『あさま山荘1972』 坂口弘 彩流社
さまざまな事柄を考えさせてくれた著作である。昨年2月に赤羽のBで1冊105円(計315円)の揃いで入手した。立松和平が自分の作品において、無断で長文の引用をしていまい、訴えられたことは報道で知っていたが、職業作家が参考にするような、"あさま山荘"事件の犯人側の手記本が、たった315円であるのに驚いた。この書籍は今でも、大型書店の社会学専門書コーナーでまだ定価(1900円×3+税)で売られている。
何故にBでこの値段に設定したかを想像してみた。Bの経営者が、政党まで所有する宗教団体の信者(会員)であるらしいという事は、2チャンネルで知っているので、この本は自分の信ずる教団の思想信条に反する左翼本として、最低価格で早めに処分しようとしたのではと、思った。この程度で済むのなら30数年前(藤原公達「...会を切る」)の時のように出版妨害まで突き進むのことはなさそうである。左翼本であろうが右翼本であろうが出版した本は、それなりの命を持っているものなのだから、焚書までは行かんで欲しい。
"あさま山荘"事件の当時は、社会人になったばかりで夜勤明けに仲間と宴会をしながら、TVのライブ中継を見ていた。その時点では一種の思想犯が体制に反抗していると眺めていたが、事件後に発覚した猟奇的ともいえる多くの殺人に、戦慄した。その犯人のひとりが、反省の意味を込め執筆したのが、この手記本である。
好きで読もうとした本ではなかったが、315円という価格の設定で、著者なり出版社なりが気の毒になったのである。フィクションのホーラー小説を読むよりは、恐怖が味わえるというものである。
仲間を総括の名のもとに、殺戮するという行為は、殺人に至らなくても、大なり小なり一般の組織でもありえるのではなかろうか、人間の嫉妬という本能をどのように抑えるかということである。
子母澤寛『新撰組始末記』をたまたま読んでいてから、この3冊を読んだのであるが、新撰組の構成員と連合赤軍の構成員の年代が同じで、仲間を殺戮するという行為も同じであることが、なにか共通している。NHK『新撰組』の描き方が、違うじゃないかと感じたのはわたしだけだろうか。
わたしの分類では、現代史の範疇に入る手記本である。韓国や中国では、歴史認識がどうのこうのと、暴動まで起こして問題にされる。わたしが学校教育で受けた歴史とは、江戸時代に入るかどうかという時点で済んでしまっているが、韓国・中国では現体制の黎明期からが、歴史というものらしい。
歴史をすぐに役立たせるには、現代史から逆に古代へ遡ったほうが、東アジアでは有効と考えると、結果から原因を突き止めるという、論理的に難しい犯罪調査のようになってしまう。
(論理が成立しないときは、自己は棚に上げて、犯人を作って責任転嫁をする。)
戦前の歴史教育は、今のように社会科の一部門としての歴史ではなく、独立して歴史科として存在していたと、坂本太郎の文庫(「菅公と酒」p148 中公文庫1982 "国史として独立"。
どこかで提案されているように、東アジアで歴史教育の共同研究をするのであれば、歴史科の格上げをして、近・現代史のウェイトを加えることになるのではなかろうか。
そうなると、現代の政治家なり経営者なりの主導者は、生存中に自分の業績なり罪を清算することになり、生きて裁きを受けることになる。庶民のわたしとしては、望ましいことになるのだが...見守りましょう。
坂口弘『あさま山荘1972[上]』彩流社 1994/01/20 7刷 『あさま山荘1972[下]』彩流社 1994/02/25 6刷 『続あさま山荘1972』 彩流社 1995/05/20 1刷
2005/04/21 ものずき烏 記