十勝の活性化を考える会

     
 勉強会や講演会を開催し十勝の歴史及び現状などを学ぶことを通じて十勝の課題とその解決策を議論しましょう

モンスター

2020-03-25 05:00:00 | 投稿

令和2318日付け「北海道新聞」の卓上四季欄に、以下の記事が載っていた。

 

『仲間と2人で悪事を働いた男が、山分けした金を元手に商売を始めた。事業が軌道に乗り、社会的地位を築くと、過去の犯罪をおびえるようになる。自分の成功を聞きつけた共犯者がゆすりに来ないか。悩んだ末。相手の消息を調べるのだが・・・。

 

松本清張の短編「共犯者」は、疑心暗鬼から身を滅ぼす男を描いた。共犯者はいつしか脅迫者に変わっていく━━

 

推理小説では、おなじみの展開だ。関西電力役員らの金品受領問題を調べた第三者委員会の報告書は、福井県高浜町の元助役を、原発の不透明な地元対策を利用し、次第に共犯関係の泥沼にはまる過程を明らかにした。元助役は金品を送り、見返りに関係する企業への発注を要求する。

 

関電側は、弱みを握られた顔役に対し、金品をきっぱり返せない。受け取ってしまったことで、泥沼からもはや抜け出せなくなる。共犯者は脅迫者になりやがて制御不能な「モンスター」に変貌した。

 

ところが、事実は小説よりもえげつない。関電役員の中には、もと助役の金品にかけられた税金を会社に肩代わりしてもらった者もいる。多数の役員が赤字でカットしていたはずの報酬を、後でこっそり受けとっていたことも分かった。

 

あたかもモンスターの被害者のような顔をして、会社を私物化し、むさぼり食う。強欲な怪物ぶりは五十歩百歩だろう。元をたどれば、これらは全て電気料金である。』

 

この記事を読んで、すぐに森友事件を思い出した。森友事件では、元国税庁長官佐川宣寿氏が、文書捏造について「文書の捏造はなかった」と証言した。

 

しかし、近畿財務局の職員であった赤木俊夫氏(享年54歳)が、この公文書の捏造について、「命、大切な命、何という無責任な組織だ」という遺書を残して天国に旅立っている。何という悲しい事件だろう。こんな組織にいなくて本当に良かったと思っている。

「十勝の活性化を考える会」会員

 

注) 怪物(モンスター)

 

正体のわからない、不気味な生き物。
性質・行動・力量などが人並外れた人物。「政界の怪物」

(出典:コトババンク)

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新型コロナウイルスと人類

2020-03-23 05:00:00 | 投稿

 

新型コロナウイルスが感染拡大して世界中を震撼させ、不況の懸念から株式市場の暴落が止まらず、一刻も早い収束を願わずにはいられない。

 

急遽、トランプ大統領の呼びかけで、G7の首脳がテレビ会議を行ない、新型コロナウイルスへの対応・連携、予測される同時不況の克服に向けて議論された。東京オリンピックについても、時期は未定だが「完全実施」が合意されたようだ。

 

ただ、今回のパンデミックで人々の価値観が変わり、多くの人が夢や希望を持つことができる社会になり、人類の転機や進歩になってほしい。

 

「十勝の活性化を考える会」の会員が、令和2317日付けブログに、このパンデミックについて投稿しているが、その発生は、人間自身が起こしたのが原因だと思われてならない。

 

なぜならパンデミックが起きた原因は、人間が必要以上に利潤を追求し、我欲に捉われてきたからではないだろうか。私は環境問題に関連して、「十勝の活性化を考える会」のブログに、次のように書いた。

 

【茹でガエルとは・・】

友人が台風や地球温暖化に関連して、日本人のことを「茹でガエル」と言っていた。茹でガエルとは、水の中に入ったカエルが少しずつ水温を上げていくと、いい気持ちで死んでいくカエルのことである。

 

確かに最近、関東を直撃した台風19号や地球温暖化を思うと、友人が日本人にことを茹でガエルと比喩したことは、当たっていると思う。

 

なぜなら、台風が北海道をめざして上陸したことは一度もなかった。雨が多量に降って広範囲にわたって川がいっきに氾濫することも無かったし、2年前の桜の花が咲く5月に十勝の最高気温が38.8度にもなったことも無かった。

 

だから、今の気象は異常気象に思われるが、これが常態化する可能性もありえる。地球温暖化の原因の多くは、人間自身が作ったものだと思っている。

 

また、財務省にいた方が、脳出血で倒れたことを「十勝の活性化を考える会」ブログに、「我欲とは・・」の題で投稿されていた。

この文章は人間の役割のことを書いていますが、今こそ役割を発揮する時がきたように思います。

 

 

【我欲とは・・・】

「官僚」になるとほとんどの人は、事務次官を目指します。良い官僚とは、国益より省益を重んじる人です。私は脳出血で倒れて、行政庁でキャリアを積めず退官しましたが、一般企業に移ってから社会人として何が一番大切かを知ることが出来ました。

そして倒れてからは、自分が一人で生きていけないことを痛感し今の自分があります。大学や色々なところで講演していますが、「出会い」と「変容」、即ち新しい自分に成長することで、生きる糧を得ました。名誉欲を捨てた人ほど強いということです。私は「名誉欲」だけでなく、仏教でいう「我欲」を捨てることにより、本当の自分が見えて来ました。

そこから自分がしたいこと、障害があるからこそ果たせる役割を発見出来たと思っています。障害の有無に係らず、自分がしたいことをやれることは幸せなことです。

 

「十勝の活性化を考える会」会員

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ウォール街の大暴落

2020-03-22 05:00:00 | 投稿

 

新型コロナウイルスが感染拡大して、世界中を震撼させており、一刻も早い収束を願わずにはいられない。これにより1929年の起こったウォール街の大暴落のようなことが再来すれば、価値観が変わるかも知れない。

 

なぜなら、「たったの62人」の大富豪が全人類の半分、すなわち36億人と同額の資産を持つ、あまりにも異常な世界の現実だからである。世界経済に不穏な影が差し始めた今、この国際貧困支援NGO「オックスファム」の報告が、各国に衝撃を与えている。

出所:2016.2.24.号、「週刊現代」より)

 

日本の国債残高は千兆円を超えており、先進国の中では突出している。その解決の糸口が見いだせない状況で、その国債は大半を日本銀行が保有し、国による株式運用の大幅な減価も見込まれ、あらゆる分野で深刻な影響を生じており、国のデフォルトの可能性も考えておく必要があるかもしれない。

 

ただ、今回のパンデミックにより、これまでの反省をもとに、再スタートがきられ、より多くの人が夢や希望を持つこと出来るならば、それも人類にとっての一つ転機になるかもしれない。人々が幸せになれば良いのだが、人間は同じ境遇に置かれなければ、その人の気持ちは分からないものである。

 

「十勝の活性化を考える会」会員

 

注)ウォール街の大暴落

ウォール街の大暴落は、1929年に発生した株価大暴落である。単に株価大暴落(Stock Market Crash)、大暴落(Great Crash)ともいう。ペコラ委員会によって原因が調査された。一般には世界恐慌のきっかけとされている。

[概説]

最初の暴落は1929年10月24日木曜日)に起こったが、壊滅的な下落は28日月曜日)と同29日火曜日)に起こり、アメリカ合衆国と世界に広がる前例のない、また長期にわたる経済不況の警鐘と始まりに急展した。株価大暴落は1か月間続いた。

経済学者や歴史家達は、この株価大暴落が、その後の経済、社会および政治の出来事にどのような役割を演じたかについて意見の一致をみていない。

エコノミスト』誌は1998年の記事で、「手短に言えば、世界恐慌は株価大暴落とともに始まったのではない」と主張した。さらに大暴落の当時に、世界恐慌が始まったのかどうかは明らかではない。1929年11月23日、『エコノミスト』誌は、「大変深刻な株価大暴落が工業生産の大半が健全でありバランスが取れていたときに工業に深刻な後退を生むだろうか?……専門家は、いくらかの後退はあったに違いないが、それが長引くものか、全体的産業不況を生み出す期間まで続く必要があったかを証明する十分な証拠がないことに同意している」と問いかけた。

しかし、『エコノミスト」』は、「いくつかの銀行は疑いもなく破綻し、また今後も予測されている。このような状況下で、銀行は商業と産業の資金を繋ぐ余力があるだろうか?ないだろうか?銀行の位置づけは疑いもなくこの状況下のキーであり、何が起ころうとしているかは霧が晴れるまで適切に評価できるはずがない」とも警告した。

1929年10月の大暴落は、アメリカ合衆国における不動産価格の低落時期(ピークは1925年だった)に来ており、工業化諸国における経済後退時期である世界恐慌に導く一連の出来事の始まりに近いときであった。

[大暴落以前]

大崩壊の当時、ニューヨーク市は世界有数の大都市で、そのウォール街は世界をリードする金融センターの一つになっていた。ニューヨーク証券取引所は世界でも最大級の株式取引所だった。

大暴落に先立つ10年間、すなわち狂騒の20年代は、都市における富と過剰の時代であり、投機の危険性について警告があったが、多くの者は市場が高い価格水準を維持できるものと信じていた。1920年代半ばから上昇を続けたダウ工業株平均は、1928年から1929年にかけて急速に上昇し、アメリカの一部に株投資ブームを起こしていた。1929年の夏以降には工業指標は下向きはじめ、株高を危ぶむ声もあったものの、ウォール街や経済学者の中にはこれを一蹴する意見もあった。大暴落の直前、経済学者アーヴィング・フィッシャーは、「株価は、恒久的に高い高原のようなものに到達した」という有名な予言を行っていた。

しかし、大きな強気相場の中での楽観論と金融上の利益は、ニューヨーク証券取引所の株価が崩落したブラックサーズデーに雲散霧消した。この日に落ちた株価はさらにまるまる1か月間前例のない率で落ち続けた。

ブラックチューズデーまでの数日間、市場は非常に不安定だった。売り先行と大量取引の間に短時間価格上昇と快復の期間がちりばめられた。経済学者で著作家のジュード・ワニスキーはのちに、当時アメリカ合衆国議会で論じられていたスムート・ホーリー法の成立見込みとこれらの変動を関連づけた。

大暴落後、ダウ工業株平均1930年初期に回復したが、反転して再度暴落し、1932年の大きな下げ相場の中で最安値に達した。1932年7月8日、ダウ工業株平均は20世紀始まって以来の最安値となり、1954年11月23日まで1929年の水準まで戻ることはなかった。

1929年央に株を購入し持ち続けていた者は誰でも、株価が回復するまでにその成人してからの人生の大半を費やすことになった。 — リチャード・M・サルスマン

[経過]

ダウ工業株平均は6年間上がり続けて当初の5倍になり、1929年9月3日に最高値381.17をつけたあとで、市場は1か月間急降下し、下がり初めから見れば17%下落した。

株価はその後の1週間以上にわたって下げ幅の半分を回復したが、その直後にまた下落するだけだった。下げ基調は加速し、大暴落初日となった1929年10月24日の、いわゆるブラックサーズデーを迎えた。その日は当時の記録破りとなる1,290万株が取引された。

同日(24日)13時、ウォール街の幾人かの指導的銀行家が取引所での恐慌と混乱に対する解決策を見つけるために落ち合った。この会合にはモルガン銀行の頭取代行トマス・W・ラモン、チェイス国定銀行頭取のアルバート・ウィギン、および国定ニューヨーク・シティバンク社長のチャールズ・E・ミッチェルが出ていた。彼らは取引所の副会頭リチャード・ホイットニーを彼らのために働く者として選出した。

ホイットニーはその背後に控えた銀行家たちの財務力をもとに、市場価格よりもかなり高い価格でUSスチール株を大量に購入する注文を出した。トレーダーたちが見守る中で、ホイットニーは続いてほかのブルーチップ(優良株)銘柄に同じような買い注文を出した。この操作は1907年の恐慌を終わらせた戦術に類似しており、その日の崩落を止めることに成功した。

しかし、このときに一息ついたものの一時的なものに過ぎなかった。 市場が休みの週末、ウォール街のパニックがアメリカ合衆国中の新聞で報道された。週明けの28日(月曜日)、最初の「ブラックマンデー」にはより多くの投資家が市場から引き上げ、その日のダウ工業株平均は13%下落するという記録的なものになり、再び大規模な株価崩壊が起こった。

翌29日(火曜日)、壊滅的な株価崩壊が起こった「ブラックチューズデー」には約1,600万株が取引された。この日の取引高は1968年に破られるまで40年間近くも最高記録となっていた。

著作家のリチャード・M・サルスマンは、ハーバート・フーヴァー大統領が懸案のスムート・ホーリー関税法案に拒否権を発動しないという噂が飛び交っており29日に株価はさらに暴落したと記した。ゼネラルモーターズの創業者ウィリアム・C・デュラントは、ロックフェラー家の家族やほかの金融界の巨人たちと一緒になって、大衆に市場における彼らの自信を示すために大量の株式を買い支えたが、その努力も崩壊を止めることはできなかった。その日にダウ工業株平均はさらに12%下落した

市場はその日だけで140億ドルを失い、1週間の損失は300億ドルとなった。これは連邦政府年間予算の10倍以上に相当し、第一次世界大戦でアメリカ合衆国が消費した金よりもはるかに多いものだった。

ダウ・ジョーンズ工業株平均

日付

下げ幅

下落率

終値

1929年10月28日

-38.33

-12.82

260.64

192910月29日

-30.57

-11.73

230.07

一時的な底値は11月13日のことであり、ダウ工業株平均は198.60で終わった。市場はこの時点から数か月間回復し、1930年4月17日には294.07という2番目の高値をつけた(いわゆるデッド・キャット・バウンス)。市場は1931年4月に着実に下げ始め、1932年7月8日にダウ工業株平均が41.22をつけるまで止まらず、最高値と比べると89%の下落という衝撃的なものになった。これは19世紀に市場が始まって以来の最安値だった。

[経済指標]

1920年代後半に続いた投機ブームは数十万人のアメリカ人が株式市場に重点的に投資することに繋がり、少なからぬ者は株を買うために借金までするという状況下で市場崩壊が起こった。

 

上がり続ける株価がより多くの人々に投資を促すことになり、人々は株価がさらに上がることを期待した。投機によってさらに株価上昇を加速させ、バブル経済を作り出した。スタンダード・アンド・プアーズ評価株の平均株価収益率は1929年9月で32.6であり、明らかに歴史的な標準より高かった。経済専門家の大半はこの出来事を近代経済史の中でもっとも劇的なことと見ていた。

1929年10月24日(ダウ工業株平均は9月3日に最高値381.17をつけたばかりだった)、市場はついに崩壊し、恐慌的な売りが始まった。1931年、アメリカ合衆国上院にペコラ委員会が創設され、崩壊の原因を調査することになった。アメリカ合衆国議会は1933年グラス・スティーガル法を成立させ、預金と貸付を取り扱う商業銀行と、株式債券など有価証券の引受、発行および配布を行う投資銀行との分離を決めた。

1929年の大暴落を教訓として、世界中の株式市場は急速な下落の際には一時的に取引を停止する手段を決め、1929年のときのような恐慌的売却を防止すると主張した。

しかし、半世紀後の1987年10月19日ブラックマンデーでは、1日だけの暴落ではあったが1929年の大暴落よりはるかに大きな株価暴落となり、ダウ工業株平均は22.6%下落した(市場はこのあと急速に回復し、わずか2日後には1933年以来となる1日での上昇幅を記録している)。

[大暴落は大恐慌に影響したか]

1929年の大暴落と世界恐慌は、20世紀の「最大の財政危機」だったといえる。

1929年10月の恐慌はその後の10年間世界を包んだ景気後退の象徴として機能した。1929年の株価大暴落は不安定な方向感覚の喪失とない合わさった恐怖を起こしたが、その衝撃は否定する心とともに急速に麻痺し、役人も大衆も妄想を抱いた」

1929年10月24日と29日の株価暴落は、日本を除きすべての金融市場で事実上瞬間的なものだった。ウォール街の大暴落はアメリカ合衆国と世界の経済に大きな衝撃を与え、その直後から現在まで歴史学、経済学および政治学の分野で激しい論争の種となってきた。

持ち株会社による悪用が1929年のウォール街の大暴落とそれに続く世界恐慌に繋がったと考える人々がいる。多くの人々は株式市場というリスクあるものに投資することにあまりに熱心だった商業銀行の崩壊を非難してきた。

大きな問題は1929年の大暴落が世界恐慌を引き起こしたのか、あるいは信用取引が加速したバブル経済の破綻と単に時期が一致しただけか、ということである。株価の下落は倒産や、事業閉鎖、労働者の首切りなど経済不況となることを含み、厳しいマクロ経済的困難さを引き起こした。

その結果として起こった失業率の上昇や不況は大暴落の直接の結果であるとみられているが、不況に繋がった単一の出来事では決してない。そのあとに起きた出来事に最大級の影響を与えたと見られるのが通常である。それゆえに、ウォール街の大暴落は世界恐慌を始めさせた経済の下降線を報せるものとして広く認められている。

多くの学会人は1929年の大暴落を一時的活況の新しい理論の一部である歴史プロセスの部分として見ている。ヨーゼフ・シュンペーターニコライ・コンドラチエフなどの経済学者によれば、この大暴落は単に景気循環と呼ばれる継続するプロセスで起こったひとつの歴史的事件に過ぎないとしている。大暴落の影響は単に景気循環が次のレベルに進行する速度を速めたのだと述べている。

一方、ミルトン・フリードマンはアンナ・シュワルツとの共著『アメリカ合衆国の金融史』で、「大不況」を深刻にしたのは景気循環の下降線、保護貿易主義あるいは1929年の株価大暴落ではなかったという主張を行っている。その代わりに国を深刻な不況に陥れたのは、1930年から1933年に続いた3波の恐慌の間に起きた金融システムの崩壊だった、と主張している[32]

出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)

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チコちゃんに叱られる

2020-03-21 05:00:00 | 投稿

先日、帯広市高齢者福祉課の方から、「あなたは、どのような過ごし方を望んでいるのか?」と言われてハッとした。私の特徴は、次のとおりである。

 

  • 69歳であること
  • 脳血管性認知症であること
  • 物事を忘れやすいこと
  • 趣味が、囲碁とガーデニングであること 

 

人生、100年時代と言われ、年齢を考慮すればまだ約30年もあるが、チコちゃんに叱られるの言葉ではないが、「ボーッと生きてんじゃねーよ!」である。

 

また先日、上田紀行東京工業大学教授の生きる意味の探し方と題する講演を聞いてきたが、「生きる意味の探し方」と「ボーッと生きてんじゃねーよ!」の言葉は、同じことを言っているように思う。

 

すなわち、「人間はみんな役割を持っているから、その役割を果たすように生きなさい」ということである。私には、上述した4点の特徴が持っているから、その特徴を活かして生きていこう。

 

「十勝の活性化を考える会」会員

 

 

注) チコちゃんの叱られる!のバラエティ番組

 

『チコちゃんに叱られる』(チコちゃんにしかられる)は、2018年4月13日(レギュラー放送)からNHK総合テレビジョンで放送されているバラエティ番組

 

[概要]

「好奇心旺盛でなんでも知っている5歳」という設定の着ぐるみの少女・チコちゃんが、岡村隆史ナインティナイン)をはじめとする大人の解答者たちに、素朴かつ当たり前過ぎてかえって答えられないような疑問を投げ掛け、解答者が答えに詰まると、CGによって突然真っ赤になり巨大化した顔で、『ボーっと生きてんじゃねーよ!』の決めぜりふと共に叱って答えを明かし、解答者が正解した場合には「つまんねー奴だなぁ」と拗ねる。続けて、専門家に取材をした解説VTRを流して答えを掘り下げる、という構成で進められる。

 

以上の進行形態からクイズ番組的要素もあるが、多くの疑問では番組内で示される答えが「いくつかある説の一つを紹介」するものであり、そのことについては最後に「諸説あります」という注釈が加えられ、必ずしも番組として正解を求めているわけではないことが暗示されている。タイトルロゴに描かれた「Don’t sleep through life!」は「ボーっと生きてんじゃねーよ!」の意訳であり、英語での正式タイトルとは異なる。岡村にとっては、これがはじめてのNHKでのレギュラー番組である。

 

 

番組の最後に視聴者からのお便りを紹介するコーナー「ひだまりの縁側で…」が挿入される。また、放送時間を拡大したスペシャル版では、ゲストがチコちゃんと狭い部屋で一対一で向き合い、チコちゃんからの質問に答えるコーナー「チコの部屋」が挿入される。

 

2017年3月以降の3回の単発放送を経て、2018年4月13日からレギュラー放送が開始された。放送時間は、本放送が毎週金曜19:57 - 20:42で、再放送が土曜(本放送の翌日)8:15 - 9:00だが、本放送時間帯は各地域放送局独自番組が放送される場合があるため、土曜日の放送が本放送になる地域もある。逆に、金曜日の放送が特番などの編成で全国で休止になった場合、土曜日の枠は原則として過去に放送した回で好評だったものの再放送となる。

 

 [設定・制作]

プロデューサーの小松がNHKのチーフプロデューサー (CP) である水高満と飲んでいたときに、小松が「5歳児の女の子にクイズを出され、知らないと『ボーッと生きてんじゃねえよ!』としかられる番組をやりたい」と話したことが番組誕生のきっかけである。小松によると、この番組の企画はかつて1996年に自分が企画して『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ)で放送された、正解して当たり前というクイズを出題していた『君たちは漫然と生きていないか?』コーナーを意識したものであったという。

 

また、チコちゃんのキャラクターの原点は、これも小松が演出・プロデューサーを務めていた『平成日本のよふけ』(フジテレビ)に登場した『赤さん』である(赤さんの声は、チコちゃんと同じ木村祐一)

 

チコちゃんの顔はCGで無限に変化できるが、これは映像や着ぐるみ、CG合成などの案があったなかで、NHKアートの技術担当者やNHK放送技術研究所にも相談して、通常のバラエティーでどこまでできるのかを試した結果であるという。

 

NHKアナウンサー森田美由紀が担当する解説VTRのナレーションは、「今こそ全ての日本国民に問います」「そんなことも知らずに、やれ○○だとか、○○などと言っている日本人のなんと多いことか」と、「全国民」に対して上から目線で淡々と毒を吐くスタイルだが、これは番組からの「NHKスペシャル風にやってほしい」とのリクエストに応じたもので、水高CPによると「おちゃらけたバラエティーのナレーションではなくて、真面目に淡々と読む、だけど言っていることは変、という方が面白いというのがあって、「ザ・NHK」に読んでもらった方が、その面白さが増す」との意図で起用したものであるという。ただし、意図的に笑いを誘うナレーションもある。

 

問題・解説のVTRは問題ごとに別々のディレクターを中心としたチームが担当し、VTRの演出スタイルは担当ディレクターの作家性に委ねられているという。取材前に「面白そうに膨らませるポイント」をスタッフ全員で共有した上で取材に臨み、その上で「NHKは真摯に取材し伝える」という基本線を崩さないように、疑問に関しての取材と解説VTRは「芯のしっかり通ったもの」を作った上で、それを崩しているという。

 

過去の『NHKスペシャル』など他の番組の映像をほぼそのまま解説VTRに使ったり『ダーウィンが来た!』のディレクターに依頼して解説VTRを制作するなど大胆な演出も見られる。仮に「答え」の内容が想定外の方向に進んだとしても、そこまでの制作過程は徹底してオープンにすることも心がけているという。

 

(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)

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連載:関寛斎翁 その24 馬の疫病で病死が続出

2020-03-20 05:00:00 | 投稿

 日露戦争に出征する又一を見送った寛斎は、十月二日、札幌から牧場へ帰農した。陸別では、すでに七竈が鮮やかな真紅に色付き、秋風に夕べの寒さを感じる陽気である。
 寛斎は、農場に着くや開口一番、「留守中、ご苦労だったナ」と、ねぎらいの言葉をかけたが、誰からも返答がない。そればかりか片山八重蔵が肩を落として悄然と佇み、虚ろな眼差し、がっくりした表情、寛斎から眼をそらす者など、部屋の空気が澱んでいる。
「どうした、何かあったか。-」と、寛斎が問いかけると、片山が、「なんか、わけのわからない病気にかかって、次々とこう!」
「誰が」
「九月二十日頃から馬か倒れはじめて……どうやら疫病らしくて伝染しよって、追い追い病馬が増えて、儂らにはどうしょうもなく……」
「で、何の病気だ」と、彼は思わず上ずった声で聞き返したが、誰一人判るはずがない。寛斎をはじめ関牧場の従業者が、如何に強い使命感を持ち不屈の精神の持ち主でも、こと、牛や馬の疾病についての知識や、治療のマニュアルは全く持ち合わせていない。
馬の病気には、馬鼻胆、炭胆、脳炎、デンビンと云う伝染性貧血などがあり、脳炎は人間の十倍の発病率があり、デンビンは、脱兎の勢いで伝染して、アツと云う間に百頭ぐらいは倒れてしまう恐ろしい病気だと云われている。
遠隔の隣村から駆け付けた関川獣医も、病名不明で診断しかね、よって今後、一体如何なる事態に陥るか、皆目見当がつかない。
 片山夫妻はもとより、全員が悄然と肩を落し、「勤めても励んでも、実りがなく……」
「儂らの苦労は、徒労だったんと違うんか?」「年貢の納め時かのう」
と誰も彼もが自信を喪失、意欲が減退し、まさに落胆の極みに至り開拓から身を退きたいと云う様子が、その表情や言葉の端々から感じられ、暗く重い雰囲気である。
 寛斎は、帰着後、まだ草履履きのままで紐も解かずに足早に厩舎に直行して見ると、寝藁の上に数頭の馬がぐったりとして倒れている。関川獣医の、「手の施しようがありません」と、力なく呟いた声を聞き、彼はへなへなと崩れかかったのである。
 と、その時、寛斎はハッと目覚めたように忽然と筋肉が凝結し、意識のバネがしなやかに弾んだ。
儂が皆とともに沈衰したなら、この先、一体どうなるか。一大奮起して現状回復を図り今後は如何なることがあろうとも臥薪嘗胆せねば我が牧場は、忽ち瓦解することは必至である。そのためには、まず、この儂が気骨を持って、頑強な実行力で事にあたらねばならぬ。
よし!と、奮い立ったのである。
悄然とした一同の頭上に、突如、寛斎の鋭い声がひびいた。
「皆、よく聞け。見ての通りの惨状だ。我が牧場の現状を恐るる者があれば、即刻、此処を立退け」と、全員に告げた。狭い駅逓所に響きわたるような、朗々とした声で、年老いた寛斎の何処からこの迫力が生まれてくるのかと、感じ入るような叱咤である。
「皆に告げる。儂は生存する限りは、決してこの牧場を退場しない。たとえ一人になろうとも踏み止まって、牛馬の最後の一匹までを見届ける。
 儂らと苦労を共にした牛馬には、出来得るかぎりの治療をほどこす。それが儂らの務めではないか。しかしながら努力むなしく全馬がたおれた時は、畜生ながら労苦を倶にした牛馬の霊を弔う心算である。農場の死守は、儂ら夫婦の素願である。儂は見ての通り老いぼれだが、その魂は曇っておらん。
さいわい、瑞祥、北宝の二頭のタネ馬が生き残っている以上、望みを絶たれたわけではない。今後、病馬があれば、十分に加療し死に至らしめぬ心がけこそ、我々の責務である。
先般、又一が入隊に際し、その不在中は、独立自営、もし戦死したなら、必ず第二の又一を以て初志を貫くことを誓った。儂はこの農場と運命を共にする覚悟である。それがせめて二人の骨を埋める事を誓った亡き妻に対する慰霊である」
 肺腑をしぽるように心情を吐露した寛斎のこの言葉に、片山夫妻をはじめ一同の迷いや悩み、落ちくぼんだ心情が癒え、狭窄した視野が明るく開け始めたのである。
 当時、北海道の入植初期には、こうした災害災難に遭って開拓を中断したり、小作人や従業員から見捨てられ、挫折撤退する農場は彼方此方にいくらでもあった。

渡辺 勲 「関寛斎伝」陸別町関寛斎翁顕彰会編

 

関寛斎資料館 関寛斎像

 

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