春が近づいてきた。
能登の大地震は痛ましい。
しかし、こんなときに、周りは人事で、ごますり体制に入っている。
能登の大地震は痛ましい。
今は、みな、中世の修道院のように、身体を隠すべきだ。
無心に復興にあたっている人。
祈りの姿。
災害国、日本は、昔から助け合いを生み出してきた。
しかし、現在の姿、個人、経済、教育戦争。
対立だけの世界。
人生の目的が対立だという世界。
あらゆる個別の事に共通なのは対立、つまり敵対する相手の存在が前提である。
相手なくして自分はない。
むき出しの戦争ではなかったのが、いまでは、むき出しの戦争。
笑いながら、刃で刺す。
むき出しの怒りと、言葉による脅迫。
組織という牢獄の中で逃げる場所はない。
悪貨は良貨を駆逐する。
例えば、ある組織がある。
理解のある人達が組合をつくる。
すると、意地の悪い、出世主義者が、孤立する管理職をとりまき、あいつは赤だと言って、有利な餌を求める。
そこには、知性も思いやりもなく、ただ、野卑で低俗な対立主義があるだけだ。
自己をむき出しにした、そのための手段としての対立。
みにくい心の身体がむき出しになってあらわれる。
みにくい心の身体が、むき出しになって空虚の回りに集まる。
そして、思いやりのために集まった祈りの姿の人々は、その身体の抹消まで脅かされる。
現代は、思いやりという祈りの姿すら絶滅していこうという時代だ。
けれども、おびやかす集団は、対立を本性とする私利私欲の亡霊で、これが空虚を動かし、私利私欲を達成しようとする。
だから、祈りの姿は、弱いが、対立を本性とする亡霊のように空虚ではない。
そして、そもそも、残るのは、空虚ではなく、
道端に咲く花をときとして咲かせる草。
石の中に生きる草。
複雑な空虚は、空に消える。
残るのは、ただ単純な石ころ、草。