〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

書評『逝きし世の面影』(渡辺京二著)10

2017-08-11 | 書評『逝きし世の面影』(渡辺京二著)
②歴史的アイデンティティの問題について

 また第二に、著者自身がここで現に行っている「歴史を語る」という行為そのものへの押さえが不足しているとの感が否めない。本書の執筆意図について、巻末において「昭和の意味を問うなら、開国の意味を問わねばならず、開国以前のこの国の文明のありかたを尋ねなければならぬ」と述べ、さらに「私が書きたいのは昭和という時代についてであった……私が昭和というのは一九四五年までを指している」(傍点評者)と語っているように、その問題意識は敗戦に終わった日本近代に集約されると著者は明言し、そのための足がかりとしての「逝きし世」に「すぎない」と規定している。そして、異邦人のテキストから江戸時代の実像を読み取った本書の業績は、自身の「ちっぽけな愛国心」や「自国へのアイデンティティ」とは全く無関係であると繰り返し強調する。こうした自己の立ち位置を述べたくだりは、冷静な三人称の叙述で一貫している本書の中で、拒絶感というべき感情的なトーンが読み取れる異例な箇所でもある。
 しかしだとすれば、自国の歴史を叙述する行為に果たしてどんな意味があるというのか。突き詰めるならば、このように「語る主体のアイデンティティ」という問題意識を排除した歴史の語り方は、たとえそれが現行の歴史叙述の疑われざる常識となっていても、実際上の意義はない言うしかない。それはごく単純に考えて、歴史業界とその周辺事情を除外すれば、現実の社会問題に対し何の役にも立たないからである。本書はただその無数のうちの一例に過ぎない。しかし、著者が上述のようにいみじくも「この国の―時代―の意味を―書きたい」と執筆意図を述べているとおり、歴史を語ることの根元にある動機とは、自己と分かちがたくつながった過去を理解し、自分と一体のものとして取り戻したいとの欲求にほかなるまい。そして、それこそが「自国へのアイデンティティ」つまりは「愛国心」と呼ばれるものではなかったのだろうか。この歴史叙述にとっての肝心の点に関し、著者は自らが拠って立つ基盤を拒絶して目をそらそうとしながら、しかし終始その基盤について何かを語っているように見えてしまう。
 もちろん、本書全体に伏在する「愛国心」なるものへの拒絶感が、総力戦下の苛烈な状況で人格形成期を生きた著者にとって切実なものであったことは、後続世代として理解しなければならない。また、国民的アイデンティティの強調によって偏狭な民族主義に陥る危険を警戒するその問題意識は、現在の政治と言論の状況を見ても、正当なものであると思う。
 しかし戦後七十余年を経、日本人としての精神的「深層崩壊」にまで立ち至った私たちにとって、結局そこにとどまるだけの歴史観では今やあまりに物足りない。そればかりか、主体の問題を排除して自国の歴史を語る矛盾した姿勢に、歴史叙述という行為に関する盲点的な無自覚、さらに言えば「病識なき病理」が存すると見ざるを得ない。その果てに私たちは現在の惨状にまで到りついてしまったのである。
 しかしそれが知識人の良識とされた昭和の敗戦後は既に過去のこととなり、私たちが日本人としての存在理由をほぼ完全に見失わされ・見失い、国民的なアイデンティティの空白によって今やこの国が未曾有の危機にあるからこそ、本書が故あって拒絶した自国へのアイデンティティ=愛国心そのものを問題にしないわけにはいかない。時代が異なれば問題意識も異なる。現在の視点からすれば、本書の核心的な意義とは著者が拒絶したまさにその地点にこそあると見える。自己の過去を肯定することは人間とその集団の基本的な権利であり、そのように歴史を読むことが可能かを論じるのが歴史書の本来的な使命だとすれば、その肝心な点を回避している本書は、惜しくも画龍点睛を欠くと評せざるを得ない。

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