◇中世§31.北条時政の覚え方(覇権と失脚)◇B
[ゴロ]時政/風邪ひき(かじひき)/より執権の巻(まき)
(時政)(梶原氏滅す・比企(ひき)氏滅す)(頼家廃す・初代執権・牧氏の変)
[句意]時政は、風邪引きより執権になったの巻、という句。「巻」は物語で各章を「〇〇の巻」などと名付けるときの用法。
[point]
1.北条時政は、梶原氏・比企氏・源頼家を滅し源実朝を擁立して初代執権の地位を得たが、牧氏の変で失脚。
1199.1 頼朝死去。源頼家、家督を継ぎ2代将軍となる。
.4 北条政子・時政が源頼家の権力を制限し、13名の有力御家人による合議制を布く。
1200.1 梶原景時(かじわらかげとき)(頼朝の側近で有力御家人)追討
1203.9 比企能員(ひきよしかず)(頼家の義父)の乱。
時政、頼家を伊豆の修禅寺に幽閉。
実朝を3代将軍に擁立。
時政、政所別当(初代執権)となる。
1204.7 頼家、修禅寺で謀殺する。
1205.7 有力御家人の畠山重忠を謀殺する。
.9 時政の後妻牧の方が、娘婿で頼朝の猶子となっていた平賀朝雅(ひらがともまさ)を将軍に擁立しようとして失敗し、時政は失脚(牧氏の変)。
[解説]
1.北条時政(1138~1215)は、初代執権。頼朝の死後、1199年、娘政子とともに、2代将軍頼家が自ら訴訟を裁くことを禁じ、大江広元・三善康信らの貴族出身の頼朝側近と、北条時政・梶原景時・三浦義澄・比企能員・和田義盛ら有力御家人からなる13人の合議制をしいた。
2.頼朝在世中、側近として辣腕を振るっていた侍所別当・梶原景時が、下総の有力御家人結城朝光に謀反ありと頼家に告げ口した。これを有力御家人が連署して糾弾する事態となった。時政らは、1200年、景時を失脚させ滅ぼした(梶原景時の変)
3.時政は、1203年、頼家が重病に冒されると、後継将軍の選定をめぐって、頼家の妻の父である比企能員と対立し、能員をおびき出して殺害し、その一族を頼家の長男一幡ともども滅してしまった。
4.時政は、後継将軍を頼家の弟で12歳の実朝とし、頼家は廃され時政の本拠地である伊豆に幽閉されて、1204年、殺害された。
5.時政は、大江広元に並んで政所別当になり、さらに時政の署名で将軍の命令を伝達する「下知状」という新しい形式の命令書を作り出して幕府政治を動かすようになった。これをもって時政を初代執権とみる。
6.時政は、1205年、畠山重忠を滅ぼす。畠山氏が、台頭してきた牧氏(牧の方は時政の後妻)と対立。さらに時政が、畠山氏の所領武蔵国を奪わんとしたことが、衝突の原因である。
7.時政と牧氏の勢力が、1205年に実朝を殺害して牧の方の娘婿で、頼朝の猶子でもあった平賀朝雅を将軍に立てようとする陰謀事件がおこった。時政の前妻の産んだ子である北条政子および北条義時がこれを阻止、時政は引退させられて伊豆に隠棲した(牧氏の変)。
〈2017法政大・営人間文:「
問2.下線部aの人物北条時政に関する説明として正しいものを、以下のア~エのなかから一つ選べ。
ア.将軍源頼朝の妻である政子の兄である。
イ.将軍源実朝を伊豆の修禅寺に幽閉した。
ウ.相模の御家人である三浦泰村を滅ぼした。
エ.武蔵の御家人である比企能員を滅ぼした。」
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(答:問2エ○ ※ア×兄→父、イ×実朝→頼家、ウ×三浦泰盛を滅ぼしたのは北条時頼)〉
〈2016早稲田大・文:「
問1 下線a東国の武士について、鎌倉幕府の御家人で、娘が二代将軍頼家の妻となり、十三人の合議制に名前を連ねたが、やがて北条時政に討たれた人物は誰か。漢字4字で記述しなさい。」
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(答:問1比企能員)〉
〈2015早稲田大・文:「
問3 下線b鎌倉時代は政争が多いねに関連して、鎌倉時代の政争や事件の説明として正しいものを1つ選べ。
ア 源頼家は比企能員の乱で殺された。
イ 北条時政は平賀朝雅の将軍擁立に失敗して引退した。
ウ 政所別当和田義盛は挙兵して討たれた。
エ 源実朝が公焼に殺されたため、皇族将軍が迎えられた。
オ 名越光時は宝治合戦で一族とともに滅亡した。
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(答:イ○ ※ア×北条氏の討手により修禅寺にて謀殺、ウ×和田義盛は侍所別当、エ×迎えられたのは摂家将軍頼経、オ×名越光時は摂家将軍頼経を支持する反北条得宗家の中心御家人で、頼経京都送還失脚、配流された)
〈2013京都大学・前期:「
問9 下線部(g)の「時政」は、1185年に上洛し、公武交渉や御家人の統制などを担当する役職についた。その役職の名称を記せ。」
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(答:問9京都守護)〉