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徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも③・頼もしき陣容2~

2019-07-18 05:00:00 | 日記
当時、サイパン島に所在する陸軍部隊としては、次のような部隊が数えられた。
まず陸軍の守備部隊をあげる。
第43師団(斉藤義次中将)を主とした三コ連隊(愛知、岐阜、三重にて編成)独立混成第47旅団、戦車第9連隊、独立山砲第3連隊、独立工兵第7連隊、約2万5千名の兵力が北部、中部および南部に配置され、戦闘準備態勢をとっていた。

つぎに海軍部隊ーーー
中部太平洋方面艦隊司令部(南雲忠一中将)、第6艦隊司令部(高木武雄中将)、第5根拠地隊(辻村武久中将)、第55警備隊(高島三治大佐)、横須賀第一特別陸戦隊(唐島辰男中佐)その他で約6千名が、ガラパン地区、タナバク水上基地およびアスリート飛行場付近に駐留していた。

261空の所属する第一航空艦隊の第61航空戦隊は、当時マリアナ地区の基地航空隊として、定数750機、実働約370機を保有していた。
サイパン島アスリート飛行場には、261空(虎)上田猛虎中佐、343空(隼)竹中正雄中佐、523空(鷹)和田鉄二郎中佐、1021空(鳩)栗野原仁志大佐、その他で約100機が配備されていた。

またテニアン、ロタ、グアムの各地には121空(雉)岩尾正次中佐、263空(豹)玉井浅一中佐、521空(鵬)亀井凱旋夫大佐、761空(龍)松本真実中佐、321空(梟)久保徳太郎中佐、341空(獅子)岡村基晴大佐、その他で二百数十機が配備され、常に戦闘態勢をとっていた。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも③・頼もしき陣容1~

2019-07-17 05:00:00 | 日記
サイパン島は、東京より南南東2400キロ、北緯16度、東経145度の地点にあり、マリアナ諸島の中でグアム島についで大きな島である。
南北23.2キロ、東西10.4キロ、面積119平方キロメートル。島の中央にタポーチョ山(標高490メートル)があり、周辺は丘陵地帯が多い。

海辺は、東側は砂浜と一部に断崖、西側は珊瑚礁に囲まれた砂浜に熱帯樹のジャングルになっており、南端には、東西に滑走路を持つアスリート飛行場がある。
北端は険しい断崖で、そこから約500メートルの所にバナデル第二飛行場が設営中で、約80%出来上がっていた。

当時丘陵地と平地の大部分は、南洋開発株式会社の甘蔗畑(サトウキビ)となっていて緑が多く、西岸中央のガラパン市には、南洋市庁と南陽興発の製糖工場があり、民間人およびチャモロ系ミクロネシア島民(4000人)、計約2万人が在留していた。

気温は最高32度~最低20度くらいで、きわめて快適であるが、島内には川がなく、湖は西側にススッペ湖という泥水の小さな沼があるのみであった。
北部の山中には、ドンニイという所に水源地と呼ぶにはあまりにも小さい湧水地が一ヶ所あったが、飲料水、その他に使用する水はすべて雨水でまかなっていた。
ほとんど毎日おとずれるスコールの雨水を、トタン屋根からトイで貯水槽にひきこみ、それを使用していた。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも②・猛虎の俊翼2~

2019-07-16 05:00:00 | 日記
私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)と同じ日の午前に着任した北川歯科中尉は、私より一期前の昭和17年卒の元山組で現役の海軍士官であった。
やや小柄ながら、言動がはっきりした活発な人だった。
歯科医といえども、応急の場合の負傷者にたいする救急医療は心得ておくべきであるとの信念で、彼は応急処置の本をよく読んでいた。

当日飛行場には、機種様々の最新鋭機数十機が翼をつらね、激しい訓練を重ねていた。
次から次へと発進離陸する機体と、遠くの空から編隊をといて一機また一機と着陸するものとが相重なり、目まぐるしいまでであった。

以前からサイパン島には、海軍航空隊の基地があり、また陸軍も、堅固なる要塞、陣地をきずき、関東軍より選抜された強力なる守備隊が、配属されていることはしっていた。
また、それ故こそ、近い将来に、内南洋群島付近が一大決戦海域となり、それは同時に米陸海軍上陸部隊と、機動部隊の補給線ののびきった所で、日本軍が大反撃する絶好の機会になるであろうと、自分なりに希望的戦略を描いていたものだが、現実にこの力強い航空隊を目の当たりにして見ると、誠に心はずむ思いであった。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも②・猛虎の俊翼1~

2019-07-12 05:00:00 | 日記
4月24日の朝、船はようやくサイパン島ガラパンに入港した。私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)は同期生10名とともに内火艇に乗り移り、港の岸壁に接岸し島に上陸した。

亜熱帯ではあるが、空は一点の雲もなくすみわたり、海底の珊瑚礁は緑翠色の透明な水をとうしてきらめいている。
半袖、半ズボンの防暑服を着用している私に、微風が実に心地よかった。
島の上空では、零戦、彗星、銀河、月光などの最新鋭機がさかんに訓練飛行を行っている。

私は港の岸壁で、261空の軍医長である岡本新一軍医大尉に迎えられ、乗用車で島の南端にあるアスリート飛行場近くの宿舎に入った。
岡本新一軍医長は、身長170センチ、体重70キロ位の恰幅のいい人で、濃いモダンなサングラスをかけ、鼻下にコールマン髭をたくわえられ、戦闘帽はうしろに布をたらし、一見したところフランス映画で見た外人部隊の指揮官のような感じを受けた。

ただちに三種軍装に着替えた私は、その日の午前中に着任していた北川歯科医中尉とともに、アスリート飛行場の戦闘指揮所に261空司令、上田猛虎中佐を尋ね、着任の挨拶と報告をすませると、ついで生まれて初めて壇上にのぼり、集合した261空隊員約150名に着任の挨拶をした。
さすがに私も興奮を覚え、カチカチに硬くなっていたようだ。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

父・井手次郎~精強261空”虎部隊”サイパンに死すとも①・氷川丸船上その3~

2019-07-11 05:00:00 | 日記
4月22日、出港後二日目。
私(父井手次郎の手記を基にしているので、以下「私」の記載は父井手次郎を指す。)は氷川丸の外科主任、寺沢軍医少佐の室に呼ばれて、「261空は、マリアナ諸島方面の61航空戦隊の基地戦闘部隊であるから、サイパン島で下船するように」と指示を受けた。

やはり内南洋群島のサイパン島であったか。
これまでの任地に対する不安定な心理が一気に霧散し、はればれとした気持ちになった。
その夜、私たちは全員防暑服に着替えた。

船はマリアナ諸島最北端の活火山、ウラカス島の赤く染まった噴煙を左舷に見て、一路南下する。
椰子と南洋熱帯植物におおわれた、大小数個の島々に沿って、さらに航海は二日続いた。

《 先日たまたまテレビで横浜にて行われたトライアスロン競技を見ていたが、はじめの水泳の時に画面に氷川丸が映っていた。ああ・・・父が戦地に乗っていた船だと思い何となく哀愁を覚えた。昔は純白の船体だったようだが、外見はすっかり変わっていた。 》

徳川おてんば姫(東京キララ社)