(聖書協会共同訳では「地」)にどのような災いが起こるか、分かったものではない」(11章2節後半)とコヘレトは言います。天災はいつ起こるか分かりません。私は新潟県柏崎市の教会に在任中、中越沖地震という大きな天災を体験しました。その時に思ったことは、「たとえ10秒前からでも、これから大地震が起こることが分かっていれば、どんなにかダメージが少なかっただろうか」ということです。しかし天災はいつ起こるか分かりません。ですから「国にどのような災いが起こるか、分かったものではない」というのは、天災のことだろうと思うのです。

「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。七人と、八人とすら、分かち合っておけ」(1節後半~2節前半)というのは、天災がいつやってきてもいいように、普段から分かち合っておきなさいということです。パンを水に流すように、報いを考えないで分かち合っておけば、いざという時に助けてもらえるということです。

むくいを望まで 人に与えよ、
こは主のとうとき みむねならずや、
水の上に落ちて 流れしたねも、
いずこの岸にか 生いたつものを。
(『讃美歌21』566番1節)

この賛美歌は11章1~2節を歌ったものです。「むくいを望まで 人に与えよ」は、普段から分かち合っておきなさいということです。「いずこの岸にか 生いたつものを」は、天災に遭ったときの他者からの助けと考えることができると思います。私が中越沖地震に遭ったとき、一番心強かったのは他者からの助けでした。「いつ天災にあっても良いように、常日頃から分かち合っておきなさい」。これがコヘレトの天災に対する第1のメッセージです。

「雨が雲に満ちれば、それは地に滴る」(3節前半)。今日でもそうですが、雲の状態は、天候を予測するのに大切なことです。「雲行きが怪しい」と言えば、それは雨が降ることを意味します。ここではそのことを言っているのです。雨が雲に満ちるというのは、「雲行きが怪しい」という意味です。

「南風に倒されても北風に倒されても、木はその倒れたところに横たわる」(3節後半)。これは畑のそばに、倒れやすい木があったということでしょう。風が北から吹けば木は南側の畑に倒れます。南から吹けば北側の畑に倒れます。「風向きを気にすれば種は蒔けない」(4節前半)。畑のそばの木というのは、北から風が吹いてきて倒れるかもしれない、南から風が吹いてきて倒れるかもしれない。それによって木が倒れたところの作物は育たない。でも、そんなことを言っていたら種は蒔けない、ということです。天候がどうなるか分からないとばかり言っていたなら、「種は蒔けない」ということです。

「雲行きを気にすれば刈り入れはできない」(4節後半)というのは、3節前半と結び付きます。「雨が雲に満ちれば、それは地に滴る。雲行きを気にすれば刈り入れはできない」とつながります。雨が降ることを気にしていたら、農作業は種まきも刈り入れもできないということです。

「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから」(6節)。さまざまな状況を想定して、さまざまに種を蒔いておけ、ということです。このことを試験勉強に当てはめるならば、「山を張るな、山を掛けるな」ということです。さまざまな状況を想定して、あらゆる勉強をしておきなさいということです。「農作物に対する天災を予測して、さまざまに種を蒔いておきなさい」。これがコヘレトの天災に対する第2のメッセージです。

翻って、われわれの人生はこれから先、当たり外れがあるかもしれない。作物が育つ天候に恵まれることとそうでないことがあるように、人生においてもこれから先どういうことがあるか分からない。それを過度に期待したり、心配したりするのではなく、さまざまな備えをして「今の時を一生懸命生きる」ということを、この箇所は農作物のことを通して説いているように思えます。

*クリスチャントゥデイの拙コラム「コヘレト書を読む」をお読みいただければ幸いです。

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コヘレトの言葉10章10~18節

2021年06月28日 | 聖書

教会の聖書日課に基づき、コヘレトの言葉10章を読みます。

10章10節~11章6節は災難について書かれています。ところで、災難には一般に「人災と天災」があるわけでして、コヘレトがそこまで考えていたかどうかは分かりませんが、この2つを分別して読み取っていくと分かりやすいのではないかと思います。10章10~18節は人災に関することと見て、その次の10章19節~11章6節は天災に関することと見るとよいのではないかと思います。


10 なまった斧(おの)を研いでおけば力が要らない。知恵を備えておけば利益がある。11 呪文も唱えぬ先に蛇がかみつけば、呪術師には何の利益もない。12 賢者の口の言葉は恵み。愚者の唇は彼自身を呑(の)み込む。13 愚者はたわ言をもって口を開き、うわ言をもって口を閉ざす。14 愚者は口数が多い。未来のことはだれにも分からない。死後どうなるのか、誰が教えてくれよう。15 愚者は労苦してみたところで疲れるだけだ。都に行く道さえ知らないのだから。16 いかに不幸なことか、王が召し使いのようで、役人らが朝から食い散らしている国よ。17 いかに幸いなことか、王が高貴な生まれで、役人らがしかるべきときに食事をし、決して酔わず、力に満ちている国よ。18 両手が垂れていれば家は漏り、両腕が怠惰なら梁(はり)は落ちる。


「なまった斧を研いでおけば力が要らない」(10節前半)というのは、歯車が合っているということと同じです。歯車が合っていれば力は出さずにも隣の軸は回転します。それと同じように斧も研いであるならば力を出さずに済む。「知恵を備えておけば利益がある」(10節後半)は、知恵も備えてうまく使うならば、研いである斧のようにうまく使うことができるということです。「業と道理と知識と知恵」を用いているのです。しかし「呪文も唱えぬ先に蛇がかみつけば、呪術師には何の利益もない」(11節)ということが起こります。これは10節を受けて、蛇使いの魔術師が、その技能をうまく使えずに、蛇に噛まれることを言っています。そうしますと、技能をうまく使えない蛇使いが蛇に噛まれるということは、「人災」であるということになります。

「賢者の口の言葉は恵み。愚者の唇は彼自身を呑み込む。愚者はたわ言をもって口を開き、うわ言をもって口を閉ざす。愚者は口数が多い」(12~13節)は、失言についてのことです。私もよく失言をしますが、失言は本当に損です。失言による災難はまさに「人災」です。

「愚者は口数が多い。未来のことはだれにも分からない。死後どうなるのか、誰が教えてくれよう。愚者は労苦してみたところで疲れるだけだ。都に行く道さえ知らないのだから」(14~15節)。未来のことは分からないというのは、コヘレトが繰り返して言ってきたことです。ここではそれが、愚者の言葉とされています。そして愚者の愚者は「未来が分かる」と言っているということでしょう。「未来が分かる」と発言する、愚者のその苦労は疲れるだけだと言います。これもまた「人災」の一つです。

そして次に人災の典型のようなことと、その反対のことが語られています。「いかに不幸なことか、王が召し使いのようで、役人らが朝から食い散らしている国よ。いかに幸いなことか、王が高貴な生まれで、役人らがしかるべきときに食事をし、決して酔わず、力に満ちている国よ」(17~18節)。ここでは不幸と幸いが対置されています。「王が召し使いのようで」というのは、王に統制する力がないということでしょう。だから役人が朝から食い散らかしているのです。それは昼間から酔っているということでしょう。統治の空白が起きているのです。それはまさに「人災」です。18節は逆の賢い王と役人のことが示されていて、それは力に満ちた幸いな国であるとされています。「業と道理と知識と知恵」が、適切に用いられているということでありましょう。この記述によって、17節の災難に遭っている国の人々が、対照的に浮かび上がってきます。

「両手が垂れていれば家は漏り、両腕が怠惰なら梁は落ちる」(18節)というのは、家の管理のことです。両手が垂れているように、両腕が怠惰なように、管理者が働かずにいれば、家も修理をすることができず壊れていくということです。これも「人災」です。

このように、10章10~18節は人災について記されています。聖書に「人災について」記されているのは興味深いことです。

*クリスチャントゥデイのコラム「コヘレト書を読む」をお読みいただければ幸いです。

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