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ゆがめられた聖徳太子の実像

2007年12月16日 | news
【大和に想う】ゆがめられた聖徳太子の実像
12/16 05:06更新
■太子生誕はいつか       
                  
 日本人で聖徳太子の名を知らない人は、まずいないのではないでしょうか。幼児はともかく成人であれば、歴史上の人物としての太子に関心がなくても、かつて1万円札などお札の代名詞になった人としては、なじみが深いはずです。

 ところがこの聖徳太子、名が知られているわりには、もうひとつ実像がうかんできません。記録、伝承がかなり残っているにもかかわらず、なぞめいた部分が多い人なんですね。

 そのせいか、「聖徳太子はいなかった」といった突飛(とっぴ)な説が登場したり、それに反論する著作が話題をにぎわせたり、死去から約1400年も経(た)つのに、いまも日本では超有名人でありつづけているわけです。

 そこでこの欄では、あらゆる空想、奇説を排して、古代から伝わる史料に忠実に沿ったかたちで聖徳太子の実像に迫ってみたいと思います。

 まず、太子の生誕はいつか、です。

 日本書紀には、西暦5 87年の蘇我(そが)・物部(もののべ)戦争に、当時厩戸皇子(うまやどのみこ)とよばれていた聖徳太子が蘇我派の皇子として、参戦したことが記録されていますが、ある史料(聖徳太子伝補闕(ほけつ)記)によれば、太子はこのとき数え年で14歳でした。

 これから逆算すると、生誕は5 74年ということになりますが、これは『上宮(じょうぐう)聖徳法王帝説』というもっとも古い太子の伝記に「甲午(こうご)年(574年)産(う)まれ」とあるのに一致します。

■厩戸の逸話はウソ

 さて、太子の生誕が5 74年だったということは、なにを意味するかを考えてみましょう。

 太子の父は第31代用明(ようめい)天皇ですが、太子が生まれた年は、父が即位するより11年もまえだったということになります。

 この時期は太子の父の異母兄、敏達(びだつ)天皇が皇位にあって天下に臨んでいました。皇位継承者の皇太子に立てられるはずの長子、押坂彦人大兄(おしさかのひこひとのおおえ)(天智天皇の祖父)は、このころはまだ健在です。

 つまり敏達天皇の異母弟で、蘇我系の皇子の一人にすぎなかった聖徳太子の父は、太子が生まれたときは、皇位からほど遠いところにいたことになります。

 太子の母は、のちに穴穂部(あなほべ)の間人(はしひと)皇后とよばれる女性ですが、夫が即位する11年もまえであれば、太子生誕のとき、夫とともに皇居に住んでいるはずは絶対にないんですね。

 こうしてみれば、日本書紀が採録しているつぎの有名なエピソードは、まったく事実に反しているのがわかるのです。

 「皇后は臨月をむかえ、出産まぎわという日に、禁中(皇居内)を巡行(じゅんこう)して庁舎をみまわっておられたが、馬官(うまのつかさ)に至って厩(うまや)の戸に当たり、そのおかげで楽に太子をお産みになった」

 おそらく、厩戸皇子とよばれていた太子の名前から、こんな説話が生まれ、それを日本書紀が採録したということにすぎないのでしょう。日本書紀が完成したのは、聖徳太子の死の約1 00年後ですから、太子の生涯はこのように、事実とかけはなれたかたちで伝説化していたと思われます。

■キリストのまね?

 この厩戸皇子という名前ですが、これについてはイエス・キリストの生誕伝説から採ったとする学説があるのは、ご承知かと思います。

 非常に興味深い説で、ひろく知られているのですが、結論からいいますと、根拠とするところが弱すぎますね。

 たしかに日本書紀が編纂(へんさん)されたころ、キリスト教の一派、ネストリウス派(景教(けいきょう))が唐の都、長安に入ってきていました。だからといって、馬小屋で生まれたというキリストの生誕伝説をまねて、聖徳太子の厩戸皇子という名がつくりだされたと断定するのは、いかがなものでしょうか。

 これが釈迦の生誕伝説をとりいれたというのなら、わかります。しかし、キリストについては当時の日本で、はたして聖人とされていたかどうか。そんな知識をはやばやと取り入れた人がいたとしても、それによって太子の幼名を考え、日本書紀編纂にさいして、架空の命名をするなどということが、ありうるでしょうか。

 さきにあげた『法王帝説』は、日本書紀よりざっと100年もまえの記録を書きとめているのですが、そこにすでに「厩戸」の名が出てきます。そのころはまだ、キリスト教は中国(隋、唐)に入っていなかったはずですが、そのあたり、この学説ではどう説明するんでしょうね。

 いずれにしても、日本の超有名人です。1万円札は福沢諭吉にかわりましたが、聖徳太子への国民的関心は、なお衰えることなく続いていくものと思われます。

 (編集特別委員・八木壮司)
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/books/110022/







英女王訪問で、豪で立憲君主制から共和制への移行論議が再燃

[シドニー 13日 ロイター] 5日にわたり、イギリスのエリザベス女王が15回目を数えるオーストラリア公式訪問を行う中、国内ではエリザベス英女王を国家元首とする現在の立憲君主制を廃止し、オーストラリア人から国家元首を選ぶ共和制に移行することについての議論が再び過熱している。  13日、エリザベス女王は新たな回廊のオープニング・セレモニー出席のため、オペラハウスを訪問。多くの市民と観光客がオーストラリアの小旗を振って女王を歓迎した。  しかし14万人以上の人々を対象に行われたインターネット調査によれば、57%が共和制移行を支持。オペラハウス周辺に子供連れで訪れていた女性の1人も「オーストラリアの女王だからというより、ただ有名人みたさと盛り上がりに乗せられて見にきただけ」と述べた。  オーストラリアはイギリス人開拓者上陸以来、イギリスの国王・女王を国家元首とする立憲君主制を218年にわたり維持しているが、共和制への移行に関する問題は1999年実施の国民投票で共和制移行がきん差で否決されてから、ずっと議論が続けられている。

ロイター
http://today.reuters.co.jp/news/newsArticle.aspx?type=worldNews&storyID=2006-03-16T142254Z_01_NOOTR_RTRJONC_0_JAPAN-206594-1.xml


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