買い物ついでにちょいとお出かけしました。とりあえず、大好きな雑司が谷の鬼子母神へ。
毎年10月に開催される「御会式」は、夜中に太鼓をたたいて池袋を練り歩きます。なんだかすごいですよ。是非足を運んでみてください。
ちなみに、横浜ベイスターズのチャンスの時の応援はちょっとお会式っぽいです。
さて、参道です。ケヤキ並木になっています。樹齢300~400年といわれるものが健在です。普通に車も通ってます。
入り口の仁王様です。
境内の大銀杏は樹齢600年余です。秋は本当にキレイ。都内で2番目に大きいイチョウだそうです。
鬼子母神境内に鎮座する武芳稲荷です。鬼子母神より前からいらしたここの地主さんです。本日初めてのお稲荷さんです。
今の本堂は、寛文六年(1666年)の春に、前田利常の三女 満姫(浅野光晃の妻、自澄院殿)が、天下安全・子孫繁栄の祈願として造らせたもので、豊島区内最古の建造物です。
珍しい、鬼子母神の石仏です。他ではいまだに見たことがありません。
境内にある、都内最古(元録年間以来の営業)の駄菓子屋さんです。この辺り、涼しければネコが沢山いるのですが、暑すぎて皆どこかへ避難していて全くいませんでした。残念。
むかしむかし、子供が母親の病気を治してもらう為、百日の願をかけたところ、その満願の夜、美しい蝶の姿をした鬼子母神様が現れ、すすきの穂でみみずくを作り、それを売って薬を買いなさと教えたそうです。
すすきみみずくは今でも名物です。
雑司が谷のおとりさま。もともと鷺明神と言って鬼子母神境内にありました。明治維新後、神仏分離によって、切り離され現地に移されました。それでかどうか、11月には酉の市が開かれますが、鬼子母神のお会式とは違い、ものすごく地味です。
とてもかわゆい狛犬を発見しました。名前を付けてあげてください(勝手に)。
スミマセン。怒りません。
大鳥神社境内の三杉稲荷です。本日2つめのお稲荷さん。もしかしたらこの土地の地主様かもしれません。大切に祀られています。
鳥居のような手水舎。
さて、再び鬼子母神の参道に戻り、都電鬼子母神駅へ向います。
駅のそばのちいさなお稲荷さん(本日3つめ)。ちいさな馬頭観音もあります。
古い道(鎌倉街道だといいます)をさらに行きます。宿坂という急な坂を下ると金乗院に着きます。
宿坂のあたりは中世の頃に、「宿坂の関」と呼ばれる関所が設けられていました。鎌倉街道の道筋にあったものと伝えられています。
今乗院の門。ただ、門前に目白不動のミチシルベが・・・。なかなか迫力ですが。
実は、金乗院の境内に目白不動があります。
今はとても小さな堂です。戦前は椿山荘のそばにあったのですが、戦争で全焼、住職さんから檀家さんまで多くが犠牲になってしまいました。再建できず、金乗院に合併されました。
その小さな目白不動堂でネコがお昼寝。
金乗院本堂前の倶利伽羅不動の石仏です。なかなかすばらしいものですよ。これも他ではあまり見れません。
境内には、青柳文蔵の墓があります。青柳文蔵は仙台の人で、1831年、仙台に「青柳館文庫」をつくりました。これが日本最初の公共図書館といわれています。夫人がこの辺りの出身であったため、この寺に埋葬されているそうです。日本の図書館の祖といわれています。ありがたとうございます。
丸橋忠也の墓もあります。丸橋忠也は由井正雪とともに幕府転覆を計った人物として知られています。慶安事件です。1651年に鈴が森で磔にされました。
近くには根生院もあります。小さなお寺ですが、徳川幕府の祈願所でした。朱塗りの山門にかつての面影が残ります。1902(明治35)年に下谷から移転してきました。
境内にあるおそらく藤稲荷(今日、4つ目ですね。)
南蔵院です。明治の落語家三遊亭圓朝の名作『怪談乳房榎』の舞台になった寺です。
高田の氷川神社です。落合村の氷川神社(女体の宮)に対し、素盞鳴命(すさのおのみこと)が主神であるため、「男体(なんたい)の宮」といわれていました。
ここは、元は高田砂利場でした。
境内にある高田姫稲荷神社です。良い名前です。本日5つ目のお稲荷さん。
江戸時代からいらっしゃる狛犬。今はご隠居として境内の隅に並んで座っています。
オリジン電気の門前の一隅に建つ山吹の里碑です。山吹が1輪だけ咲いていました。
太田道灌が鷹狩りの時、急に雨に降られました。傍らの農家で蓑を借りようとしました。
農家から少女が出て来て、何も言わず山吹の一輪のみを捧げました。道灌は怒って帰ってしまいました。
後に、「七重八重、花は咲けど山吹の、みの(実)ひとつだに無きぞ悲しき」という古歌に懸けたものと教えられた道灌は無学を恥じて和歌の勉強を始めたといいます。
面影橋です。ここにも伝説があります。
戦国時代に、和田靱負という武士の娘於戸姫は、小川左衛門に嫁ぎましたが、夫の友人に夫を殺され、仇はとったものの、家を出て神田川の川辺でわが身を水に写し、亡き夫を想いながら川に身を投げたそうです。里人は於戸姫の心情を思いやり、面影橋・姿見橋と名付けました。
辺り一面に桜が咲きます。
如意山亮朝院です。江戸時代は江戸名所図会などで見ると鳥居を設置し「七面大明神」を祭神とする神社風でした。
七面堂を護るようにして立つ『金剛力士像』一対は、珍しい石造りです。ド迫力の逸品です。
近くにある天祖神社。私はこの天祖神社という名前があまり好きではありません。
江戸時代には神明社、とか神明宮とか呼ばれていました。神明社、神明宮とは、天照大神、あるいは伊勢内外宮の神を祀った神社です。
神明の意味としては二つあります。1、神と同義、2、天照大神の別名。
明治の神仏分離令の時に、神明社、神明宮などは伊勢神宮の分霊であり、天の御先祖の神を称える意味から全国統一の名称として天祖神社と呼ばれるようになりました。
「神明さま」の方が5倍くらい良い名前だと思います。
鎌倉道はどこへ続くか分からなくなったので、道をそれて甘泉園、水稲荷へ。
甘泉園です。徳川御三卿の清水家の下屋敷であったところです。
子供たちがアメンボを捕まえ、足をもいでいました(なんて残酷)、平泳ぎしろ~とか言っていました(むちゃくちゃ)。
甘泉園のお隣の、水稲荷です。本日6つ目のお稲荷さんにして、最大のおいなりさんです。
藤原秀郷が旧社地(現早稲田大学9号館)にあった“富塚(古墳だと言われる)”の上に稲荷大神を勧請したのが始まりです。
元禄15年(17020年)に霊泉が湧出、それが眼病に効く、信仰すると火難を免れるというので水稲荷と呼ばれるようになりました。
昭和38年、早稲田大学との土地交換により現在地に遷座しました。土地交換ってのもすごい話ですね。
耳欠け神狐です。
自分の身体の痛い所をなで、その後神狐をなでます。これを繰り返すと、身体の痛みがなくなります。と昔から信じられています。なでなで。
本殿裏手の富士塚です。高田富士です。現在の水稲荷神社境内で復元されました。
古墳の石室でしょうか。
子供の頃、古墳巡りが大好きでした。結構遠くまででかけたりしました。23区内の古墳は制覇した気分になっていましたが、大人になって、神社巡りをしだしたら、出くわす出くわす。神社って結構古墳の上に建ってたりするんですよね。小学生の頃には思いつきませんでした。
古墳の上にいる神狐の親子?です。さきほどの耳欠け神狐のようなご利益はないみたいです。
ここにも二つのお稲荷さんが・・・。数えられない。しばらく悩みました。
せっかく数えたんだから、きちんと小さいお稲荷さんまで数えて、これからも大変な思いをするか、
いや、一つの境内にあるんやから、まとめておいなりさん一つと数えるか
は、自由だぁぁ!!。 いなり is fredam 。
水稲荷境内の堀部安兵衛の碑です。
この付近はかつて高田馬場の跡で、忠臣蔵で有名な堀部安兵衛が叔父の決闘に助太刀をしました。これが有名な「高田馬場の決闘」です。
これに見惚れた赤穂藩士堀部弥兵衛が娘との婚儀を申し入れ、安兵衛は200石の赤穂藩士となりました。
さらに、穴八幡とか箱根山とか抜弁天とか鬼王神社とか(あやしげな名前ばかりですが)行くつもりでしたが、ものすごく暑いので今日はこれまでにします。
それにしても、お稲荷さんの数え方、良い知恵があったら教えてください。
毎年10月に開催される「御会式」は、夜中に太鼓をたたいて池袋を練り歩きます。なんだかすごいですよ。是非足を運んでみてください。
ちなみに、横浜ベイスターズのチャンスの時の応援はちょっとお会式っぽいです。
さて、参道です。ケヤキ並木になっています。樹齢300~400年といわれるものが健在です。普通に車も通ってます。
入り口の仁王様です。
境内の大銀杏は樹齢600年余です。秋は本当にキレイ。都内で2番目に大きいイチョウだそうです。
鬼子母神境内に鎮座する武芳稲荷です。鬼子母神より前からいらしたここの地主さんです。本日初めてのお稲荷さんです。
今の本堂は、寛文六年(1666年)の春に、前田利常の三女 満姫(浅野光晃の妻、自澄院殿)が、天下安全・子孫繁栄の祈願として造らせたもので、豊島区内最古の建造物です。
珍しい、鬼子母神の石仏です。他ではいまだに見たことがありません。
境内にある、都内最古(元録年間以来の営業)の駄菓子屋さんです。この辺り、涼しければネコが沢山いるのですが、暑すぎて皆どこかへ避難していて全くいませんでした。残念。
むかしむかし、子供が母親の病気を治してもらう為、百日の願をかけたところ、その満願の夜、美しい蝶の姿をした鬼子母神様が現れ、すすきの穂でみみずくを作り、それを売って薬を買いなさと教えたそうです。
すすきみみずくは今でも名物です。
雑司が谷のおとりさま。もともと鷺明神と言って鬼子母神境内にありました。明治維新後、神仏分離によって、切り離され現地に移されました。それでかどうか、11月には酉の市が開かれますが、鬼子母神のお会式とは違い、ものすごく地味です。
とてもかわゆい狛犬を発見しました。名前を付けてあげてください(勝手に)。
スミマセン。怒りません。
大鳥神社境内の三杉稲荷です。本日2つめのお稲荷さん。もしかしたらこの土地の地主様かもしれません。大切に祀られています。
鳥居のような手水舎。
さて、再び鬼子母神の参道に戻り、都電鬼子母神駅へ向います。
駅のそばのちいさなお稲荷さん(本日3つめ)。ちいさな馬頭観音もあります。
古い道(鎌倉街道だといいます)をさらに行きます。宿坂という急な坂を下ると金乗院に着きます。
宿坂のあたりは中世の頃に、「宿坂の関」と呼ばれる関所が設けられていました。鎌倉街道の道筋にあったものと伝えられています。
今乗院の門。ただ、門前に目白不動のミチシルベが・・・。なかなか迫力ですが。
実は、金乗院の境内に目白不動があります。
今はとても小さな堂です。戦前は椿山荘のそばにあったのですが、戦争で全焼、住職さんから檀家さんまで多くが犠牲になってしまいました。再建できず、金乗院に合併されました。
その小さな目白不動堂でネコがお昼寝。
金乗院本堂前の倶利伽羅不動の石仏です。なかなかすばらしいものですよ。これも他ではあまり見れません。
境内には、青柳文蔵の墓があります。青柳文蔵は仙台の人で、1831年、仙台に「青柳館文庫」をつくりました。これが日本最初の公共図書館といわれています。夫人がこの辺りの出身であったため、この寺に埋葬されているそうです。日本の図書館の祖といわれています。ありがたとうございます。
丸橋忠也の墓もあります。丸橋忠也は由井正雪とともに幕府転覆を計った人物として知られています。慶安事件です。1651年に鈴が森で磔にされました。
近くには根生院もあります。小さなお寺ですが、徳川幕府の祈願所でした。朱塗りの山門にかつての面影が残ります。1902(明治35)年に下谷から移転してきました。
境内にあるおそらく藤稲荷(今日、4つ目ですね。)
南蔵院です。明治の落語家三遊亭圓朝の名作『怪談乳房榎』の舞台になった寺です。
高田の氷川神社です。落合村の氷川神社(女体の宮)に対し、素盞鳴命(すさのおのみこと)が主神であるため、「男体(なんたい)の宮」といわれていました。
ここは、元は高田砂利場でした。
境内にある高田姫稲荷神社です。良い名前です。本日5つ目のお稲荷さん。
江戸時代からいらっしゃる狛犬。今はご隠居として境内の隅に並んで座っています。
オリジン電気の門前の一隅に建つ山吹の里碑です。山吹が1輪だけ咲いていました。
太田道灌が鷹狩りの時、急に雨に降られました。傍らの農家で蓑を借りようとしました。
農家から少女が出て来て、何も言わず山吹の一輪のみを捧げました。道灌は怒って帰ってしまいました。
後に、「七重八重、花は咲けど山吹の、みの(実)ひとつだに無きぞ悲しき」という古歌に懸けたものと教えられた道灌は無学を恥じて和歌の勉強を始めたといいます。
面影橋です。ここにも伝説があります。
戦国時代に、和田靱負という武士の娘於戸姫は、小川左衛門に嫁ぎましたが、夫の友人に夫を殺され、仇はとったものの、家を出て神田川の川辺でわが身を水に写し、亡き夫を想いながら川に身を投げたそうです。里人は於戸姫の心情を思いやり、面影橋・姿見橋と名付けました。
辺り一面に桜が咲きます。
如意山亮朝院です。江戸時代は江戸名所図会などで見ると鳥居を設置し「七面大明神」を祭神とする神社風でした。
七面堂を護るようにして立つ『金剛力士像』一対は、珍しい石造りです。ド迫力の逸品です。
近くにある天祖神社。私はこの天祖神社という名前があまり好きではありません。
江戸時代には神明社、とか神明宮とか呼ばれていました。神明社、神明宮とは、天照大神、あるいは伊勢内外宮の神を祀った神社です。
神明の意味としては二つあります。1、神と同義、2、天照大神の別名。
明治の神仏分離令の時に、神明社、神明宮などは伊勢神宮の分霊であり、天の御先祖の神を称える意味から全国統一の名称として天祖神社と呼ばれるようになりました。
「神明さま」の方が5倍くらい良い名前だと思います。
鎌倉道はどこへ続くか分からなくなったので、道をそれて甘泉園、水稲荷へ。
甘泉園です。徳川御三卿の清水家の下屋敷であったところです。
子供たちがアメンボを捕まえ、足をもいでいました(なんて残酷)、平泳ぎしろ~とか言っていました(むちゃくちゃ)。
甘泉園のお隣の、水稲荷です。本日6つ目のお稲荷さんにして、最大のおいなりさんです。
藤原秀郷が旧社地(現早稲田大学9号館)にあった“富塚(古墳だと言われる)”の上に稲荷大神を勧請したのが始まりです。
元禄15年(17020年)に霊泉が湧出、それが眼病に効く、信仰すると火難を免れるというので水稲荷と呼ばれるようになりました。
昭和38年、早稲田大学との土地交換により現在地に遷座しました。土地交換ってのもすごい話ですね。
耳欠け神狐です。
自分の身体の痛い所をなで、その後神狐をなでます。これを繰り返すと、身体の痛みがなくなります。と昔から信じられています。なでなで。
本殿裏手の富士塚です。高田富士です。現在の水稲荷神社境内で復元されました。
古墳の石室でしょうか。
子供の頃、古墳巡りが大好きでした。結構遠くまででかけたりしました。23区内の古墳は制覇した気分になっていましたが、大人になって、神社巡りをしだしたら、出くわす出くわす。神社って結構古墳の上に建ってたりするんですよね。小学生の頃には思いつきませんでした。
古墳の上にいる神狐の親子?です。さきほどの耳欠け神狐のようなご利益はないみたいです。
ここにも二つのお稲荷さんが・・・。数えられない。しばらく悩みました。
せっかく数えたんだから、きちんと小さいお稲荷さんまで数えて、これからも大変な思いをするか、
いや、一つの境内にあるんやから、まとめておいなりさん一つと数えるか
は、自由だぁぁ!!。 いなり is fredam 。
水稲荷境内の堀部安兵衛の碑です。
この付近はかつて高田馬場の跡で、忠臣蔵で有名な堀部安兵衛が叔父の決闘に助太刀をしました。これが有名な「高田馬場の決闘」です。
これに見惚れた赤穂藩士堀部弥兵衛が娘との婚儀を申し入れ、安兵衛は200石の赤穂藩士となりました。
さらに、穴八幡とか箱根山とか抜弁天とか鬼王神社とか(あやしげな名前ばかりですが)行くつもりでしたが、ものすごく暑いので今日はこれまでにします。
それにしても、お稲荷さんの数え方、良い知恵があったら教えてください。
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