②歴史的アイデンティティの問題について
また第二に、著者自身がここで現に行っている「歴史を語る」という行為そのものへの押さえが不足しているとの感が否めない。本書の執筆意図について、巻末において「昭和の意味を問うなら、開国の意味を問わねばならず、開国以前のこの国の文明のありかたを尋ねなければならぬ」と述べ、さらに「私が書きたいのは昭和という時代についてであった……私が昭和というのは一九四五年まで . . . 本文を読む
いくつかの補足と指摘
本書の特徴である外国人の証言による歴史への斬新なアプローチはこのように自覚的に採用されたものであり、また論旨は理性的である。江戸期日本社会が一個の高度に完成された文明であるとするその結論が果たして妥当かはさらなる研究が望まれるにしても、ここに描き出された文明の実像に深い意味と説得力があることは間違いない。
したがって以下の補足的な指摘は本書の意義を左右するものではな . . . 本文を読む
日本の子どもは泣かないというのは、訪日欧米人のいわば定説だった。モースも「赤ん坊が泣き叫ぶのを聞くことはめったになく、私はいままでのところ、母親が赤ん坊に対して疳癪を起しているのを一度も見ていない」と書いている。イザベラ・バードも全く同意見だ。「私は日本の子どもたちがとても好きだ。私はこれまで赤ん坊が泣くのを聞いたことがない。子どもが厄介をかけたり、言うことをきかなかったりするのを見たことがな . . . 本文を読む
「日本の上層階級は下層の人々を大変大事に扱う」とスエンソン〔デンマークの海軍軍人〕は言う。「主人と召使の間には通常、友好的で親密な関係が成り立っており、これは西洋自由諸国にあってはまず未知の関係といってよい」。(二二九頁)
もちろん、観察者が一様に指摘する民主性や平等なるものは、近代的観念としての民主主義や平等とそのまま合致するものではない。しかし、近代的観念からすれば民主的でも平等でも . . . 本文を読む
自由と身分
また、彼ら異邦人が驚きをもって証言し、そのことに私たちも意外の念を禁じ得ないのが、幕藩体制や身分制度なるものの実態である。それはアジア的専制の悪しき典型として、またカースト的な差別と抑圧の構造として信じられ、これまで総攻撃に遭ってきたものである。もちろん彼ら異邦人も等しく認めているとおり、それは実際に専制的政治体制に違いなかったし、身分・階級間の区分は厳格であった。しかしそうした . . . 本文を読む
簡素とゆたかさ(続き)
前近代日本文明の最末期の実像を目撃し体験した彼ら異邦人が、何よりまずその物質的な豊かさに目をとめ記録したことは、私たちに驚きと、ことによると深い疑念をももたらすかもしれない。繰り返すが、それは私たちに長年染み込んできた、「搾取され窮乏する民衆」という既成の江戸時代のイメージとあまりにかけ離れた証言だからである。しかし本書が指摘しているとおり、それを善意の誤解やエキゾチ . . . 本文を読む
古き日本文明の姿
では、本書が取り上げている異邦人の証言とは、そもそもどのような性質のものなのだろうか。
〔ある外国人からの引用について〕それは情景の素描に過ぎず、「国民、生産物、商業、法律等々についての正確な情報」はまったく存在しない。彼が感受した〝日本〟は、そういう客観的情報などによってではなく、このような第一印象の素描によってしか伝えられないような何ものかだったのである。……だがこうい . . . 本文を読む
文化人類学的方法とその妥当性
さらにより根本的な問題として、歴史とはそれを見る者の視点すなわち史観次第で、あらゆる読込みが可能であるという事実がある。そのことは、前述のように日本人自身が自己の近しい過去にあらゆるネガティブな読込みをしてきた実例があるだけに、私たちにとっては理解しやすい。そしてまた、特定の史観に基づいて文献史料に記された当時の社会のタテマエを分析すればするほど、かえって実態を読 . . . 本文を読む
視点―歴史観の問題
しかし内容に入る前に、従来日本で江戸時代がいかに語られてきたかを前提にしなければ、本書の画期的意義が掴めないのではないかと思う。
「江戸時代」と言われて、私たちは何をイメージするだろうか。「身分制度の地獄」において「武士の収奪と百姓の貧窮」が常態化していて、にもかかわらず「懐かしき庶民の生活」は「義理と人情の浮き世」であり、しかし結局それは「チョンマゲと鎖国の遅れた社会」、 . . . 本文を読む