「聖徳太子は、日本の政治的意図による創作・捏造だ」…中日新聞

2008年02月11日 | Weblog
書き換わる聖徳太子像 週のはじめに考える
2008年2月10日
 実在から非実在へ、聖徳太子像が大きく書き換えられようとしています。戦後歴史学がたどりついた成果とも、真実追究の学問がもつ非情さともいえるでしょうか。
 聖徳太子を知らない日本人はまずいません。教科書風にいえば、六世紀末から七世紀前半の飛鳥時代、日本の伝統精神に仏教や儒教の外来思想を身につけ、日本の国力と文化を飛躍的に高め世界の先進国入りさせていった皇太子です。
 「和を以て貴しと為す」との教えや貧しい者への優しい眼差(まなざ)し、太子の言葉とされる「世間虚仮(せけんこけ)唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」の無常観などは、いまも人の心にしみて揺さぶります。
 常識になった非実在
 もっとも、一時に八人の訴えを聞いて誤りなく裁いたことから、八耳皇子(やつみみのみこ)と呼ばれたとの伝承や生まれたときから言葉を話し高僧の悟りに達していたとの伝説、その未来予知能力や中国の高僧の生まれ変わりで、最澄は玄孫などの輪廻(りんね)転生の説話などには訝(いぶか)しさを感じさせるものではありました。
 誇張や粉飾があったにしても、実在と非実在では話の次元が全く違ってしまいます。ところが、積み重ねられた近代の実証的歴史学の結論は「聖徳太子はいなかった」で、どうやら決定的らしいのです。
 聖徳太子の実在に最後のとどめを刺したとされるのが、大山誠一中部大学教授の一九九六年からの「長屋王家木簡と金石文」「聖徳太子の誕生」「聖徳太子と日本人」などの一連の著書と論文、それに同教授グループの二〇〇三年の研究書「聖徳太子の真実」でした。
 日本書紀に政治意図
 それらによると、聖徳太子研究で最も重視すべきは、日本書紀が太子作として内容を記す「十七条憲法」と「三経義疏(さんぎょうのぎしょ)」。数多くの伝承や資料のうち太子の偉大さを示す業績といえば、この二つに限られるからだそうです。
 このうち十七条憲法については、既に江戸後期の考証学者が太子作ではないと断定し、戦前に津田左右吉博士が内容、文体、使用言語から書紀編集者たちの創作などと結論、早大を追われたのは有名です。
 三経義疏は仏教の注釈書で太子自筆とされる法華義疏も現存しますが、これらも敦煌学権威の藤枝晃京大教授によって六世紀の中国製であることが論証されてしまったのです。
 世に知られた法隆寺の釈迦(しゃか)三尊像や薬師如来像、中宮寺の天寿(てんじゅ)国●帳(こくしゅうちょう)も、その光背の銘文研究や使用されている暦の検証から太子の時代より後世の作であることが明らかになってきました。
 国語・国文学、美術・建築史、宗教史からも実在は次々に否定され、史実として認められるのは、用明天皇の実子または親族に厩戸(うまやど)王が実在し、斑鳩宮に居住して斑鳩寺(法隆寺)を建てたことぐらい。聖徳太子が日本書紀によって創作され、後世に捏造(ねつぞう)が加えられたとの結論が学界の大勢になりました。
 太子像が創作・捏造となると、誰が何のために、その源となった日本書紀とは何かが、古代社会解明の焦点になるのは必然。そのいずれにも重大な役割を果たしたのが持統天皇側近の藤原不比等というのが大山教授の説くところ。長屋王や唐留学帰りの僧・道慈が関与、多くの渡来人が動員されたというのです。
 日本書紀は養老四(七二〇)年完成の最古の正史で、その編纂(へんさん)過程に律令(りつりょう)体制の中央集権国家が形成されました。隋・唐の統一と東アジアの大動乱、それによる大化の改新や壬申の乱を経て、古代社会の「倭(わ)の大王」は「日本の天皇」へ変わったとされます。
 大変革の時代の日本書紀の任務は誕生した天皇の歴史的正統性と権威の構築です。それが、高天原-天孫降臨-神武天皇-現天皇と連なる万世一系の思想と論理、中国皇帝にも比肩できる聖天子・聖徳太子の権威の創作、書紀は政治的意図が込められた歴史書でした。
 大山教授の指摘や論考は、歴史学者として踏み込んだものですが、隋書倭国伝との比較などから「用明、崇峻、推古の三人は大王(天皇)でなかったのではないか」「大王位にあったのは蘇我馬子」などの考も示しています。「日本書紀の虚構を指摘するだけでは歴史学に値せず、真実を提示する責任」(「日本書紀の構想」)からで、日本書紀との対決と挑戦が期待されます。
 千年を超えた執念
 日本書紀が展開した思想と論理は千三百年の現実を生き現代に引き継がれました。憲法と皇室典範は「皇位は世襲」で「皇統に属する男系の男子がこれを継承する」と定めています。
 しかし、万世一系は子孫を皇位にと願う持統天皇のあくなき執念と藤原不比等の構想によって成り、その父系原理も日本古来のものとはいえないようです。建国記念の日に永遠であるかのような日本の原理の由来と未来を探ってみるのも。
 ※●は繍の旧字
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2008021002086536.html


【社説】 「聖徳太子は、日本の政治的意図による創作・捏造…中日新聞
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1202668198/

115 :名無しさん@八周年:2008/02/11(月) 04:02:19 ID:U3/LGeka0

175 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2007/07/16(月) 12:50:02
「聖徳太子の誕生」が書かない厩戸の事跡。
1、斑鳩宮の建設:斑鳩宮はいくつの寺や宮からなるかなり広範囲の遺跡で、最初の計画都市だという人もいる(千田さんだったかな)。
2、斑鳩寺(若草伽藍)の建立:四天王寺と同じ配置。
3、筋違い道(太子道)の造成:若草伽藍と子午線に対して同じ傾きである。
4、四天王寺の建立:かっては太子と無関係とされていたが、近年最初期の瓦が出土して若草伽藍の瓦と同はんと判明した)。
なお、現法隆寺は、吉備池廃寺の発掘結果から、舒明天皇の百済大寺以後のものと判明。私見では、山背大兄の菩提を弔うため。
皇太子でこれだけの事跡が残っていることは異例。
大腿(いいなあ)、天皇以外の人間の事跡が残ること自体が異常で、厩戸は天皇以外考えられない。
なお、1~4は、推測ではなく実際に残っている遺物。大山誠一は全く無視しているが、
これだけでいかに彼が恣意的な情報操作をしているか歴然。 彼の本の内容は唯物史観そのもの。

135 :名無しさん@八周年:2008/02/11(月) 04:06:05 ID:6ZAAs0ddO
>>1の大山さんの講義を受けて、著書の矛盾点を指摘したらはぐらかして逃げられたよw
おまけに学生の中で一番講義に熱心に取り組んだのに成績が可だったwwww

142 :名無しさん@八周年:2008/02/11(月) 04:08:20 ID:8P7UQVC3O
この論法だと、大岡越前も遠山の金さんも
架空(中日的には捏造)の人物ってことになるな
エピソードが創作だからって存在そのものが消されると
いろいろ困る人いるんじゃないの?

164 :名無しさん@八周年:2008/02/11(月) 04:14:10 ID:6ZAAs0ddO
>>142
聖人「聖徳太子」はいなかったけど、「うまやどのおうじ」というちょっと凄い人はいたというのが大山さんの説
要するに日本から偉人を消したいのが魂胆

188 :名無しさん@八周年:2008/02/11(月) 04:20:27 ID:6ZAAs0ddO
ちなみに大山さんの説は、仮説を前提に仮説を立てているところが多い
あと、日本書紀を信頼出来ない史料と言っている割に、日本書紀を根拠に仮説を立てている
それを指摘したら逃げるから手に負えない


722 :名無しさん@八周年:2008/02/11(月) 08:23:59 ID:NYt6I8zY0
ってか大山誠一の書いたのをネットでざっとググってきたけど、
大山だって厩戸皇子の実在と政務5年間と斑鳩宮の実在は否定してないじゃん。
あと冠位十二階と遣隋使は隋書にも記述があるから聖徳太子の功績ってのも大山論。
中日ドラゴンズは死ねよ。

776 :名無しさん@八周年:2008/02/11(月) 08:38:19 ID:WKSaMHjG0
聖徳太子/下 歴史の創作はさらに根が深い!?  
2003年 02月 14日
 「太子架空人物説」の大山誠一さんは「白村江(はくそんこう)の敗戦が決定的だった」
と述べる。663年、滅亡した百済の復興を支援した倭軍が唐・新羅連合軍に惨敗。
救援どころか両軍の進攻を恐れる非常事態を招いた。先進地、大陸との交流は断絶し、
文化の差も一層広がった。遣唐使が再開され、遅れをまざまざと思い知らされる。

 「当時、新羅は全盛時代で、半世紀は日本の先を行っている。コンプレックスですね。
けんかをすればこっちが強い。でも、文化でも勝ちたい。急に追いかけるには“飛び級”
が必要なのです。誰かに跳んでもらわなければいけない。日本という国が聖徳太子を
必要としていたのです」
http://www.mainichi.co.jp/hanbai/nie/nazo_nihon14.html

コイツ在日なんじゃねーか?



◆聖徳太子/下 歴史の創作はさらに根が深い!?  
2003年 02月 14日

 聖徳太子が架空の人物だったとしたら、創(つく)られた理由は何か。

 「太子架空人物説」の大山誠一さんは「白村江(はくそんこう)の敗戦が決定的だった」と述べる。663年、滅亡した百済の復興を支援した倭軍が唐・新羅連合軍に惨敗。救援どころか両軍の進攻を恐れる非常事態を招いた。先進地、大陸との交流は断絶し、文化の差も一層広がった。遣唐使が再開され、遅れをまざまざと思い知らされる。

 「当時、新羅は全盛時代で、半世紀は日本の先を行っている。コンプレックスですね。けんかをすればこっちが強い。でも、文化でも勝ちたい。急に追いかけるには“飛び級”が必要なのです。誰かに跳んでもらわなければいけない。日本という国が聖徳太子を必要としていたのです」

 大山説に従えば、8世紀初頭の東アジア情勢の帰結としてつくられたのが、理想的天皇像としての聖徳太子だった。律令を整え、平城京をつくり、新しい律令国家を主宰する天皇が「中国的聖天子像を体現した存在であることを歴史的に示した」のだった。仏教、儒教、道教をハイレベルで理解している超人、聖徳太子。時の玄宗皇帝をその目で見、718年に帰国した留学僧・道慈(どうじ)の存在によって初めて可能な人物創造劇だったという。天皇の権威を高め、日本の立派さを中国、新羅に政治的に誇示する正史・日本書紀編纂(へんさん)の重要目的にもピタリ合致するというわけだ。

 理想的天皇像をつくるのになぜ天皇ではない厩戸(うまやど)が選ばれたかだが、子孫が断絶してしまい、粉飾のしやすさが買われた、とみる。もちろん推古朝の有力者で、仏教の普及に貢献したことも間違いない。後世、大人物に祭り上げられてもさほどの違和感がなかっただろう、という。こうして藤原不比等、長屋王、道慈の3人が書紀の中でつくり上げた聖徳太子像に肉付けした中心人物は、藤原氏の出で聖武天皇の后(きさき)の光明子だという。母や藤原4兄弟の急死で危機感を抱き、太子の加護を求めた。法隆寺を盛んに援助し、太子信仰の発展を促したのである。

 実在した厩戸を利用した聖徳太子の創作と発展劇。納得いただけただろうか。それにしても、疑問が尽きるわけではない。光明子の行動にしても、心から誰かにすがりたいと思った時、よりによって架空の人物に頼るだろうか? だが、話ははるかに複雑なのだ。そもそも太子は日本史上の大悪人とされてきた蘇我氏直系の人物ではないか。それがなぜ聖人に……。

 6~7世紀ごろの歴史はわからないことが多すぎる。例えば、推古朝ごろの中心地・飛鳥に当時の天皇の墓がない点が不審、と大山さんは言う。太子の父・用明、次の崇峻(すしゅん)、さらに推古、太子自身、いずれも西に山を越えた河内に葬られた。一方、飛鳥の巨大墓には稲目(いなめ)、馬子の蘇我父子が眠り、次の代の蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子も飛鳥に造った墓を「陵(みささぎ)」と呼ばせたと書紀は記す。単に呼ばせたのではなく、事実「陵」だった可能性はないか。本当のところ、どちらが大王だったのか。

 「大化の改新(645年~)の段階で日本の歴史が変えられている」。大山さんの聖徳太子架空説は、太子一人をめぐる謎解きにとどまらず、古代史の壮大な見直しの第一歩でもあるのだ。

http://www.mainichi.co.jp/hanbai/nie/nazo_nihon14.html






「冤罪」事件としての聖徳太子虚構説
大山誠一氏『聖徳太子の誕生』への疑問
理事・國學院大學講師 高森明勅

古代史研究の混乱

 戦後の日本古代史研究の世界では、久しく混乱がつづいてきた。

 その混乱の中で、さまざまな珍説・奇説が登場し、しばらく持て囃された後、うたかたのやうに消え去つて行つた。騎馬民族征服王朝説、大化改新否定説や王朝交替説などは、その典型的な例だらう。

 奇抜な問題設定と斬新な仮説の提起で人々の注目をひき、学界にも少なからぬ影響を与へたものの、今ではほとんど支持する者はゐない。

 近年、関心をあつめてゐる大山誠一氏(中部大学教授)の聖徳太子虚構説も、遺憾ながらそれらと同類のものと見なすほかないやうに思ふ。

 以下、大山氏の所説を単著としてまとめた『〈聖徳太子〉の誕生』を俎上に載せ、その当否につき、いささか吟味検討を加へることとする。

聖徳太子は架空の人物?

 大山氏の聖徳太子虚構説とはどのやうな見方であるか。まづその点を整理しておく。

 同説の結論は「聖徳太子は実在の人物ではなく、架空の人物」(二頁)といふことにつきる。ただし厩戸皇子といふ「有力な王族がいた」(八頁)のは否定しない。厩戸皇子が実在したことはたしかだが、この人物が『日本書紀』に描かれたやうな偉大な政治家であり、たぐひまれな思想家であつた証拠は何一つなく、むしろそのやうな人物像は『書紀』編者による捏造だった ? といふのである。

 たしかに衝撃的な結論だ。この説が大きな反響をよんだのも当然だらう。

 だが、かかる重大な結論を導くためには、かなり周到で厳格な手続きが求められるはずだ。大山氏は一体、いかなる根拠に基づいて先のやうな結論を主張されてゐるのか。

 二つの「証明の方法」がとられた。その一は、聖徳太子関係の史料の真偽を確認し、偽物を排除すること。その二は、問題となる史料について、誰が、いつ、何のために捏造したかを明らかにすることで「虚構の証明」をおこなふ。しかもこの二つの中、大山氏がより重視したのは後者だつた。前者については「史料に疑問があると指摘することはできても、これらの史料を偽物と断定するのは無理」と考へ、後者こそ「より決定的な根拠」とした(一四~五頁)。

 しかし、虚構説の基礎をなすこのやうな立論方法そのものに、重大な欠陥がはらまれてゐると云はざるをえないだらう。

 史料の真偽を確認し、偽物を排除するのは当然の手続きだ。問題はない。ただその作業が予断をもたず適正になされてゐるか否かだけを吟味すればよい。

 だが、その真偽を断定するのは「無理」としつつ、むしろ捏造の実行者や時期、動機の解明を「より決定的な根拠」と見なす態度は不可解である。

 常識的に考へても、史料の真偽がいまだ不明確であるのに、「捏造」の?犯人?やその動機を探るといふ方法は、順序が逆だと云ふしかないだらう。史料が偽物と判明した段階で、それを捏造した人物や歴史的背景が問はれることになるのだ。しかも史料の真偽の判定にくらべ、史料の捏造者やその動機を追及し、「断定」する作業は、はるかに困難である。特定の史料につき、「偽物と断定するのは無理」であれば、その捏造者や動機を「断定するのは」ますます「無理」なのだ。

 大山氏は何故、このやうな逆立ちした立論方法を思ひつかれたのだらうか。不思議だ。あまり考へたくないことだが、まづ虚構説といふ結論があつて、その結論を通常の史料批判だけで安定的に導くことが困難だつたために、このやうな不可解な「証明の方法」を持ち出したのか。そのやうにでも想像しなければ理解しがたいことである。

虚構説への反証

 では具体的な論点に移らう。まづ大山氏による関係史料の真偽をめぐる検討は、はたして妥当かどうか。
 
 氏は関係史料を『日本書紀』と法隆寺系史料に二分し、その上でそれぞれについて批判を加へる。だが、それら二系統のいづれにも属さない史料が厳存する。

 たとへば伊予湯岡碑文だ。推古天皇四年(五九六)を示す「法興六年」の紀年がある。

 これをどう評価するか。たしかに「太子没後の作とする説も有力」(東野治之「聖徳太子関係銘文史料」)だが、無下には否定できない。最新の『風土記』逸文研究の成果によれば、この碑文は、和銅六年(七一三)の官命によつて編纂された古風土記に引用されてゐるからだ(荊木美行氏『風土記逸文の文献学的研究』)。つまり同碑文は古風土記よりさらに古い史料で、当然、『書紀』の太子像をもとに捏造されたものとは考へがたい。

 また法起寺塔露盤銘(慶雲三年、七〇六)には「上宮太子聖徳皇」の語がある。これを信用してよければ、『書紀』より前に太子を「聖徳」(非常にすぐれた知徳)をそなへた指導者とみる認識がすでにあつたことになる。このやうな史料の存在は、虚構説にとつて致命傷になりかねない。そこで大山氏は、同銘が十三世紀の『聖徳太子伝私記』にしか見えてゐない点を強調し、「贋物」と断定、防戦につとめてをられる(『聖徳太子と日本人』)。

 しかし直木孝次郎氏は『万葉集』及び飛鳥・平城京跡出土木簡での用例を検討し、「露盤銘の全文については筆写上の誤りを含めて疑問点はあるであろうが、『聖徳皇』は鎌倉時代の偽作ではないと考える」(「万葉集と木簡に見える『皇』」)と結論づけられた。

 さらに『播磨国風土記』印南郡大国 里条に「聖徳王の御世」との表記がある。これは古代史上の人物についての関連史料を網羅してゐることで評価の高い『日本古代人名辞典』(全七巻)にも取り上げられてをらず、大山氏も看過されたやうだ。その意味では、私が新たに見出した太子関連史料と云つてよいのかも知れない。

 この風土記の成立は和銅六年から霊亀元年(七一五)ないし同三年までの間と考へられてをり、今のところこれを疑ふ根拠はない。よつてこの記事は、『書紀』が完成する前から、太子がすでに「聖徳」と称へられてゐたことを示す動かしがたい証拠と云へよう。

 以上の検討だけからでも、「『日本書紀』において初めて『聖徳』を備へた『太子』として……創造された」(一〇七頁)などとは到底、主張できないことが明らかとなつたであらう。

動機から“犯行”を証明?

 法隆寺系史料の扱ひ方も決して妥当ではない。主な史料について、これまでの研究史を充分踏まへず、各史料を「偽物」と見る説だけを摘み食ひしてゐる印象が強い。

 たとえへば法隆寺金堂の釈迦三尊像光背銘について、福山敏男氏の説を持ち出して信憑性を否定してゐる。だがその説が学界に受け容れられてゐるわけではない。むしろ「信用してよいとするのが今日の大方の形勢」(志水正司氏『古代寺院の成立』)で、「通説では推古三十一年(六二三)の撰文とされている」(東野氏「銘文について」)のが実情だ。虚構説にとつて都合の悪い有力説について慎重な吟味を行はないまま、否定説を無条件に援用して結論に結びつける態度は、とても公正とは云ひがたく、首をかしげざるをえない。

 『書紀』の記事の評価についても同様だ。著名な『憲法十七条』への批判は、もつぱら戦前の津田左右吉氏の旧説に依拠し、それでこと足れりとする。その後、津田説に対する説得力のある反論が出されてゐるにもかかはらず、である(井上光貞氏『飛鳥の朝廷』など)。ここでも「摘み食ひ」の姿勢は変はつてゐない。学問的な議論の組み立て方としては、実に奇妙だ。

 大山氏の史料操作は全体として、虚構説といふ結論がはじめにあつて、それに有利な材料だけをかき集めてゐるやうに見える。このやうな方法では、厳密な史料批判は不可能だ。「偽物」の証明など、もちろんおぼつかない。

 史料の「捏造」が立証できなければ、氏が「決定的な根拠」とされた捏造者の特定や動機の解明にも手がつけられないのが道理だ。

 ところが大山氏は藤原不比等らを“聖徳太子”の「作者」と断定された。非常に不思議な論法と云ふほかないが、不比等には「動機」があるからださうだ。

 不比等は自分の孫にあたる首皇子(のちの聖武天皇)のつつがない皇位継承とその王権の確立を「悲願」としてゐた。だから『日本書紀』において理想的な皇太子像として?聖徳太子?を創造した ? と云ふのである。

 犯行の証明もなされぬまま、犯人が断定され、その根拠はこの人物には動機があつたからといふのだから驚く。しかも即位できぬままこの世を去つた聖徳太子のやうな人物像を「捏造」して、首皇子の皇位継承に何か役に立つのか。それ以前に、不比等が『書紀』編纂にどれだけ関与してゐたのかすら、史料上、一切不明で、関はりを否定する有力な見解もある(坂本太郎氏「法隆寺怨霊説について」)。

 どうやら聖徳太子虚構説は“冤罪”事件の気配が濃厚である。

平成15年7月号(通巻39号)より
http://www.tsukurukai.com/07_fumi/text_fumi/fumi39_text01.html


國民新聞(平成16年4月)大山誠一中部大教授 聖徳太子虚構説
 http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H16/1604/1604049fiction.html
おおらかに祝う
http://ameblo.jp/disclo/entry-10071723992.html

文字史料だけで聖徳太子の実像に迫れるのか?
大山説に対する疑問
http://www.bell.jp/pancho/hyper-history/siron_shotokutaisi/ooyama/section%201-2.htm
大山氏の主張は根拠なし
http://www.bell.jp/pancho/hyper-history/siron_shotokutaisi/ooyama/section%201-9.htm

http://tech.heteml.jp/2008/02/post_1127.html

天皇陛下が語られる「外来種」
http://blog.goo.ne.jp/shiome/e/eda9cf3feeac7415ad4a21c0374d63f1

ゆがめられた聖徳太子の実像
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