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小田井城址の解説

2019年07月18日 | 歴史の道/中山道

小田井宿の深い谷を挟んだ東側に小田井城跡があります 。今は、高原野菜の畑と なっていますが、広さはおよそ 20ヘクタール。空堀の跡が所々に残っています。入り口は W の形をした堀で、三方は、田切と呼ばれる U 字溝のような 深い谷で囲まれており、堅固なお城でした。

武田信玄の再三の降伏勧告に応じなかった城主 小田井又六郎 でしたが、1543(天文12)年暮れ信玄と正月休戦に合意し、年越しの準備をし、緊張から解放され美酒に酔ったところを武田軍に急襲され落城となり城主は討死。女性とこどもは、抜け穴を通って十二の杜へ逃げたそうです。

武田信玄によって落とされた小田井城ですが、築城からわずか23年しか経っていませんでした 。 女性子供が逃げた抜け穴は「くぐり岩」と言って、その痕跡が 、深い谷の壁に今も残されています。 小田井原の戦いは、それから 3年後のことでした。

小田井城が落ちても、志賀城は交戦し続けました。上野からの援軍も、小田井原で足止めさせられ動けません。その援軍と小田井城の残党を武田軍は挟み撃ちし、武将14~15人、兵隊三千を 打ち取ったといいます。武田軍は、その首を志賀城の周りに並べました。

志賀城は山城です。武田軍に水の手を押えられ、飲まず食わずかで援軍の来るのを信じて戦った兵士たちも、援軍が打ち取られたことを知ると、一気に士気も下がり落城しました。それを知った佐久の諸城は、戦わずして武田の軍門に下りました。武田氏の支配はそれから30余年続きました。

1582(天正9)年、武田氏が滅亡します。そして、この辺りは織田氏の支配下にはいります。同年、今度は織田氏が本能寺の変で亡くなります。織田軍あわててこの地を去ります。支配者のいなくなった、まさに戦国の動乱期。上杉、徳川、北条により争奪戦の場となります。

 このような状況下で、小田井城は北条軍の拠点となります。北条軍の支配下になった小田井城に市村弾正が入りました。

弾正は信玄に落とされた小田井又六郎の息子で、遠江渥美郡市村に身を寄せて、市村弾正と名乗り谷地城(竜神公園西隣)に小さな城を作り復興の機会を待っていた。この動乱期に北条につき小田井城にもどることができました。

1582(天正9)年、德川方の依田信蕃によって、小田井城にあった市村弾正が攻め滅ぼされます。弾正は谷地城で蟄居となり、そこで生涯を終え、東に葬られました。
明治のころは、公園があったそうですが、個人の所有地となり、塚はなくなりました。昭和になって「弾正塚」の石碑が建てられました。

 依田信蕃は、次々に佐久の城をおとしていきます。佐久は初めて統一され、小田井城その他の城は、廃城となります。1588(天正9)年、小諸城主によって、小田井の町割りがなされます。そして、付近の集落から人々を集め宿場を作ります。上小田井から長倉神社、宝珠院を移し、宿場の形が整いました

 廃城から430余年たった小田井城跡ですが、字城の内となり高原野菜の畑となっています。

空堀やスリバチ井戸跡らしきクボミ、くぐり岩の田切の壁に空いた穴などが今も見られます。

(佐久歴史の道案内人の会:羽毛田幹事著)



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