旧和賀郡一帯に小原姓が増えたのは、武家社会の仕来たりに拠るところも大きいです。
武家社会では、郡惣領職(幕府から承認された郡の支配権者・後の大名)である和賀氏などの地頭家では、一族間での跡目争いを未然に防ぐため、また、本家に恭順する意思を示すため、庶子らは本家と同じ名字を名乗らず、与えられた領地の郷村名などを名字として名乗っていました(小田島氏・本堂氏・煤孫氏・鬼柳氏・岩崎氏・安俵氏・毒澤氏・晴山氏・藤根氏など)。
一方、郡惣領職ではなく、その家臣である小原家は、一部の分家(釜糠氏・赤坂氏・大田氏・落合氏・駒場氏など)を除いて、多くの分家が本家と同じ小原姓を名乗り、本家分家の区別は官職名や家紋の違いなどで行っていました(※釜糠氏・赤坂氏・大田氏・落合氏らは南北朝期に滅亡又は没落したと思われる)。
また、和賀氏の家臣らの殆どが、全ての分家(庶子ら)に与えられるような広い領地を持ち得なかったため、領地を与えられなかった分家(庶子ら)は本家と同じ名字を名乗り、地侍(半農半士)か農業専従(農民)となり、田畑の開発などに従事し、郡内各地へと散らばっていきました。
只、一部の分家の中には婚姻などを通じ、他家に士官した者もいます。
実は、伊達家重臣の小原家は、元は和賀郡にいた小原家で、伊達氏一族との婚姻を通じ伊達氏の家臣となり、小原家の元領地であった刈田郡小原郷を再び与えられた、とする説もあります。