勃ちあがった象の白い涙の物語

ロックンロールにゃ老だけど死ぬにはチョイと若すぎる

反原発について考える

2012-08-04 12:04:16 | 社会
(本文と写真との間には、何の関係もありませんし、何の意味もありません)

原発が危険だからといって、それだけで反原発を訴える人間を、私は信用できない。

考えるまでも無く、人間が発明してきた利器で、絶対的に安全なモノなんてない。
身近なモノで例を考えるならば、たとえば自動車なんかは、短い時間で手軽に遠くまで移動をさせてくれる非常に便利なモノだが、走っている自動車にぶつかれば、少なくとも怪我をするし、ひどい場合は、死ぬ。衝突まで極端なことを考えなくても、自動車の排ガスは、知らぬ間に私たちの身体を蝕んでいる。もっと身近で安全だと思えるテレビだって、長時間、画面の近くで見続ければ、視力が落ちてくるし、その番組の内容によっては、人によっては発作を起こす可能性さえあるのだ。

ただ、我々は、そういう危険なモノを使いこなすのに、ルールというのを設けて、少しでも安全に使用としている。誰もが完璧に交通ルールを守れば、事故による危険性は、極端に低くなるし、知恵をしぼった改良、改善によって、その排ガスの身体への悪影響を低くすることができる。適切な距離や環境を整えることで、テレビにいたっては、限りなく安全な利器として使用することが出来る。

私は、そういうモノと発明と、同時に使用するにあたっての規制やルールを設けて、それを守る社会を維持することこそが、文明や文化というものなんじゃないかと思っている。


確かに原発は危険である。考えれば、原発というものは、元々が原爆という大量破壊兵器の原理を用いて、発電しようとするものなのである。軍事技術の延長線上のモノである限り、どう考えても安全なわけがない。だいたいが、安全な大量破壊兵器なんて、そんな矛盾したモノが存在するわけが無いであろう。

しかし、だからこそ慎重に、ルールや規制を設けて、その危険なモノを安全に運用しようとするのが、文明であり文化ではないのか。
この文明や文化という工夫があるからこそ、人間は、ただの動物の一種から飛び出した存在でいられるんじゃないのか。

こういったことを考えず、ただ、原発が危険だからといった理由だけで、反原発を訴える人間は、何か考えが足りないように思えて仕方ない。

しかし、日本の今の現状を考えたとき、やはり、反原発を叫ばすにはいられない。
それは、その原発を安全に運用するための規制やルールを設けなければならないはずの電力会社や規制委員会といった公的機関が、実は、そういう工夫を、まったく考えていないからだ。