ウォーキングと旅行でのひとり言

奈良 城下町大和郡山を歩く その3

金魚池を見ながら休憩しているところです。








大和郡山は金魚のふる里と言われています。

郡山で金魚を養殖することが盛んになったのは、この藩の最後の領主の柳澤家と関係が深いのでした。

柳澤吉保の子の吉里が、甲斐の国(山梨県)から大和郡山に国替えとなった時に、持ってきたと伝えられています。



次の地図の黄色の線に沿ってウォーキングをします。





今は、⑤の金魚資料館の付近にいます。


これから、黄色の線に沿って歩いて、「大納言塚」を目指します。


少しの間、西へ向かって歩くと、金魚池の低い場所から、上の道へ上がるようになります。


道へ上がって先を見た風景です。





上から、金魚池を見た風景





ここから、少し、北へ歩きます。


次の目印のポイントの場所に小さな祠がありました。





地図(詳細な方)に祠の記載がありますので、コースはきちんとあっています。


ここから下へ降りる坂になっていて、「永井養魚場」がありました。





わりと間違わずに、順調に歩けています。


ここから目印の少ない、難しい道に入りました。


迷いながら、行ったり来たりして、やっとポイントの家を発見します。





写真では、わかりにくいと思うのですが、塀の瓦の上に鯛を持つ恵比寿がいます。

(地図のFの場所)


ここからも、わかりにくい道です。








やっと、「大納言塚」にきたようです。






この先です。









着きました。(金魚資料館から約25分かかりました。)





前にある四角い石の箱には、願い事をかなえる力があるようです。





説明の掲示板





中のお墓をお参りしました。








秀吉にとっては、彼を支える名補佐役となった、大切な弟だったようです。

天正13年(1585)、郡山藩主(和泉・紀伊・大和におよぶ100万石)となった豊臣秀長は、人柄が温厚で信望も厚い人物でした。

(私も歴史小説を読むのが好きで、特に戦国時代は面白い話が多いです。秀長も好きな人物のひとりでした。)


昔の偉人の墓に参るのも、なにか力をもらえるような気になります。




ここから次の観光ポイントの「永慶寺」を目指します。


もと来た道まで少し戻り、北へ歩きます。


右側に、目印の田北病院を発見しました。





詳細な地図の方に「読売新聞」の記載もあります。(順調に進んでいるようです)






次の風景が地図のGの場所





この煙草屋さんの右の道をまっすぐ進みます。





左側が、永慶寺のような気がしました。


これは、永慶寺の弁天門です。





少し道を先に歩くと、永慶寺山門がありました。





秀長の時代に郡山城の南御門として建築されたものを移築しました。

かっての城門が使われています。

今となっては、郡山城の唯一の遺構です。


中を拝見させていただきました。


石段を上がり、右に鐘楼が見えます。





香厳殿……、柳澤家佛間です。





本堂





永慶寺は、柳澤家の菩提寺……、城下町を代表する寺です。

この本堂のことを、大雄宝殿と呼びました。


本堂の正面には、柳澤吉保の筆による大額が掲げられています。

本堂正面の扉も素敵でした。

桃の衣装でしょうか?……。(写真では、わかりづらいでしょう。)


金魚資料館から約45分経過しています。


ここで少し休ませてもらいました。
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