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支流からの眺め

大津事件(2) その後の皇太子と日露 

 事件後の皇太子は、シベリアを経由して陸路ペトログラードに戻った。この旅行で自国の広大な領土を実感し、その東の太平洋の広がりと出口にある島国を強く認識しただろう。3年後の1894年、皇太子はニコライ2世として皇帝に即位し強い帝国を目指した。その野心は最近訪れた極東に向いていた。即位から1年後の1895年、日清戦争で日本が勝利し旅順と遼東半島を割譲させた時、露国はすぐさま独仏に呼びかけて威嚇し、「清の領土保全」を建前にその地を中国に返還させた(三国干渉)。

 しかしあろうことか、返還を唱えた露が懸案の旅順と大連を租借地とし、自国の艦隊を常駐させ、シベリア鉄道からの鉄道敷設権も得た。英独仏も各々要所を租借し清を分け合った。清は列強の横暴に抗したが(1900年の義和団事件)、その鎮圧後も露軍は満洲に駐留した。1896年には強い露国を恃んだ朝鮮国王高宗が露大使館へ逃げこみ(露館播遷)、森林利権等を露に譲った。露の強引な東方進出に危機感を共有した日本と英国は、1902年に日英同盟を結んでその日に備えた。

 1904年2月、日露戦争が始まった。露国は初戦から劣勢で、1905年1月に旅順が陥落、3月に奉天会戦の敗退、5月の日本海海戦では艦隊がほぼ全滅した。露国民は生活に窮乏し、1905年1月には皇帝への嘆願書を携えて10万の群衆が宮殿前広場に集まった。これに軍が発砲し、数千人の死者が出た(血の日曜日事件)。6月には黒海艦隊の戦艦(ポチョムキン号)で反乱が起こり、港湾で暴動が発生した。国内の混乱と米国の口利きもあり、露は9月に日本と講和して戦闘を終結させた。

 しかし戦後も国民の不満は収まらず、10月には、思想・言論・集会の自由、政党結成、国会開設、普通選挙などを認めざるを得なくなった(十月宣言、第一次ロシア革命)。これで世情はやや落ち着いたが、不本意な皇帝は国会運営を妨害し選挙制限を加えるなどの反動的な対応をとり続けた。個人的な不幸として、1904年に生まれた皇太子が難病(血友病らしい)を抱えていた。その治療に呼ばれた祈祷僧ラスプーチンに、政治や私生活まで攪乱される事態も生じた(1916年の暗殺まで続く)。

 1912年頃より再び労働争議が増加した。1914年からはスラブ民族主義を掲げて第一次世界大戦に参戦したが、戦況は芳しくなく再び生活の困窮でデモが続き、軍部までがデモに加わる事態となった。ここで遂に皇帝は退位を受け入れた。14代・300年続いたロマノフ朝は終焉を迎え、臨時政府が設立された(1917年、二月革命)。その臨時政府をレーニン率いるボリシェヴィキが転覆し(十月革命)、世界大戦から離脱して過酷な内戦を戦い抜き、1922年12月に初の共産政権ソビエト連邦を打ち立てることになる。

 退位したニコライはどうなったか。家族と共にウラル地方に軟禁されていた。1918年5月、シベリアで反革命派(チェコ軍)が蜂起し内戦が始まった。ここで元皇帝の奪還を恐れたレーニンは処刑を命じ、1918年7月17日、元皇帝とその家族6名及び付き人4名の計11名は銃殺され、死体は遺棄された。尚、遺体は約70年後のソ連崩壊の後に発掘され、2000年には露正教会によって殉教者として名誉回復されている。この時の遺体のDNA鑑定に、大津事件のシャツの血痕が利用されたという。(続く)

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