これから午前中に奈半利を散策したいと思います。奈半利の町は約2km四方ぐらいなので、ウォーキングに最適です。
黄色の線に沿ってウォーキングしました。
奈半利は古くは、紀貫之の「土佐日記」に那波の泊として出てきます。野根山街道の起点として陸海の交通の重要地点でした。
山内一豊が土佐入国の際は、野根山街道を通って、奈半利の「正覚寺」で泊まり、江戸時代には、参勤交代でもここを通ります。
駅から、歩き始めました。ゆっくりとしたペースで歩きます。
最初に出会ったのは、竹崎家住宅(高田屋)でした。
明治23年の建築だそうです。古くは樟脳で栄えた家で、現在は、和風喫茶とギャラリーとなっていました。主屋、離れ、蔵があります。中の方へ入ってみましたが、今日はどうも閉店みたいでした。
ここを出てすぐ前の交差点を南へ行くと、旧弘瀬家住宅にきました。
今は、集落活動センター「なはりの郷」になっています。建物も以前の形を保ち、新しくしたそうです。中を見せていただきました。
欄干です。
好きな建て具でした。
ここで、いろんな地図やパンプレットをいただきました。
外へ出て、少し歩くと東山家住宅があります。元は製材業を営んでいらしたそうですが、現在は薬局になっていました。吉良川でも見た水切り瓦があります。高知県の古い建物の特徴かもしれません。主屋は、明治37年ごろの建物で、伝統的な商家のたたずまいでした。
この辺りの風景です。
最初の地図の黄色の線に沿って行くと、次に濱田典弥家住宅がありました。
主屋は、昭和の初めの建築だそうです。多数の小作人を抱える大地主の家です。
濱田家住宅は広い敷地に石塀、かま屋、米あずかり場、土蔵を有するものです。
土蔵は明治後期の建築だそうです。
さらに、黄色のラインに沿ってウォーキングを続けました。正覚寺(高野山真言宗)に出会います。
参勤交代の時に、高知に帰る土佐の殿様の宿になったところです。家来は、近くに民泊したそうです。
北へ、少しウォーキングを続けると、やがて齋藤家住宅に出会います。
昭和23年に設立した奈半利町農業協同組合の倉庫として利用されていたそうで、建築時代は、昭和初期らしいです。
土佐漆喰の壁に水切り瓦が見られます。明かり取り用の窓に鉄製の扉がありました。
さらに北へ歩くと、左手に野村家住宅がありました。
土佐藩への年貢米を集めた場所です。石塀が特徴的ですねえ。浜石を詰め込んだ練り積みという手法だそうです。
さらに北へ進み森家住宅(旧野村茂久馬邸)が右手にありました。
土佐の交通王の家です。2階には上げ下げ窓があり、洋風の姿が取り込まれています。大正7年頃の建築です。屋敷は、浜石の石塀でした。裏にまわって見ました。
レンガのアーチに個性があります。ステキな石塀でした。
さらに、黄色のラインに沿って、北へ歩きました。藤村製糸株式会社に出会います。
大正6年に創立した製糸工場で平成17年ぐらいまで操業していたそうです。絵の蔵は繭蔵で周囲には、浜石の半割と丸石による練り積みの石塀がありました。
現在は、記念館として公開されています。中に入って、見学できますかと尋ねると、親切な女性の職員さんで、非常に丁寧に案内してくださいました。
使われていた製糸の機械です。
奥の壁には、たくさの従業員の写真が貼ってありました。驚くほどの数です。職員の方の話では、まるで従業員とは家族のような付き合いだったそうです。今でも、懇親会があると嬉しそうに 話しておられました。
壁の写真からもその様子が伺えます。
庭も案内していただきました。
この周囲の石塀もすごかったです。
案内の礼を言って、ここを後にしました。旅行中に受けた親切は心にしみるものです。
ここから南へ引き返していきますと、改田家住宅があります。
主屋は大正初期の建築だそうです。周囲を石塀で囲っていました。特に写真に写っている石塀は、特有のデザインだそうです。
さらに、南へ進むと、浜田家住宅(増田屋)がありました。
寛政7年に創業した老舗で、酒造業と質屋を営んでいたそうです。土佐漆喰と水切り瓦、なまこ壁があります。明治36年の建築。
この建物の前の道を少し西に行くと、西尾家住宅 「江戸時代の旅籠屋」があります。
旅籠を営んでいた時に、あの江藤新兵が泊まったそうです。
ここからそろそろ奈半利駅に戻ることにしました。約2時間ぐらい散策したと思います。
駅に戻って昼食をとり、今度はごめんなはり線に乗って、田野、安田を目指したいと考えます。
次回のブログで。
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traveler51
和三郎
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