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竹林舎 唐変木の そばバカ日誌  人生の徒然を

26歳からの夢、山の中でログハウスを建て
 自然の中で蕎麦屋を営みながら暮らす
    頭の中はそばでテンコ盛り

流石の名人も舌を巻く 御先祖様のお陰げ 珍妙な踊り「がに迷う」

2011-09-17 | 「竿忠の寝言」
流石の名人も舌を巻く
或る時三代目の東作さんから「忠さん、是非こゝで振出しの、五本継ぎの竿を間に合わせて貰いたい」「及ばず乍ら、お手伝い致しましょう」と引受けた。五本継ぎの振出しを百本、翌日(あくるひ)直ぐ切組みに行って、三代東作さんの前で切組をした。約二時間内外で百本の切組が済んで家へ持って来た。すると間もなく東作さんが俥を飛ばしてやって来た。「忠さんどうも馬鹿々々敷く、早く切組が済んだが、あれで竿に成るんだか何うだか聴きに来たよ」「アレで確かに竿になります」之れを聴いて東作、安心して帰った。此竿の出来上がった時には流石の三代目東作さんも余んまり早いので驚異の目を見張り、舌を巻いて感心した相だ。父親の貿易当時、腕に覚え込んだ仕事の速い処だ。斯んな仕事に掛けて仕事の速いのでは誰も向う者が無かった。夫れで上手で出来が良いとの定評であったが、芸術的竿になると日限の遅れるのも又有名なもの。

御先祖様のお陰げ 
竿忠は亡父釣音を呼ぶのに御先祖様と称していました。俺が斯うして居られるのも、御先祖様が釣竿師になられたからだ、と口癖に云って居た。三度/\の食事の時に、南無御先祖様戴きますと云う事を死ぬ迄も欠かせませんでした。

珍妙な踊り「がに迷う」
此処は浅草公園の割烹店、一直の大広間、善美を尽くしたお膳に山海の珍味を盛ってズラリッと列んで居る。列席の人々は何れも紋付袴で、改まってはいるが、御一統のの顔は何となく晴れやかにニコ/\として居る。斯う申すと殿方ばかりの様に聞こえるが、ご婦人方も混じって居て、無論袴は穿いていない。余計の無駄口を利くな、イヤ叱り給うな、今日は大正九年の十一月、水本徳次郎さんの御婚礼の御披露宴の席ではないか。左様、左様、然りご尤も様、何にしてもお目出度い席だ。常には出無精の竿忠も、御懇望黙(も)だし難く、晴れの御招待へと出席した。其席には土地一流の美技連中が大勢で、主客の間を取持って居る。祝宴も酣の頃、竿忠一座の方へ進み出て「本日はお日柄も良く、誠にお目出度う御座います。就いては何か御祝儀と存じまして、私が水本氏の十八番「香に迷う」を、虫の蚊に擬(なぞ)らえて踊ります」と身繕いして立ち上がった。何しろ年配の人が踊ると云うので腕っこきの婆さん芸者が、三味線抱えて乗り出した。すると水本さんの御隠居さん、現在は湯ヶ原の隠居、梅園に閑日月を楽しんで居られる方が「忠さんが蚊に譬えて踊るなら、私が蚊に濁りを附けて「がに迷う」を唄いましょう」とサア始まった、チレツンシャン「がにまよう、むめがのぎばのにほいどり、ばなにおゝぜをまずどぜの云々」と全部言葉に濁りを附けて唄った。夫れに連れての竿忠の珍妙な踊り、ヤンヤ、ヤンヤ、之れが竿忠二度目の踊りだ、誠に珍な恰好であった。若い頃黒田伯の前で歓喜の余りに踊ったのが蠅の踊り、今度は蚊の踊り、何だか妙な取合わせだ。この水本さんは竿忠の大の贔屓で、随分高価な竿を数々拵えた。彼の大正十二年の震災の年、白木屋の展覧会へ出品された事があった。実に優美と云うか華麗と申そうか、高尚で立派な竿が数々出来たが、惜しいかな震災で焼失されて了った。此の方は立志伝中に於いても稀れに見る人格者、曽て以前、硬質硝子を発明せられ、理、化、医の各学会方面に、多大なる貢献をせられた。此の発明の動機に就いては頗るデリケートな機会から会得されたもので、浅草公園で噴水の落滴状態(おちるさま)を別段何の考えも無く見て居た際に、繁吹(しぶき)に太陽の光線が反映して、虹が現れた。余人は知らず水本氏には、何か此の大自然の現象の裡に得る何物かがあったか、ハタと手を打って、之れが後の大発明のショックと成って、苦心研究を進められたものであるとの事、我々門外漢の窺い図られぬ事だ。斯の様な方だが趣味も多方面に渉って居られる。又御艶聞の方もお持ち合わせがあるとの噂だが、第一の趣味としては釣りだ。釣師としては海川掛けての名士、斯道に於いても勇将として音に響いて居られる。

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