〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

書評『文明としての江戸システム』(鬼頭宏著) 12

2017-09-05 | 書評『文明としての江戸システム』(鬼頭宏著)

本書と『逝きし世の面影』との関連について

 ところで、本書冒頭でも言及されている渡辺京二氏の『逝きし世の面影』は、幕末・明治初期に訪日した外国人の記録を文化人類学的観察として読み解くという、本書とは全く異なるアプローチによって「文明としての江戸」を描き出した、真に画期的な業績であった。それは異文化ギャップが浮き彫りにした文明の心性を再生する試みであり、その意図は次のような一節に端的に表現されていた。

 ギメの場合と同様、レガメはいかなる客観的事実も示しているわけではない。それは情景の素描にすぎず、「国民、生産物、商業、法律等々についての正確な情報」はまったく存在しない。彼らが感受した〝日本〟はこのような第一印象の素描によってしか伝えられないような何ものかだったのである。…彼らの第一印象の網にかかった事象はことごとく、「蒸気の力や機械の助けによらず到達することができるかぎりの完成度を見せている」高度で豊かな農業と手工業の文明、外国との接触を制限することによって独特な仕上げぶりに到達した一つの前工業化社会の性格と特質を暗示するフラグメントなのである。(同書、四六―四七頁)


 従来「第一印象だけで、そこには統計数値は全くない」と無視されてきた証言に光を当てることで、渡辺氏が描き出した江戸文明のリアリティは、実に鮮かなものであった。渡辺氏は「失われたある文明の幻影」を見出したいとその執筆意図を述べていた。そこには、文明を支えるコスモロジーとそれが生み出す心性こそが、歴史理解にとって不可欠であるという炯眼が示されている。また同時に、それは戦後長らく自明視されてきた牢固たる歴史思想を穿ち、歪曲し尽くされてきた真実を見出さんとする、痛烈な対抗戦術でもあった。
 しかし歴史叙述とはどこまでも特定のコンテクストから構成されざるを得ない。歴史は歴史観、つまり視点を通して見出す他ないからである。『逝きし世の面影』を一読してまず頭をもたげるのは、ある種の時代の理想化に陥っているのではないかとの疑念である。渡辺氏の姿勢が世上ありがちな低次元の歴史的自己称揚の対極にあるのは言うまでもない。しかしそれでも疑念が払拭しきれないのは、どれほど鮮烈なものあっても、外面世界の証拠を欠いては、イメージはイメージのままでとどまってしまうからである。そうして、鮮やかだった「面影」も、いつしか私たちの心から幻としてかき消えてしまうだろう。

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