そういうわけで「合言葉はコスモロジー」です。
これは心の健康、なかでもつらい「落ち込み」や「うつ」からの回復策のための決定打であると、不肖私は評価しております。
このことをぜひご紹介したいと思います。
そのためにはまずコスモロジーとは何か、なぜそれが「回復」の決定打であるのかを、もっとしっかり御説明する必要があると思います。
さらに、いま私たちが共有するコスモロジーとは何で、それの何が問題であるのかを明らかにせねば、課題が見えてこないでしょう。
そしてそれに代わる非常に有望な代案である、現代科学的な「つながり-かさなりコスモロジー」をご紹介したいと思います。
が、繰り返しになりますが、もしこのことに興味をもたれたら、そのことを極めて説得力をもって提唱されている第一人者の岡野守也先生のブログや御著作をまずご覧になったほうがよいと思われます。
とくに紹介されている大学授業での成果の現役学生のレポートについては、同年代の若い方には一読にとどまらぬの価値があると思います。
さて、上に「評価」と書きました…僭越なようですが、しかし現に落ち込み癖があってともすればうつに陥りかねない者が、このことに出会ってあえてそう評価するのも、「使用者からの視点」ということであながち無駄ではないのではないかと。
以下そのようなかたちで書いていくことになると思います。
お付き合いいただければとてもうれしいところです。
ところで「うつ」に関しては、私も経験があるし、また現場的にもかかわることがある状況なのですが、率直にいって具体的な回復策は「ストレスを与えず本人の自然な回復を待つ」くらいしかないとされているのが現状だと見えます。
落ち込み状態、それが長くひどく続いてうつ状態にある方、いかがでしょうか?
とくに、たとえば耳触りのいい話として「うつは心の風邪」「だれでもかかりうるありふれた病」というふうなことをよく聞きますが、それは裏を返せば「事実上打つ手なし」ということを意味しています。
むろんいろんな「対策」があることは、一部なりとも承知はしているつもりです。
しかしなにかこの心の病の表面をなぞっているだけというか隔靴掻痒というか、そんな居心地の悪いもどかしさを感じるのは、たぶん私だけではないと思います。
さて、そんな「心の風邪」というふうな現行主流のとらえ方には、心を体の病同様に見ることで決定的に見落としてしまっているところがあると思われます。
そういう見方に基づいて精神科のドクターは診断書にもっともらしく「うつ病」と書き、対応としてはもっぱら奇妙な横文字名のクスリを複数処方するのみであるわけです。
(たくさんの精神科の診断書を目にする機会があるのですが、ほんとうに見事なくらいそれだけです)
ここには精神科医療のベースにある「脳をなんとかすれば心の病は治る」「心=脳である」という非常にストレートにわかりやすい図式があります。
率直にいってこれは心を物質に還元するきわめて粗っぽい「還元主義」なわけですが、しかしそれでもクスリが効くのならまだいいでしょう。
しかし実際にはどうなのでしょうか?
私は使ったことはありませんが、使ったことのある方・現に使っておられる方、いかがですか?
多少の軽快は可能なのかもしれませんが、それだけというケース、またそれではどうにもならないケースが、実際のところ大多数なのではないでしょうか。
これはひじょうに奇妙な状況に見えます。
「心の病」を扱っているはずの医療が、心を、人間の内面そのものを、見まい見まいとしているのですから。
たしかに「唯脳論」みたいな、ある意味きわめて(おめでたいほど)シンプルな人間観が常識化している現状で、「うつ」を扱おうとするとそうなってしまうというのは、わかりやすすぎるぐらいわかりやすいところですが、しかしこれはおかしな話です。
薄っぺらい喩えになりますが、デジタルな現代人的にわかりやすいのであえて使うと、人間の心というのはパソコン上で動作しているソフトにある意味で似ています。
この場合、心の病はいわばソフトの動作異常ということになるわけです。
いろいろ多彩な症状やトラブルの深刻度の違いはあったとしても、動作異常はあくまで動作異常です。
そうすると、上記のようにもっぱら「心を脳の働きにすぎない」と考えて脳に作用するクスリを処方するだけというような医療とは、「パソコンのソフトの動作がヘンだ。だからメモリを増設する」とか「CPUを交換する」とか「冷却ファンを強化する」とかというような、とてもちぐはぐな対策をやっていることにはならないでしょうか。
(もちろんCPUなどのハードに起因する動作異常なら著効があるでしょうし、たとえソフトの動作が異常に遅くなっても、ハードとしてのメモリが増えることでその異常が相殺されるということがあるかもしれません。しかしあくまでそれだけです。)
いうまでもなく、感情から認識、そして深さも主体もあっての私たち人間の心とは、コンピューターのソフトなどとは比較するのもおろかなほど複雑で精緻で微妙です。
この喩えで何かがわかりやすくなるとするなら、それは心が病・機能異常の状態にあるのなら、まさに心そのものを取り扱うことが本道である、ということにほかなりません。
そしてさきにも書きましたが、人間の心とは、私たちが現にこうやっているように、きわめて深く大きな部分を言葉がになっているわけです。
もちろんイメージも感情も、その他いろんなレベルや側面があっての心ですが、しかしそれらのベースにもまた言葉がわかちがたく働いているのは、ちょっと自分の心を省みても間違いない、そしてそれはみなさんとも共有できるという意味で「事実」と言っていいと思われますが、いかがでしょうか。
すると人間の心における「落ち込み」やそれがひどくなった「うつ」の原因として、心をになう深層にまで根ざした言葉のシステムの、いわば機能障害を想定するのは、ごく自然・当然といってもいいのではないかと思われます。
機能障害…つまり人とうまくやっていけない、自分自身や他者をおとしめ傷つけてしまう、社会にうまく適応できない、健全な成長が阻害されている、等々。
結論めいたことを先に言ってしまえば、コスモロジーとは包括的な世界観・宇宙観・人間観であると同時に、人間の心にとって深いところでいつも働いている言葉のシステムの大枠を意味しているのだと思います。
これも非常に浅薄な喩えであることは承知のつもりであえていうと、そのように心にとってのコスモロジーとは、いわばコンピューターにとってのオペレーティングシステム(OS)に当たるような、きわめて基本的で本質的なものなのだと思われます。
だからコスモロジーというレベルから癒されることで、心は根本的なところから元気なることができるのではないか、と。
つまり人間として心を持つ存在である限り、私たちには病いの可能性を負っている一方で、おおきな希望の根拠をもしっかりと与えられている、と思うのです。
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これは心の健康、なかでもつらい「落ち込み」や「うつ」からの回復策のための決定打であると、不肖私は評価しております。
このことをぜひご紹介したいと思います。
そのためにはまずコスモロジーとは何か、なぜそれが「回復」の決定打であるのかを、もっとしっかり御説明する必要があると思います。
さらに、いま私たちが共有するコスモロジーとは何で、それの何が問題であるのかを明らかにせねば、課題が見えてこないでしょう。
そしてそれに代わる非常に有望な代案である、現代科学的な「つながり-かさなりコスモロジー」をご紹介したいと思います。
が、繰り返しになりますが、もしこのことに興味をもたれたら、そのことを極めて説得力をもって提唱されている第一人者の岡野守也先生のブログや御著作をまずご覧になったほうがよいと思われます。
とくに紹介されている大学授業での成果の現役学生のレポートについては、同年代の若い方には一読にとどまらぬの価値があると思います。
さて、上に「評価」と書きました…僭越なようですが、しかし現に落ち込み癖があってともすればうつに陥りかねない者が、このことに出会ってあえてそう評価するのも、「使用者からの視点」ということであながち無駄ではないのではないかと。
以下そのようなかたちで書いていくことになると思います。
お付き合いいただければとてもうれしいところです。
ところで「うつ」に関しては、私も経験があるし、また現場的にもかかわることがある状況なのですが、率直にいって具体的な回復策は「ストレスを与えず本人の自然な回復を待つ」くらいしかないとされているのが現状だと見えます。
落ち込み状態、それが長くひどく続いてうつ状態にある方、いかがでしょうか?
とくに、たとえば耳触りのいい話として「うつは心の風邪」「だれでもかかりうるありふれた病」というふうなことをよく聞きますが、それは裏を返せば「事実上打つ手なし」ということを意味しています。
むろんいろんな「対策」があることは、一部なりとも承知はしているつもりです。
しかしなにかこの心の病の表面をなぞっているだけというか隔靴掻痒というか、そんな居心地の悪いもどかしさを感じるのは、たぶん私だけではないと思います。
さて、そんな「心の風邪」というふうな現行主流のとらえ方には、心を体の病同様に見ることで決定的に見落としてしまっているところがあると思われます。
そういう見方に基づいて精神科のドクターは診断書にもっともらしく「うつ病」と書き、対応としてはもっぱら奇妙な横文字名のクスリを複数処方するのみであるわけです。
(たくさんの精神科の診断書を目にする機会があるのですが、ほんとうに見事なくらいそれだけです)
ここには精神科医療のベースにある「脳をなんとかすれば心の病は治る」「心=脳である」という非常にストレートにわかりやすい図式があります。
率直にいってこれは心を物質に還元するきわめて粗っぽい「還元主義」なわけですが、しかしそれでもクスリが効くのならまだいいでしょう。
しかし実際にはどうなのでしょうか?
私は使ったことはありませんが、使ったことのある方・現に使っておられる方、いかがですか?
多少の軽快は可能なのかもしれませんが、それだけというケース、またそれではどうにもならないケースが、実際のところ大多数なのではないでしょうか。
これはひじょうに奇妙な状況に見えます。
「心の病」を扱っているはずの医療が、心を、人間の内面そのものを、見まい見まいとしているのですから。
たしかに「唯脳論」みたいな、ある意味きわめて(おめでたいほど)シンプルな人間観が常識化している現状で、「うつ」を扱おうとするとそうなってしまうというのは、わかりやすすぎるぐらいわかりやすいところですが、しかしこれはおかしな話です。
薄っぺらい喩えになりますが、デジタルな現代人的にわかりやすいのであえて使うと、人間の心というのはパソコン上で動作しているソフトにある意味で似ています。
この場合、心の病はいわばソフトの動作異常ということになるわけです。
いろいろ多彩な症状やトラブルの深刻度の違いはあったとしても、動作異常はあくまで動作異常です。
そうすると、上記のようにもっぱら「心を脳の働きにすぎない」と考えて脳に作用するクスリを処方するだけというような医療とは、「パソコンのソフトの動作がヘンだ。だからメモリを増設する」とか「CPUを交換する」とか「冷却ファンを強化する」とかというような、とてもちぐはぐな対策をやっていることにはならないでしょうか。
(もちろんCPUなどのハードに起因する動作異常なら著効があるでしょうし、たとえソフトの動作が異常に遅くなっても、ハードとしてのメモリが増えることでその異常が相殺されるということがあるかもしれません。しかしあくまでそれだけです。)
いうまでもなく、感情から認識、そして深さも主体もあっての私たち人間の心とは、コンピューターのソフトなどとは比較するのもおろかなほど複雑で精緻で微妙です。
この喩えで何かがわかりやすくなるとするなら、それは心が病・機能異常の状態にあるのなら、まさに心そのものを取り扱うことが本道である、ということにほかなりません。
そしてさきにも書きましたが、人間の心とは、私たちが現にこうやっているように、きわめて深く大きな部分を言葉がになっているわけです。
もちろんイメージも感情も、その他いろんなレベルや側面があっての心ですが、しかしそれらのベースにもまた言葉がわかちがたく働いているのは、ちょっと自分の心を省みても間違いない、そしてそれはみなさんとも共有できるという意味で「事実」と言っていいと思われますが、いかがでしょうか。
すると人間の心における「落ち込み」やそれがひどくなった「うつ」の原因として、心をになう深層にまで根ざした言葉のシステムの、いわば機能障害を想定するのは、ごく自然・当然といってもいいのではないかと思われます。
機能障害…つまり人とうまくやっていけない、自分自身や他者をおとしめ傷つけてしまう、社会にうまく適応できない、健全な成長が阻害されている、等々。
結論めいたことを先に言ってしまえば、コスモロジーとは包括的な世界観・宇宙観・人間観であると同時に、人間の心にとって深いところでいつも働いている言葉のシステムの大枠を意味しているのだと思います。
これも非常に浅薄な喩えであることは承知のつもりであえていうと、そのように心にとってのコスモロジーとは、いわばコンピューターにとってのオペレーティングシステム(OS)に当たるような、きわめて基本的で本質的なものなのだと思われます。
だからコスモロジーというレベルから癒されることで、心は根本的なところから元気なることができるのではないか、と。
つまり人間として心を持つ存在である限り、私たちには病いの可能性を負っている一方で、おおきな希望の根拠をもしっかりと与えられている、と思うのです。
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