toshinSHINANO's blog

ようこそtoshinSHINANOへ
https://toshin-shinano.com/

中山道22岩村田宿

2020年05月26日 | 「佐久歴史の道」案内人と一緒にweb散策しましょう!
<Topページ>お鍾馗(しょうき)さま
民家の屋根にポツンと屋根瓦のひょうきんなお顔。私の好きな岩村田宿のお宝です。
疫病などの魔除け、願い事成就の神様と言われています。

岩村田は、古くから交通の要衝として栄え、北へ北国街道につながる善光寺道、下仁田道の起点、佐久甲州道の起点がある
鎌倉時代、大井氏の郷として広大な城下町であった時代には、若宮神社の南西周辺にを中心に「民家6,000軒、交易四達し、賑わい国府まされり」といわれ栄えた。また、社寺30など人口2万人を擁した町並であったようである。
さらに、大井氏は、室町時代応永年間(1394~1428)には関東管領となった足利持氏に重用され、繁栄の極みであったと伝えられます。勢いに乗じ、信濃小県・更級・埴科、上州や武州まで領地を拡大をはかった
これに、反感をもった更級・埴科の村上氏は、1484(文明16)年、岩村田に攻め入り一気に民家や寺社を焼き討ちにし、大井氏を滅ぼしてしまいました
なお、大井氏はその後、長久保依田城城主大井貞隆が宗家を継いだ
その後、戦国時代を経て武田信玄により岩村田は寺を中心に再興され、江戸時代に至りました。
宿場の概要

1602(慶長7)年、江戸幕府からの命を使者より受け「中山道岩村田宿」が成立し活動を始めた。

岩村田宿は、江戸日本橋より距離42里2町(約170Km )22番目の宿場になる。
江戸側の小田井宿から1里7町(約4.7km)、京側の塩名田宿までは1里11町(約5.1km)の場所に位置する。
桝形は、江戸側が住吉神社付近、京側が西宮神社のあたりにあった。なお、京側枡形はさらに300m程度、京側に下った若宮神社入り口付近ともいわれる説もある。
岩村田宿は宿場でありながら本陣や脇本陣がなかった。したがって、大名の宿泊が必要な場合については、宿場内の寺社を利用したといわれる。このような宿場は、ほかに高崎宿が同様に本陣・脇本陣がなかった。
岩村田宿は、1843(天保14)年※1の軒数・人数は、18,350件・1,637人、男808女829はほぼ半々であった。

※1 児玉幸多校訂「近世交通資料集 中山道宿村大概帳」による。


<岩村田宿の歴史史跡Map>


主な見どころ案内
龍雲寺

鎌倉時代に地頭の大井氏がここより南の地に龍雲寺を創建、その後、1484(文明16)年の兵火で焼失し、戦国時代に入ると武田家が庇護し荒廃した龍雲寺を再興、北高禅師により、武田信玄、勝頼が帰依し、佐久郡における曹洞宗寺院の中心的存在となって、1572(元亀3)年には信玄上洛の際、必勝祈願の千人法幢が行われた。境内には信玄の亡骸を埋葬したと伝わっており、昭和6年境内の土中から信玄のものと思われる遺骨(分骨)と短刀(島田助宗作)や袈裟環などの副葬品が発見されている。
また、江戸時代には岩田村藩主から庇護され、本陣のなかった岩村田宿の中で、身分の高い人達の宿所や休憩所にもなっていた
普段は締まりっぱなしの山門には正親町天皇の直筆で「東山法窟」の勅額が掲げられている。


円満寺


平安時代に創建。鎌倉時代末期の永禄年間、紀州の僧雄伝が開山、武田信玄が開基となり施無畏堂(観音堂)を建立した。現在のお堂は江戸時代に再興したもので、木造11面観音立像が安置されている。
この寺は真言宗で、明治時代以降は不動明王と中尊大日如来座像が主尊となっている。境内には明治期の国会議員立川運平像や軽井沢の慈善家カナダ宣教師のキャンベル夫妻の供養塔などがある。
また、境内の奥には、藤棚があり、花の時期には地面に届くくらいの見事な花をつけ、「砂ずりの藤」として、知られている。この藤は、戦国時代開祖の興教大師が京都の本山から野田藤を移植したが、江戸時代に焼けたため再移植し、現在は二代目である。


住吉神社

岩村田宿の北の枡形があった場所に近く、ここから岩村田宿が始まる。この神社は、宿場の形態を整えるため室町時代の1469年の文明年間にこの地に祀られた。祭神は、大阪の住吉神社に起神し、社には、庚申塔6基、道祖神20基、石祠(せきし)13基などが合祀されています。また、ここには、神社より南に30mほどの所に善光寺道の道標がありましたが、昭和に入り事故で破損したため、ここに旧道標が移設され、旧道標のあった場所には新たな道標が建てられています。


旧法華堂

天台宗聖護院の信濃触頭で東信地方の本山派修験道の拠点であった。無動窟内陣には不動明王、投行者(えんのぎょうじゃ)東照大権現などが祀られている
屋敷裏には三宝荒神社がり、その横に昭和40年代岩村田本町ビル建設に伴い伊勢屋敷跡にあった神明神社が移築された。
所領者から大井法華堂とも呼ばれ、中世以来岩村田(佐久市岩村田)に住み、京都の本山派(聖護院門跡)からの補任や許容に関する多数の文書を持つ天台修験職の先達家であった。
旧法華堂の所領は、寺院や神社と同様、領主から安堵状が与えられ、天台宗の法華経による33日に及ぶ修行の場などに使われていた。 鎌倉時代から江戸慶長に至る中世重要資料が保存されている。 


西念寺

室町時代末期の創建で、伊勢生まれの岌往上人(きゅうおうしょうにん)が開山、武田信玄の開基。岌往上人は信濃、甲斐などの国に約70か所の寺院を開山している。当初の所在場所は、ここから南西へ1キロほど離れた閻魔大王鵜などを祀る蔦石付近の十王道で浄土宗の布教を行い崇高を集めた。
1560年(永禄3年)に本堂を建立、武田信玄の帰依を受け「一行山西念寺」とした。
<菩提寺>
小諸藩主、仙石秀久(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、秀忠に仕えた)が菩提寺でもある。
岩村田藩五代目の内藤正国の墓石が境内外の南西に祀られている。
<吉澤鶏山(けいざん)墓碑と石碑>
江戸時代中期の学者で、岩村田界隈の歴史的事象をまとめた「四隣譚薮」(しりんたんそう)や特に信濃の山河、村落などを調べた「信陽雑志」(しんようざっし)が知られている。鶏山の屋敷はないが西念寺東に位置するそば店北西楼(ほくせいろう)で吉澤家の屋敷神様を祀っている。
<境内にあるもの>
下仁田道の道標や詩人山室静の墓、岩村田藩士の墓が数多くある。
大イチョウの木は、雌雄和合の木として一枝だけ実のなる枝のある珍しい木である。
また、墓地の南西には、鼻顔稲荷の南に位置する上州道(下仁田道)の道標が移管されている。


若宮八幡宮

小海線踏切を渡りすぐの所に境内の表示石碑がある。境内に入ると木製の両部鳥居が立っており、扁額には「郷社若宮八幡大神」と記されていう。
鳥居から参道を進むと社殿。瓦葺拝殿には「奉幣殿」と書かれた扁額。拝殿の後方には流造の立派な本殿があり、本殿の後方に御神木の欅がある。
右から若宮神社本殿、祇園天王・天満天神宮、正八幡大神・神功皇后社と三つの社が並ぶ
当地の領主大井朝光が源家であったことから鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請した神社だと伝わる
古来、岩村田の産土神であり岩村田藩の崇敬篤く、社伝では1202(建仁2)年、大井朝光の末裔である大井某奉納の懸心額と古鈴がある。
また、この地を治めた大井氏の大井郷2万人の住民を抱えた町並みはこの付近と言われている。
<見どころ>
① 各本殿(3社)屋根の鬼面②石常夜灯(石尊灯篭)③石常夜灯(下仁田道灯篭)④相対道祖神⑤祇園天王(岩村田祇園出発地)


佐久甲州道分け去れ(上:甲州道起点、下:起点の北側町内)

西宮神社の西約30m場所に、中山道から南の山梨県へ延びる佐久甲州道の分け去がある。
佐久甲州道は、野沢宿、臼田宿、高野宿・・・・韮崎宿で江戸から下諏訪へつながる甲州街道に合流する約100kmの街道である。(他の呼名:佐久甲州道、佐久甲州街道、佐久甲州往還など)


上州道起点

西宮神社から岩村田宿を北に約50mの場所に、中山道から群馬県へ延びる上州道の起点がある。本町から稲荷町を通リ、花園町で湯川を渡り、鼻顔稲荷神社の山門前から南へ約100m坂道を上ると分け去れがあり、過去にはここに百番順禮供養塔(ひゃくばんじゅんぽうくようとう:坂東33・秩父34・両国33か所の観音霊場をさす。=現在は西念寺境内に移設)があった。
(他の呼名:下仁田道、下仁田街道など)
このほか、長野県から群馬県へ超える峠は多く、中山道の碓井峠、そしてこの下仁田道の和美峠、その南に富岡街道の内山峠、田口の余地峠などがあり、関所もなかつたことから善光寺参りなどに行く女性が多く使い、信州姫街道、女街道とも呼ばれた。


伊勢屋敷
明治11年頃まで伊勢屋敷と呼ばれる伊勢神宮の出張所のあった場所
屋敷は、伊勢神宮の御師が駐留するための建物や参拝者の宿泊所、土蔵、天照大御神を祀る社など多くの建物があった。
神社の敷地はこの公園と一部南に200mほどの位置にある上州道付近まで、広大な敷地を有していました。
この場所にあったにあった神社、大神宮は、東にある稲荷神社の境内に移築されている。

その後、この土地には長野県の支所や警察などが建てられたが、現在は公園として、いこいの場所となっている。


大井城跡

鎌倉~室町時代にかけての地頭であった大井氏の居城であった石並城、王城と黒岩城を合わせて大井城と呼ぶ
場所は、宿場の東側の河岸段丘に位置し、現在は公園となっている。
王城にある樹齢500年の大けやきは圧巻である。このほかに、十二社、石尊、三峯、御岳の石神が鎮座する。


信濃石

岩村田七石の一つ。2万4千年前の浅間山の大崩壊により、流れついた溶岩石の赤石でまるで庭石のような体で、おさまっている。この付近は地名も「信濃石」という。
<このほかの六石の所在場所>
豆牟礼石(つむれいし):上信越自動車道下の湯川付近にあったが、寛保2年の戌の満水の際に3つに砕けたという。
勝田石:現在のイオンモール付近
夫婦石:柳堂、現子供未来館付近
蔦石:岩村田高校の東側
赤石:住吉町付近、一部は龍雲寺の石碑の台座に使われている。
鞍掛石:宿場西より、1kmの砂田地籍にあった。一部は、浅間中学校の庭石になっている。


鼻顔稲荷神社

日本の五大稲荷(京都伏見、愛知豊川、佐賀祐徳、茨城笠間)の一に数えられ、1558年室町時代の永禄年間に商売繁盛を願い、京都伏見稲荷から勘請され、この地名の花園から神社の名前が付いたとされる。
神社は、天照大御神が天界の使いとして、白キツネに稲穂を担がせたことにより、稲荷神社として現在でも油揚げを奉納する。
祭神は、宇迦及御魂命(うかのみのみこと:生産、五穀豊穣)、猿田彦命(道祖神、交通安全)、大宮能麻売大神(おおみやのめのおおかみ:市場の神)で、明治、大正、昭和と養蚕の神様として繁栄した。
神社の岡の上には、明治に稲荷町の中央公園から移設された天照大御神を祀る大神宮がある。
また、荻原井泉水、山室静や種田山頭火の句碑などの多数の碑がある。


相生の松

かつて、宿場の西、若宮神社から500mほどの場所に長塚と呼ばれ丘地形がありました。(現在、浅間総合病院の一部)
赤松と黒松が双生の珍しい松があり、夫婦の絆や共に育つなど縁起が良いということから「相生の松」呼ばれた。(赤松の別名をメマツ、黒松をオマツとも言った。)
皇女、和宮が14代将軍家茂の正室として降嫁の際に、岩村田藩の内藤志摩守のはからいで、この場所で野点をして休憩をした。
現在の松は四代目であるが、昭和40年に一代目の松が枯れ、切り株から約200年以上前の松といわれ、和宮が野点をした頃は、この一代目の松の下で休憩したのではないでしょうか。


藤ヶ城(岩村田城)

六代藩主内藤正縄(老中水野忠邦の弟)の時代、伏見奉行職から城主格となり宿場の東南、上ノ城地籍に七代正誠が1861(文久元)年に築城を開始、延べ人員255,000人、工費2万両あまりで4年後の1864年に本丸御殿を棟上げしてた。城の規模は、敷地約30,000坪、本丸御殿、城門10、特に櫓門は小諸城表門の倍第と評され(この櫓門を城の象徴としたようで、鯱を載せている)。
城の防御は南東を湯川の湿地で、西方に水堀を設け、各城門付近には枡形の防御を施し、城内の四隅には櫓(未完成)を、北の桜門と太鼓楼付近の場内で一番高い場所に天守閣を計画したが、藩籍奉還で、築城は中断され完成をみなかった


京側枡形より、宿場を見る



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。