旧日本軍の中の朝鮮人~日本軍の勝利に歓喜する戦前の韓国人・・・強い者に弱く、弱い者に強い

2006年08月05日 | 支那朝鮮関連
■当時の中国人が描いた漫画 
「日本の軍旗を振り回す朝鮮人が中国人を殺す!」拡大
http://photoimg.enjoyjapan.naver.com/view/47/43/enjoyjapan_13/40000/39250.jpg




『日本軍の勝利に歓喜する戦前の韓国人は、日本人以上の日本人だった…』

武士道の覚醒と強い日本を願う  崔基鎬
写真崔基鎬(チェ・ケイホ)氏 1923年生まれ。明知大学助教授、中央大学、東国大学経営大学院教授を経て、現在、加耶大学客員教授

日韓併合を検証する

 歴史をどう見るか。人によってその見方は違うと思います。また違って当然だと思います。しかし事実を曲げて、歴史を自分の都合で書き直すことになれば、それは歪曲したことになります。
~ 例えば韓国と日本を比較した場合、日本が十のうち一の歪曲があるとするなら、韓国は十のうち九は歪曲があると言っていいでしょう。日本についての歴史だけでなく韓国の歴史そのものを歪曲しています。韓国の権力者たちによって恣意的に作られた『国定教科書歴史編』は、まさにその傾向を強めています。

隷属国家の李氏朝鮮

 ご承知の通り今の韓国では、植民地時代の日本統治を肯定的にとらえて発表することは、相当の覚悟がいります。極端な話、身の危険も覚悟しなければなりません。しかし私の使命として、どうしても言わなければならないと思っています。
 なぜなら、歴史を歪曲するということは、国の進むべき方向を間違わせてしまうからです。実のところ韓民族は、いつも身勝手な解釈で歴史を解釈し、これがもとで幾度も実態を見誤り、国を滅ぼしてきたのです。とくに危惧するのは、それが韓民族の宿痾であるということです。だからなおのこと私は、歴史の真実を見る重要性を訴えたいわけです。

搾取されたのは日本

 総監府時代の四年間に、日本政府が立て替えた朝鮮の歳入不足分は、1428万円にものぼっています。そればかりではなく、司法と警察分野などに日本政府が直接支出した金額は、立替金の数倍、9000万円に達しています。
  現在の朝鮮・韓国の歴史では、このような日本の特恵的支援には一言の言及もありません。そして侵略だけを強調していますが、これがいかに偏狭な歴史観であるかということが分かると思います。

親日派というレッテル 
 
 最近韓国では、親日派という言葉をつかって政敵を糾弾する動きがあります。しかし、そもそもおかしいのは親日派という言葉です。戦前から東京にいた私は、年に1~2回はソウルとか当時の平壌に行きました。その当時の韓国人は日本人以上の日本人です。劇場に行くと映画の前にニュースがありましたが、例えばニューギニアで日本が戦闘で勝利をおさめたという映像が流れると、拍手とか万歳が一斉に出ます。
  私は劇場が好きで、日本でも浅草などに行って見ていましたが、韓国で見るような姿はごくわずかです。韓国ではほとんど全員が気違いのように喜びます。それは当時としてごく普通の姿ですから、特別に親日ということではありません。だから基本的に親日派という言葉はないのです。それを無理やり「親日派」という言葉のレッテルを貼って糾弾する。それが今の韓国で、政治的にやられていることです。

強い者に弱く弱い者に強い

 終戦前、満州で中国で活躍したのは日本人よりも韓国人でした。平均して中国人より韓国人の方が強さを発揮し、中国に対して強く出ました。日本が明治時代の日本軍隊のように強くなると、韓国、朝鮮の人は日本人以上に日本人になるのです。今の台湾において、日本人より日本人の生き方を伝承しているという事実。昔の日本人は、それほどに誠を尽くして現地で働いたということです。その意味するところは、併合自体が侵略でもなく略奪でもなかったということです。

http://www2.odn.ne.jp/~aab28300/backnumber/04_12/tokusyu.htm



日本統治時代の朝鮮 - Wikipedia

日本政府は李氏朝鮮時代から朝鮮人にも日本軍の幹部を養成する陸軍幼年学校や陸軍士官学校への入学を許可した。その後、日本軍の将官に栄達した者も多かった(李王垠、洪思翊など)。1937年に日中戦争が勃発すると、朝鮮人から志願兵の申し出が行われるようになり[11]、朝鮮人の朴春琴衆議院議員から「朝鮮人志願兵制度」の請願が出され、1938年からは朝鮮人にも兵卒の志願を許可する陸軍特別志願兵令が公布され[12]、軍人・軍属として戦地に赴いた者も存在した[13]。1944年9月からは朝鮮人にも徴兵が適用されたが、訓練所への入隊は1945年1月から7月の間に限られた上に、朝鮮半島か日本内地勤務が中心であり、ほとんどが戦場に派遣されなかった[14]。
労働力としての徴用については、適用が控えられていた朝鮮においても1944年9月から1945年8月にかけて国民徴用令が実施された。日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は1945年3月の下関-釜山間の連絡線の運航が止まるまでの7ヵ月間であり、内地(日本)における、国民徴用令による朝鮮人の徴用労務者はごく少数であった。戦後、日本に残留した在日朝鮮人のうち、徴用で日本に来た者は245人であった(1959年の外務省の調べ)。内地(日本)に渡航して来た朝鮮人の大半は職を求めての個別渡航や、工鉱業、土木事業等の募集に応じてきた者であった[15]。

朝鮮人の日本内地への移入

李氏朝鮮時代から貧しかった南朝鮮から多くの朝鮮人が日本に移入した[8][9]。日本への渡航には渡航証明書が必要だったが[98]、多くの朝鮮人が日本内地へ密航した[99]。密航は1930年代に入ると激増し、毎日のように摘発されるようになった[99]。このため、1934年には岡田内閣は朝鮮人の密航の取り締まりを強化するために「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定したがその後も密航は増加していった[8][9][99][101]。余りの密航の多さに日本政府は渡航制限を緩和したが[102][103]、渡航条件を満たさないものたちによる密航は止まらなかった[103]。第二次世界大戦中にも密航が行われており、密航朝鮮人が検挙されている[104]。



朝鮮人日本兵 - Wikipedia





朝日新聞の戦中記事

<昭和17年5月10日朝刊社説>
【内鮮一如の徴兵実施】
 朝鮮同胞に対する徴兵制度の採用は、近年現地の要望となっていたが、八日の閣議はいよいよ明後十九年よりこれを実施し得るよう準備を進めることに決定した。(中略)
 既に去る十三年四月以来、陸軍特別志願兵制度が行われているのも、かかる現地における赤誠の認められた結果に外ならないが、その後累年志願兵の数を加え、今年は実に二十五万以上の多数志願者中より、約三千名の志願兵が採用せられたような有様である。しかもそれら将卒の成績は概ね良好であり、戦死して殊勲甲(最高の殊勲)を樹てたるものあるはもちろん、生存して殊勲甲の恩賞に輝く勇士も現れて居り、加えるに半島(朝鮮半島)銃後一般の大戦完遂に対する熱意また特筆すべきものがある。
 かくてここに半島徴兵制の実施方針が確立せられたのも当然の順序というべきであろう。
 吾人(われわれ)はこの制度の採用によって内鮮一体(日本本土と朝鮮が一つになること)の実のますます挙がらんことを期待するものである。

http://vaccine.sblo.jp/article/1040153.html



朝鮮における朝鮮人陸軍特別志願者の当時の報道


http://yeoksa.blog.fc2.com/blog-entry-529.html


パク・チョンヒ元大統領、併合時代に日本人として満州国軍への参加を熱烈に志願 韓国ネチズン衝撃
日本の歴史研究家「太平洋戦争中に韓国人26万人が強制動員」と毎日新聞
「日本に来たがってたの、大勢いたんだ」~大半、自由意志で居住 戦時徴用は245人
在日朝鮮人、戦時徴用はわずか245人 外務省が明らかに






■ある医師の述懐 『キヤンガン、山下将軍降伏の地』

中部山岳地帯の最高峰MH.Pulogへのアプローチは3日、バスでバギオ迄、ジープニーで麓の村まで、そこで民宿して一気にピークへ。この山は今次大戦の激戦地だった場所で戦車や装甲車の残骸が残っていた。麓の村の短大の先生が親切にも自宅の2階を宿泊に提供してくれた上、一緒に登ろうということになった。実は彼の曽祖父は日本人だという。
  途中の高原都市バギオ周辺にも日系人は多数住んでいる。今世紀初頭スペインからフィリピンを奪ったアメリカは先ず高原に避暑地を建設した。この時中国は北清事変直後で苦力の供給を止めており、2千人の日本の若者が移民労力者として バギオまでの難工事に従事、このケノン道路の開削で多数が犠牲となった。
  現地の女性と結婚しておちついたのもつかのま、今次大戦の緒戦で日本軍がリンガエン湾に上陸、現地徴用された日系人二世は通訳として使われた。敗戦に際し、山下奉文将軍らはこの山中で最後まで抵抗、45年9月2日にキアンガンで彼が降伏して、フィリピン人にとっての悪夢の戦争は終了する。しかし日本兵は帰国できても裏切り者とされた日系二世は全員処刑され、日系人は長く山中に隠れ住んで現在に至る。
  山では仲間どうしの信頼関係が全てだ。韓比日の3人で風雨の中、ピークを踏む寸前のこと、小休止のときアンがコリアンと知らないフィリピン人の彼が言った「日本の占領下で最も残虐だったのはコリアンだった。赤ん坊を投げて銃剣でうけたのも彼らだった。皆がそう信じている。」一気に遭難しそうになったパーティを何とか支えつつ、私はキアンガンの将軍の亡霊を見たような心持だった。その后も各地でこの噂のような言説をきくたびに、愛国者たるアンの胸中が想われてならない。
http://www.net-ric.com/advocacy/datums/95_10irohira.html (cache)





■中国人 謝永光著 『日本軍は香港で何をしたか』
(朝鮮人は)一般の日本人よりも背が高く、日本の正規軍よりももっと凶暴だった。
民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、ほとんど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。
当時香港住民は日本軍に対するよりももっと激しい憎悪の念を彼らに抱いた。


■仏誌Paris Match元特派員 アルフレッド・スムラー著 『ニッポンは誤解されている』
別に日本人戦犯の責任を軽減するつもりはないが、占領地域で最も嫌われたのは、このころ日本国籍を持っていた朝鮮人だったことに注意しておかなければならない。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4531080548/249-1372373-3521946


■オーストラリア人ケニス・ハリスン著『あっぱれ日本兵』
彼ら(朝鮮人)は(日本人に比べ)大型で、顔は平たく、知性に劣り、日本人が与えた屈辱を我々に転嫁した。
どんなに試みても、我々は彼らと本当の付きあいは確立できず、体罰となると、日本兵よりも彼らをはるかに恐れた。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4425946316/qid=1099204982/sr=1-1/ref=sr_1_8_1/250-8480028-1317830




『少年育成』96年4月号掲載
■『ミャンマーの人々はビルマの竪琴をどう観たか』

違和感という反応-ビルマの竪琴はどう観られたか
 その理由は、インタビューの中でだんだんはっきりしていった。ここで各シーンに対する被験者の反応を紹介しておきたい。
 まず、シーン1では、「住民の話すことばがぜんぜん違う」という。私が、「日本人が扮しているからか」と聞くと、「もちろん、それもあるが、おそらくこの村はヒルトライブ(山岳少数民族)の村だからかな」と答えた。それから、「ビルマ人は、もっとにこにこしているよ」と登場するエキストラのタイ人たちを指していった。
 また、戦争を体験した世代は、映画の中の日本兵について、「日本兵はあんなに立派じゃなかったな。ガリガリに痩せていたし、惨めな感じで背がもっと低かった。戦後の日本人は体格がよくなったもんだ」と感慨深げに語った。また、「日本人兵より朝鮮人兵の方がきつかった」というようなこともいった。
http://www.asahi-net.or.jp/~cr1h-ymnk/96-02-01.html
(cache) 96-02-01




■Tama大学学長 G・クラーク氏の言葉

元オーストラリア軍人の捕虜の殆どは、収容所の監視員だったChosun人に対する憎悪がある。日本人は捕虜を殴る程度だった。
しかしChosun人は全ての陰湿で執拗な残虐行為を行なっていた。

これらのChosun人BC戦犯を擁護する行動を、日本の左翼がしていた事が信じられない。
Choson人が日本人に比べて、ずっと残酷だったことは、連合国の捕虜の間では常識だった。

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=68269
http://blog.goo.ne.jp/pandiani/e/3dc8d8203cc1df110c03f227136a2644
http://blog.livedoor.jp/baiding/archives/50366339.html
http://blog.goo.ne.jp/think_pod/e/bcd5231b44273901892e8bc4f3d38fa9
http://meinesache.seesaa.net/article/7821046.html




日本軍の捕虜政策-多くの犠牲を出した管理体制-
内海 愛子

 戦争裁判で何が問題だったのか

 戦後日本が戦争裁判で多くの戦犯を生んだということはご存じだと思います。私がいま、戦後補償の裁判で関わっているのは、韓国・朝鮮人BC級戦犯といわれた人たちの補償の問題です。なぜ韓国人・朝鮮人、台湾人が戦犯にならなければいけなかったのか、ここに日本軍の捕虜政策がきちっと反映しているということです。このシステムが理解できないと、例えば朝鮮人が、なぜオーストラリアやイギリスで評判が悪いのか分かりません。

 捕虜収容所の管理体制

 収容所にに捕虜を配置した時、食べさせたり医療の面倒も見なければいけない。ものすごい人手がかかるんですね。東南アジアの場合には、それを朝鮮人と台湾人で補填したのです。だから捕虜収容所というのは、具体的には朝鮮人部隊だといわれるくらい、トップに日本人将校が一人いて、その下に下士官が一人か二人いて、あと全員が朝鮮人軍属なんです。

http://www.ksyc.jp/kobeport/news09.htm




【朝鮮兵の扱いについて旧日本陸軍の通達 】

朝鮮軍司令部 1904‐1945: 本: 古野 直也


一、いつ、いかなる時でも唐辛子粉を食事に際し好きなだけ使わすこと。
一、絶対に頭を叩いてはいけない。怨みを持って復讐することが気質があり、脱走の原因となる。
一、清潔な食事運搬用バケツと雑巾バケツの区別をよく教えること。
一、危険な状況下では銃を投げ捨てて哀号!と泣き出す習癖があるから、日本兵二名で一名の朝鮮兵を入れて行動せよ。


~ 朝鮮人は李朝末期以降、神に近い特権を持った白人を見た歴史をもっていたがここへ来て、心理的にも白人崇拝の観念は消えたらしい。消えたのはいいのだが、困ったことも起きて戦後まで尾を引いている。東南アジアから超銭まで捕虜収容所の警備員として朝鮮人三千五百人が従事していた。弱者に残虐性を発揮する民族性のゆえか、軽蔑ついでに相当な白人苛めを隠れてやっていたらしい。敗戦後、個人的恨みで戦犯に問われ、死刑その他重刑を受けた例が少なくない。白人こそ報復と復讐の大家だったのだから。

(朝鮮軍司令部1904~1945 古野直也著 国書刊行会)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4336031940/

米軍の目に映る韓国軍の姿とは~米軍による韓国兵の扱いマニュアル



【併合時の日本政府から朝鮮総督府への通達】

一、朝鮮人は対等の関係を結ぶという概念がないので、常に我々が優越する立場であることを認識させるよう心がけること。
一、朝鮮人には絶対に謝罪してはいけない。勝利と誤認し居丈高になる気質があり、後日に至るまで金品を強請さるの他、惨禍を招く原因となる。
一、朝鮮人は恩義に感じるということがないため、恩は掛け捨てと思い情を移さぬこと。
一、朝鮮人は裕福温厚なる態度を示してはならない。与し易しと思い強盗詐欺を企てる習癖がある。
一、朝鮮人は所有の概念について著しく無知であり理解せず、金品等他者の私物を無断借用し返却せざること多し。殊に日本人を相手とせる窃盗を英雄的行為と考える向きあり、重々注意せよ。
一、朝鮮人は虚言を弄する習癖があるので絶対に信用せぬこと。公に証言させる場合は必ず証拠を提示させること。
一、朝鮮人と商取引を行う際には正当なる取引はまず成立せぬことを覚悟すべし。
一、朝鮮人は盗癖があるので金品貴重品は決して管理させてはいけない。
一、朝鮮人には日常的に叱責し決して賞賛せぬこと。
一、朝鮮人を叱責する際は証拠を提示し、怒声大音声をもって喝破せよ。
一、朝鮮人は正当なる措置であっても利害を損ねた場合、恨みに思い後日徒党を組み復讐争議する習癖があるので、最寄の官公署特に警察司法との密接なる関係を示し威嚇すること。
一、朝鮮人とは会見する場合相手方より大人数で臨む事。
一、朝鮮人との争議に際しては弁護士等権威ある称号を詐称せる者を同道せる場合がある。権威称号を称する同道者については関係各所への身元照会を徹底すべし。
一、朝鮮人は不当争議に屈せぬ場合、しばしば類縁にまで暴行を働くので関係する折には親類知人に至るまで注意を徹底させること。特に婦女子の身辺貞操には注意せよ。
一、朝鮮人の差別、歴史認識等の暴言に決して怯まぬこと。証拠を挙げ大音声で論破し、沈黙せしめよ。
一、朝鮮人との係争中は戸締りを厳重にすべし。仲間を語らい暴行殺害を企てている場合が大半であるので、呼出には決して応じてはならない。

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