〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

単純な喩えですが

2007-10-10 | Weblog
ブログに何かを書きたいと思うのですが、最近はどうも話題を探してしまいます。
まーだいたい話題を探して会話するなんてのはおかしいのであって、ブログに書くのも形は違えどコミュニケーションなのだから、しゃべってるうちに適当に話題が思いつくなんてこともあるのではないかと。
言い訳ですけどね…

前の記事に、PCよろしく人間の意識のOS(=深層での考え方のクセ)も簡単に旧バージョンのアンインストールができて、ワンクリックで新バージョンをインストールできればということを軽く書きました。
しかし考えてみれば、あくまで比喩ですが(しかも極めて単純化した喩えとして)PCというのは、私たちのソフトである意識・心と、ハードとしての脳という関係をある意味わかりやすくイメージさせてくれます。

たとえば昔のSF小説とかを読んでいると、すごいレトロな科学技術(真空管とか…)のロボットが人間より優れていると描写されていて、それに対して人間の尊厳やいかに、みたいな筋がよくあり、今の眼で見るとある意味おかしみを感じてしまいます。
人間機械論もまた時代とともに進化するのでしょう。

結局人間というのは、いつの時代も現在最先端のアナロジーでもって自分という存在を納得しようとするものなのかもしれません。
現在一般にもっともリアルであることになっている「唯脳論」的な人間理解も、デジタルビットだのフィードバック・ループだの現在の最先端の比喩に人間を当てはめているにすぎない、といったところなのではないでしょうか。
技術自体の進歩は私たちが現に体験しているようにまさに驚異的ですから、いまクールでリアルに見えているそうしたもっともらしい人間観も、後で見ると結構笑えるのかもしれません。

ともかく素人にも確実に言えることは、何よりそこには「内面」ということが完全に欠けているということです。心も意味も動機もヴィジョンも、そこには何もありません。内実が空っぽの構造だけという印象です。
だからどれほどもっともらしく精巧で巧妙な仕組でも退屈極まりないものになってしまうのではないでしょうか。

で、PCのたとえに戻りますと、きわめて単純かつ表層的な比喩で誤解も生むのかもしれませんが(何よりそこには主体が存在しない)、それでも外面と異なる次元の、形も質量もない情報の空間としての内面世界のリアリティということを、わずかでも現代の私たちに実感させてくれる比喩のような気がします。
そしてネットは――個々の私たちの心が構成する集合としての内面=文化というリアリティを、イメージとして予感させます。まー、現実の日本文化とパラレルに、ネット世界はそうとうやばいことになっていますが…

さて、さきの「OS」の「インストール」云々というのは、別に私のアイデアでも何でもなく、アメリカの思想家、ケン・ウィルバーが最近の著作「Integral Vision」で書いていることです。
残念ながらわたくし英語がイマイチ(どころではない)で、せっかく人からいただいたにもかかわらずカラフルな図版を眺めるだけに終わっています。
いまから英語を勉強しようかな。いや、大和魂が許さぬ…というのはここでは置いておこう。

ともあれ、たぶん言っていることは、PC上で個々のアプリケーションソフトが稼働するためにどのようなレベルのものであれOSが必要なように、人間の心も各種機能が働くための基礎となる観念の大枠、世界観、コスモロジーがあるということだと思います。
つまりOSが普段気付かないまま常時背後で走っているのと同じように、人間もまたアタマの先の意識がはたらくために深層の無意識的な思考が存在するのではないか、と。

で、ウィルバーは彼の構想する壮大な世界観(説明は別にしますが「全象限全レベル(AQAL)」と呼ばれるもの)を、最新の包括的なそれという意味で「IOS(Integral Operation System)」と呼んでいます。本の体裁もそうなのですが、なんだか用語自体がひじょうに軽くてポップです。こんなテイストがアメリカでは受けるのだろうか?
しかし、さきのアナロジーで考えれば、これは一見軽いようでいて実はすごく意味深長にも思われます。

地球環境問題や地域紛争・テロをはじめとする危機をいつまでも回避できない、どころかそういう危機を招来している当のものが、私たちの破壊的な行動(外面)の背後にはたらいているもはや時代遅れ・機能不全のOS(内面)であるとすると、いま私たちに必要なのは旧OSを書き換えて新OSにバージョンアップして新しい事態の処理に対応できるようにする、ということになるでしょう。
(くどくど書いているのはVISTAが欲しかったからではないつもり、である)

内面の変容、統合的思想、普遍的な価値観……現代のファシズムではないか?新手の洗脳集団か?危険だ!
――というようなアレルギー反応が即座に予想されます。
しかしそういうアレルギー反応をいったんわきに置いて考えてみると、そもそもそういうアレルギー反応を起こすような思考のベーシックそれ自体が、現在まさに全地球的な危機を招いている機能不全の古いバージョンのOS・思考体系そのものとは考えられないでしょうか?

これは単なる思い付きだけではなく、いまの我が国の倫理崩壊の危機状況の原因とされるアナタ任せの戦後民主主義・ワガママ個人主義・虚無的快楽主義、それらの基礎となって常時走っている私たちの社会のOSが、後述する「ばらばらコスモロジー」という思考の大枠であると明らかに見えるからです。

いま若い多くの人はそんな限りなくさびしく寒いバラバラ感覚の壁の中で、行き先を与えられぬ「単なる自由」に立ちすくんでいるかのようです。というか30代なかばに突入した私も多かれ少なかれそうです。

そういうわけで、さきのPCとかOSとかの比喩をとりあえず人間に当てはめてみるというのは、私たちが直面している事態をシンプルに理解するために案外有用なような気がしてきました。
あくまで喩えであって、昔のSFみたいにたぶんしばらくしたら笑われてしまう類のものだとしても。

で、ここで問いたいのは、どうしたら人間はパソコンみたくお手軽にインストール/アンインストールできるのかということ。
悲しいかな人間はあくまでアナログなのですね。「思う」ことが重要というのはわかっているつもりですが…。
その点は当のウィルバーもいたるところで言っているように、とにかく何らかの形で瞑想的実践に取り組まなくてはならないということのようです。
それが人間の場合の、OS書き換えの内面のテクノロジーということなのでしょう。

しかしあえて声を大にして言いたい。
瞑想、それがむずかしいの…

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