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ウォーキングと旅行でのひとり言

ウォーキングと旅行の途中で頭に浮かんだことを書いてみました

兵庫県 天空の城 竹田城 散策 その2

2019年12月20日 | 旅行
情報館・天空の城から出て来て、これから播但線の踏切を渡ります。





踏切を渡るときに見た竹田駅の方向





黄色の線に沿って、番号順に歩きます。






踏切を渡ると、寺町通りに来ました。





お寺が並んでいて、綺麗な水路が流れていました。

白壁の寺と、水路で、落ち着く景色をかたちづくってっています。


最初に左側にある善證寺です。





慈雲山 善證寺(ぜんしょうじ)

1334年に、対岸の金梨山のふもとに開創。

1625年の火災で消失し、1652年にこの場所に移転したそうでした。

1706年に現在の本堂を再建立し、門前の石橋には享保17年(1732年)の年号が刻まれています。





寺町通を歩きます。





すぐ隣には、常光寺がありました。





常光寺の石橋は、宝永4年(1707)に架橋で、但馬で最古の石橋


本堂





この寺は、竹田城の初代城主の太田垣光景の菩提寺でした。

1594年に開創し、1610年に現在地に移っています。


太田垣光景 石塔






ここからさらに寺町通りを北へ歩きます。

常光寺の隣りには、勝賢寺がありました。





本堂








この地は、赤松広秀公の家臣の平位善右衛門屋敷跡とされています。

境内には、第九代城主である桑山重晴の長男、一重夫妻の五輪供養塔があるそうです。


寺町通りにそう小さな川の流れ








一番最後の寺は「法樹寺」





本堂





本堂の裏側には赤松広秀の供養塔があります。

(寺には、赤松広秀愛用の膳、お椀があるそうです。)


赤松広秀は1562年に、播磨龍野城主赤松政秀の子として生まれ、16歳で龍野城主となります。

後に、秀吉の家臣となり、四国征伐等の戦功により、1585年に竹田城主となりました。

竹田城の最後の城主です。

文人としても優れ、領民から慕われる武将でしたが、”関ヶ原の合戦”で西軍にくみしたため敗北します。

その後、鳥取城攻めで城下に火を放ったとされ、鳥取の真教寺で自刃しました。享年39歳でした。


供養塔を探しましたが、うまく見つけることができませんでした。



境内の外へ出て、寺町通りをさらに北へ歩きました。





(通りの右側にありました。)


この通りから、竹田駅が見れます。





もうすぐ、”駅裏登山道”に到着します。





登山口に来ました。
























兵庫県 天空の城 竹田城 散策 その1

2019年12月18日 | 旅行
前夜は、城崎温泉で一泊しました。

蟹をお腹いっぱい食べることができました。


外湯巡りをして、温泉にもたくさん入り…………。



今日は、城崎温泉駅から和田山駅を経由して、竹田駅まで行きます。





竹田駅につきました。


竹田駅を出たところ





この駅は、明治39年、播但鉄道の新井駅〜和田山駅間の延伸と同時に開業します。

駅舎はその当時のものらしいです。



ここをスタートとして、次の地図の黄色の線に沿って番号順にウォーキングしようと思います。

(今日は、山の上り下りがあるので頑張りたいと覚悟しています。)





まず、駅前から、線路に沿った道を南へ歩きます。





土壁の蔵がありました。





”情報館 天空の城”まで来ます。








ここを中に入って、情報館で、パンフレットや地図をもらいたいと考えました。





(入って来た入り口を、中側から見たもの)

この左側に情報館はありました。



竹田城の写真がかけてあります。





雲海に浮かぶ竹田城








正面に竹田城跡の模型があります。








城跡の説明展示





竹田城の歴史がありました。





竹田城の最初の城主は、山名宗全の部下であり、”山名四天王”の一人の『太田垣光景」です。

1441年ごろに、山名氏と赤松氏の間に深刻な対立があり、竹田城は赤松氏に対する山名氏側の最前線基地の一つでした。





”織豊時代 戦乱と竹田城”





赤松広秀








竹田城の石積み





お土産があります。









情報を仕入れたので、これから竹田城に向かいます。


情報館を出て、すぐ前の踏切を渡りました。









兵庫県 但馬の小京都出石 散策 その10

2019年12月16日 | 旅行
出石酒造酒蔵から出て来ました。





出石酒造は、1708年の創業で、老舗の蔵元です。

酒の別名である”笹の露”と、出石藩主である仙石公の別荘の名前の”楽々園”から、出石酒造の酒の名前の”楽々鶴(ささづる)”がきています。


これから、次の地図の黄色の線に沿ってウォーキングを続けます。





(今は地図の14番の酒蔵です。)


この酒蔵の前の通りを少し北へ歩いて、突き当たりのところを東の方を向くと「本高寺」の山門がありました。





境内に入って、見学させてもらいました。


本堂





庫裡





1706年に信濃上田藩主から出石藩主に移って来た”仙石政明”は、本高寺を仙石氏の菩提寺とします。


本高寺は、”江戸時代三代お家騒動”といわれた”仙石騒動”に関して処刑になった家老河野瀬兵衛の菩提も弔っていました。


本高寺から出て、西へ歩きます。





左側の赤い土壁の建物は出石酒造です。


少し西へ歩くと、出石史料館が見えて来ました。





この建物は、”旧福冨家住宅”です。

明治時代のこの地方の商家の風情を今に伝えるもので、中は高度な建築技術を駆使した贅沢なつくりになっているようです。

建物の正面に見える虫籠窓や格子戸が印象的です。

蔵では、出石藩主が使用していた甲冑をはじめ、出石藩ゆかりの調度品も展示されているようでした。



















資料館の前の通りを西へ歩きます。








しばらく歩くと、右側に「西方寺」がありました。(地図の16番の地点)





本坊






この通りの西方寺のすぐ隣に石碑があります。(地図のH地点)





この石碑が何を言っているのかわかりませんが、興味をそそられました。



ここからさらに西へ歩きます。

”桂小五郎潜居跡”に向かっていました。








出石蕎麦の”よしむら”の手前にその潜居跡があります。(地図の17番の地点)











長州藩の桂小五郎は、禁門の変で朝敵として狙われることになります。

そして、但馬へ姿を隠しました。

8ヶ月間も潜伏したそうですが、但馬の出石・城崎をあちこち移動したようです。


ここから西方寺の方へ少し戻り、よつ角を右に曲がりました。



南へ歩いて、地図のI地点で、「辰鼓楼」の方を見た風景です。

(この通りを大手前通りと言います。)





手前左側の店は”いずし堂”です。

可愛い包みのかりんとうやおせんべいや豆菓子が売られています。

(この場所は、江戸時代に掲示板があった本町の札の辻です。)

手前の右側の店は”まめいも屋”

(手前になつかしい看板が見れます。あのボンカレーの女優さんは、確か松山…………。)



この通りの先には、辰鼓楼が見えます。



そろそろ、予定の時刻が来ました。

ここの出石のバス停から豊岡駅までもどり、今日の宿の城崎温泉まで行かなければなりません。

(バスの本数が少ないのでたいへんです。)


辰鼓楼へ南へ歩き、次の通りを右に曲がりました。





西へ急ぎ足で歩きます。














地図の J地点で、桂小五郎の関係の石碑を見つけました。





桂小五郎が出石で最初に隠れたところの、田結庄町の「角屋喜作」宅跡を示す石碑




ここから、急ぎ足で出石のバス停を目指しました。



























兵庫県 但馬の小京都出石 散策 その9

2019年12月13日 | 旅行



上の案内図の①番の本堂にいます。

本堂の広縁に座って図の本堂の右側の庭を見ながら休んでいました。











これから、本堂の外へ出て、裏山の庭を見にいきたいと思います。


外へ出て来ました。





前に見えるは、ドウダンツツジの生垣です。





順路に従って、見学しました。





前に見えるは”願いの鐘”



先ほど広縁から見ていた庭





奥に進んでいくと……、








”関守石”とあります。





茶庭や露地や飛び石や延段の岐路に据えられる石です。

茶道の作法において、この石が置かれた時は、”これより中に入ることを遠慮ししてください”の意味がこもっていました。

知らないと、恥をかくかもしれませんね。



裏山の奥に歩きました。








”対来閣”です。





4畳半のお茶室……、城崎の来日山に対しているため”対来閣”と名付けたそうでした。



対来閣の近くにあったワジスケの木














上の方へ登って、歩きました。





”沢庵和尚塔所”





真ん中の一段高いところのものが沢庵和尚の塔です。

沢庵和尚は、東京品川の東海寺で73歳でお亡くなりになりました。


下に並んでいる墓は、歴代の住職のものです。








本堂の方へ戻って来ました。








本堂の広縁と、その前の庭です。





本堂とドウダンツツジ






素晴らしい紅葉でした。




宗鏡寺を後にして、『出石酒造酒蔵」に向かいました。





地図の黄色の線に沿って番号順に歩こうと思います。

(今は、12番の宗鏡寺)


西へ歩いて行きます。


少し歩くと、願成寺まで戻って来ました。





山門に達磨大師?が、まだおられました。


願成寺の道を挟んですぐ前に、”川崎尚之助供養の碑”があります。





川﨑尚之助(1836〜1875年)は出石出身です。

尚之助は、天保7年、本町に住む藩士の川崎才兵衛の家に生まれました。

江戸の高名な塾で洋学を学び、同門の会津藩士・山本覚馬と出会い、維新期の数奇な運命をたどることになります。

会津藩校の日新館では、会津藩の山本覚馬と共に洋学・砲術を教授し、覚馬の妹の八重と結ばれました。


この話は、平成25年の大河ドラマ「八重の桜」で、皆さんもご存知でしょう。

(頭の中に、綾瀬はるかさんの姿があらわれれました。)



ここから、どんどん坂を降って行きました。





案内標識のあるよつ角に来ます。





(地図のGの地点です。宗鏡寺を出てから約15分の経過です。)


ここを通って、さらに西へ歩きます。








向こうに、出石酒造が見えて来ました。


出石酒造の前に来ました。





すぐに中に入りたいのですが、その前に、酒造の建物を見てまわりました。





南側からの風景








出石酒造の前に戻って、中に入りました。





ここのお酒の名前の楽々鶴……、”ささづる”と読みます。














お酒の試飲をすすめられました。

その時飲んだお酒の味が素敵です。。

(本当に、今まで生きて来た中で一番美味しいと感じました。)

その時に、一緒に試飲した数人の人も同じ感想だったので、私は自分の舌に自信を持ちます。

迷わずに、楽々鶴(ささづる)を土産に買いました。





ビールもつくってられるようです。









ここから、次の観光目的場所の「出石資料館」に行きます。































兵庫県 但馬の小京都出石 散策 その8

2019年12月11日 | 旅行
これから、宗鏡寺に入ります。





前に見える山門 をくぐって境内に入りました。


境内の中の案内図です。





本堂です。

入り口から中に入りました。











ここ円覚山宗鏡寺は通称”沢庵寺”と言います。

開基は、当時の出石城主の山名陸奥守氏清公であり、寺名は氏清公の法名から名付けたと伝えられていました。

1392年に建てられました。


その後、織田信長の但馬征伐で山名家が滅び寺も荒廃していたところを、1616年、小出吉英の援助の元、沢庵和尚を招き再興されます。



本堂の前の庭園











紅葉が素敵でした。



次は、別の庭で”鶴亀の庭”……、沢庵和尚作といわれています。








池の全体の形が鶴になっていて、池の中に亀島を配していました。








寺門の盛栄を祈念したそうです。

それにしても、紅葉がすごいです。











本堂内の襖絵








たくあんを作ろうと作業する僧侶たちと、漬物用の樽から逃げ出し酒やバクチを楽しむ大根たちをコミカルに描いています。

住職がたくあん作りの時に、地元の子に教育する時にこの襖絵を使うようでした。

(どんなふうに話をするのでしょうか?……,襖絵を見て考えてみるのも楽しいですよ………。)





庭に向かった広縁


















この広縁に座って、しばし、庭を見たいと思いました。