誰もが「正直なことは嘘よりもよい」と思うものです。
しかし、行き過ぎた正直のことを“バカ正直”と言う。
中国古典『論語』に、このような話が載っている。
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葉公(しょうこう)が孔子(こうし)にこう言った。
「私の村には正直者の直躬という男がいます。その男の父親が羊を盗んだことがありました。
そのとき直躬は役所に出向いて、正直に父親の罪を話しました」
それに対し孔子は「私の村の正直者は、あなたの村の正直者とは違います。
子に悪い点があれば父が隠し、父に悪い点があれば子が隠してやります。
真の正直さは、その中で育つものです」
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この話の中で孔子は、「バカ正直ではいけない」と主張している。
直躬は特に「父親を懲らしめてやろう」と思ってこのような行動を取ったわけではないだろう。
しかし、この場合における直躬の正直さは、無意味であり逆効果であった。
それとは対照的に、唐招提寺を創建した鑑真は“真の正直”であった。
鑑真は中国、唐の時代の僧です。日本人留学僧の栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)の二人が、
中国でも名の知られていた鑑真(当時55歳)に「どうか日本へ来て仏教を広めてほしい」と頼み込みました。
当時の航海技術は、現在と比べ物にならないほど未熟で、命を落とすことも珍しくなかったのです。
それに加え、唐では密出国は死刑という厳しい法律がありました。
しかし二人の願いに心打たれた鑑真は、日本で仏教を広めることを決意しました。
それから何度も日本に向けて船を出したのですが、密告や難破によって次々と失敗しました。
五回目の航海ではベトナムまで流されてしまったのです。その時の過労と酷暑の影響で栄叡は他界します。
その際に鑑真も眼病に罹り盲目となってしまいます。
その後20年ぶりに日本からやってきた遣唐使船に乗ることができました。
一ヶ月の航海の後に日本の地を踏むことが出来たのです。
そのとき既に、鑑真が来日の決心をした時から、11年もの歳月が過ぎていました。
鑑真は、唐招提寺の他に悲田院(ひでんいん)という社会福祉施設を設立し、貧民救済にも取り組みました。
そして日本にやってきて10年目の春、76歳で息を引き取ったのです。
江戸時代に松尾芭蕉が唐招提寺の鑑真木像を見た際に、このような俳句を残しています。
若葉して 御めの雫 ぬぐはばや
(色鮮やかな春の若葉に囲まれていらっしゃる鑑真和尚、この清らかな若葉であなたの盲目の涙を、そっとぬぐってさしあげたいものだ)
鑑真は唐にとっても貴重な人材でした。
しかし、二人の留学僧との約束を守るために、航海の危険に六回も立ち向かった姿勢は“真の正直”に値すると思います。
1200年前の日本にはこのような方が存在していたのです。
《Tomiyama Tenyou》
しかし、行き過ぎた正直のことを“バカ正直”と言う。

中国古典『論語』に、このような話が載っている。
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葉公(しょうこう)が孔子(こうし)にこう言った。
「私の村には正直者の直躬という男がいます。その男の父親が羊を盗んだことがありました。
そのとき直躬は役所に出向いて、正直に父親の罪を話しました」
それに対し孔子は「私の村の正直者は、あなたの村の正直者とは違います。
子に悪い点があれば父が隠し、父に悪い点があれば子が隠してやります。
真の正直さは、その中で育つものです」
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この話の中で孔子は、「バカ正直ではいけない」と主張している。
直躬は特に「父親を懲らしめてやろう」と思ってこのような行動を取ったわけではないだろう。
しかし、この場合における直躬の正直さは、無意味であり逆効果であった。

それとは対照的に、唐招提寺を創建した鑑真は“真の正直”であった。
鑑真は中国、唐の時代の僧です。日本人留学僧の栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)の二人が、
中国でも名の知られていた鑑真(当時55歳)に「どうか日本へ来て仏教を広めてほしい」と頼み込みました。
当時の航海技術は、現在と比べ物にならないほど未熟で、命を落とすことも珍しくなかったのです。
それに加え、唐では密出国は死刑という厳しい法律がありました。
しかし二人の願いに心打たれた鑑真は、日本で仏教を広めることを決意しました。
それから何度も日本に向けて船を出したのですが、密告や難破によって次々と失敗しました。
五回目の航海ではベトナムまで流されてしまったのです。その時の過労と酷暑の影響で栄叡は他界します。
その際に鑑真も眼病に罹り盲目となってしまいます。
その後20年ぶりに日本からやってきた遣唐使船に乗ることができました。
一ヶ月の航海の後に日本の地を踏むことが出来たのです。
そのとき既に、鑑真が来日の決心をした時から、11年もの歳月が過ぎていました。
鑑真は、唐招提寺の他に悲田院(ひでんいん)という社会福祉施設を設立し、貧民救済にも取り組みました。
そして日本にやってきて10年目の春、76歳で息を引き取ったのです。
江戸時代に松尾芭蕉が唐招提寺の鑑真木像を見た際に、このような俳句を残しています。
若葉して 御めの雫 ぬぐはばや
(色鮮やかな春の若葉に囲まれていらっしゃる鑑真和尚、この清らかな若葉であなたの盲目の涙を、そっとぬぐってさしあげたいものだ)
鑑真は唐にとっても貴重な人材でした。
しかし、二人の留学僧との約束を守るために、航海の危険に六回も立ち向かった姿勢は“真の正直”に値すると思います。

1200年前の日本にはこのような方が存在していたのです。
《Tomiyama Tenyou》
中村正直
○○君の靴を隠した人は正直に手を挙げて。
皆見ていないし先生しか見ていないから大丈夫。今なら許すから。正直に手を挙げような。