「硫黄島からの手紙」に主演の渡辺謙

2006年12月04日 | Weblog
「硫黄島からの手紙」に主演の渡辺謙
戦争を検証する“幸運”
 昭和戦争末期に日米が激戦を繰り広げた硫黄島。米国を代表する映画人、クリント・イーストウッド監督が、そこで戦った日本の男たちを描く「硫黄島からの手紙」が9日から、公開される。栗林忠道・陸軍中将を演じた渡辺謙は「これは、クリントが撮った日本映画」と語る。(恩田泰子)

 「硫黄島からの手紙」は、イーストウッド監督が、日米それぞれの視点で硫黄島の激戦を描いた2部作の第2作。米側から見た第1作「父親たちの星条旗」は公開中だ。

 物語は、硫黄島に日本の男たちが残した膨大な数の手紙が掘り出される場面から始まる。彼らは何を思って戦い、手紙に何を託したのか。61年前の姿が描かれる。

 渡辺が演じる栗林中将は、合理的だが意表を突く戦術で、1日でも長く祖国を守ろうとした指揮官。留学経験のある米国通でもあった。一方で、家族あてに膨大な手紙を残している。

 当初イメージしたのは、「軍人として強く、家庭的な部分もあった人」。だが、用意された英文資料以外の逸話や証言をたどるうちに、合理的行動の背景にある独特の思考に気づく。

 「単なる二面性ではなく、多面的な人物像を感じた」。そこで、13の逸話をノートにして監督と脚本家に渡し、作品に反映することを提案。「彼の深さをすくいあげる」ことを共に目指した。

 栗林は手紙で留守宅を細々と気遣っている。「一面的に見ると、家族のことを常に考えている人。でも、悪化する戦況を認識していた彼にとっては、ある意味逃避というか、書いている瞬間だけ父や夫でいられる感覚だったのでは」。撮影で硫黄島を訪れ、過酷な状況を実感した時、「その考えは間違いではなかったと思った」という。

 監督は速いペースの撮影で知られる。この作品でも中盤以降、リハーサルなしで本番という、「ドキュメンタリーのような感覚」で撮影は進んだ。そのためにも事前の調査や議論は重要で「現場では、とにかく栗林になってそこにいた」。

 撮影中は、ほぼ全編で使われる日本語の言葉遣いなどに目配りする役割も買って出た。撮影期間の9割、現場にいたのも、「半端にはしたくなかった」からだ。もっとも、演出上は言葉の壁を感じなかった。「外国の演出家が舞台をやる時と同じで、表現は伝わる」

 日本人とその歴史、文化を描いた点で「日本映画をクリントが撮ってくれた」と言う。が、「日本の映画人としては早く着眼して撮るべきだったという忸怩(じくじ)たる思いはある」ともいう。

 「でも、少なくとも今、きちんと戦争を検証する作品と巡りあえた幸せを感じるほうが前向き。悔しいと思うより、日本も違った形で克明に検証する映画を作るべき」。作品ごとに世界を広げる表現者の気概がにじんだ。

(2006年12月1日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/cinema/topics/20061201et08.htm?from=os1




映画「硫黄島からの手紙」 栗林中将役渡辺謙さん、遺族と対面
長野で試写会

試写会の招待客を迎える渡辺謙さん(左)。中央奥は栗林直高さん
 長野市出身で昭和戦争末期の硫黄島で米軍との死闘を繰り広げた旧日本陸軍の栗林忠道中将(戦死)を主人公にした映画「硫黄島からの手紙」(クリント・イーストウッド監督)が完成し、ゆかりの人々を招いた試写会が2日、同市で開かれた。

 作品は、戦いを日米双方から取り上げた2部作の一つ。栗林中将は、同市松代町西条の出身で、現在も、兄・芳馬さんの孫の栗林直高さん(61)が生家を守っている。

 1945年2月に始まった硫黄島での戦いは壮絶を極めた。本土爆撃への足掛かりとして攻略を図り、上陸作戦を展開した米軍と、地下要塞(ようさい)を築いて死守しようとした日本軍との戦いは36日間に及んだ。

 栗林中将は、戦場からも妻や子供らに手紙を送り続け、生家にも44年11月以降に硫黄島から送られたものなど、約300通が残されている。

 試写会は、9日からの一般公開に先立ち、ゆかりの人たちにお披露目しようというもので、栗林中将を演じた俳優の渡辺謙さんも駆けつけた。

 会場の「長野グランドシネマズ」(長野市権堂町)には、直高さんはじめ、栗林中将の孫、新藤義孝衆議院議員など関係者ら約140人が集まった。

 映画を観賞した直高さんは、「栗林忠道という忘れられた軍人の人間性にスポットがあたり、うれしい」などと感想を語った。

 また、試写会前には、渡辺さんが同市松代町豊栄の明徳寺にある栗林中将の墓を訪れた。記者会見した渡辺さんは「青空の下で墓参りができた。栗林中将の多くの気持ちを代弁できたかなあと思った」と話していた。

(2006年12月3日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nagano/news002.htm






■■ Japan On the Globe(474)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

人物探訪: 加藤友三郎 ~ ワシントン軍縮会議・全権代表

「アドミラル・カトーは、ワシントン会議において
日本が表明した名誉ある協調的精神の責任者」
■転送歓迎■ H18.12.03 ■ 35,050 Copies ■ 2,310,074 Views■

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■1.ワシントンのホテル・ショーハムにて■

 ワシントンの瀟洒なホテル・ショーハムの3階の部屋で、海
軍大臣・大将、加藤友三郎は瞑目していた。1921(大正10)
年11月11日、ワシントン軍縮会議が始まる前日であった。

 テーブル上に広げられたワシントン・ポスト紙には、
"Japanese Prime Minister Assasinated"(日本の首相暗殺さ
れる)と、大礼服姿の原敬首相の写真とともに報じていた。

 10月15日、出発の際の歓送会で、原首相が「加藤さん、
軍縮のことは頼みますぞ」と手を握ったそのぬくもりを加藤は
覚えていた。それからわずか3週間後の11月4日に、原は凶
漢に短刀で刺殺されたのである。

 加藤は海軍大臣として戦艦・巡洋艦各8隻からなる「八・八
艦隊」建設の中心的な推進者であったが、その予算提出の際に
原首相は加藤の意見をよく聞いてくれた。そして閣議が一転し
て、軍縮に転ずるときも、軍拡よりも財政の均衡を考える時期
であるという点で、二人の意見は一致していた。

 その原の遺志を継いで、加藤は、明日からのワシントン軍縮
会議では、随員中の増強派、加藤寛治・海軍中将や末次信正
・大佐を抑えて、軍縮の成果を上げねばならぬと心に誓った。

■2.軍拡競争から軍縮へ■

 八・八艦隊建設は、日露戦争後から海軍の宿願となっていた。
ハワイ、フィリピンと西に勢力を伸ばしてくるアメリカ[a]と
の将来起こりうるかもしれない決戦への備えとして、どうして
も実現しなければならない課題であった。

 そのアメリカは戦艦16隻の大艦隊を1924年までに揃える計
画を進めていた。太平洋に覇を唱え、中国に進出するには、日
本よりも5割以上優勢な海軍力を保持することが必要だと、ア
メリカは考えていた。しかし、アメリカの国力を持ってしても、
16隻の戦艦を建造することは容易ではなく、1921年に至って
も、まだ1隻が完成したのみであった。

 一方、イギリスは第一次大戦には勝ったが、国内は疲弊して
いた。米日の建艦競争を横目に見るのみで、新型戦艦の建造も
ままならなかった。このままでは世界一流の海軍国の座を失っ
てしまうと焦っていた。

 英首相ロイド・ジョージは、列国同時の軍縮を考えたが、自
ら主唱するのは大英帝国のプライドが許さないので、アメリカ
を巻き込んで主催国にするよう根回しをした。アメリカの方も、
戦艦16隻の大計画を持てあましていた所であり、軍縮によっ
て日本の海軍力を6割程度に縛っておければ、労せずして太平
洋に覇を唱えることができると、賛同した。

 英米からの軍縮会議の提案に、日本政府も賛成した。日本と
しても八・八艦隊の建設に国家予算の3割近くを費やしており、
国民の負担を軽減するためにも、仮想敵国のアメリカから軍縮
を持ちかけられたら、断る理由はなかった。

■3.アメリカの爆弾提案■

 1921(大正10)年11月12日、ワシントン軍縮会議が、
ホワイト・ハウス近隣のコンチネンタル・メモリアル・ホール
で開会された。

 米大統領・ハーディングの開会挨拶の後、議長のチャールズ
・ヒューズ国務長官が突然、軍縮の具体案を含む爆弾演説を行っ
て、各代表の度肝を抜いた。ヒューズは、艦名までを具体的に
挙げて米英日の主力艦の廃棄量と保有量を次のように提案した。

廃棄 保有
米 30隻85万トン 18隻50万トン
英 23隻58万トン 22隻60万トン
日 17隻45万トン 10隻30万トン

 さらに協定成立後10年間は建艦休止とするが、艦齢20年
に達した老朽艦は代艦建造を認めるものの、その排水量は3万
5千トン以下とすること。

 廃棄総量190万トン近くの史上空前の大軍縮案であった。
しかも数字だけ見ると、いかにも米英の廃棄量が多いように見
える。しかし、英の廃棄量には紙上計画に過ぎない戦艦4隻
17万トンは「すでに経費を支出した」として含んでいながら、
日本の計画中の8隻は建造に未着手として、廃棄量には含まれ
ていなかった。

 さらに、すでに進水した「陸奥」と建造中の6隻の合計7隻
が廃棄とされていた。特に陸奥は、すでに進水していた長門と
並んで、40センチ砲を積む超弩級戦艦で、当時、世界でこれ
に対抗しうるのは、アメリカの「メリーランド」ただ一隻であっ
た。また、代艦を3万5千トン以下としたのも、パナマ運河を
通れる最大の大きさであり、5万トンの巨艦を計画していた日
本に対する牽制であった。

 公正かつ史上空前の大軍縮に見せかけながら、自らに有利に
事を運ぼうという、いかにもアングロサクソンらしい、したた
かな提案であった。

■4.「日本は主義において喜んで米国の提案に賛成します」■

 その夜、加藤は、寛次と末次を自室に呼んで、相談をした。
二人は「これでは、太平洋の防備には自信が持てません」「ど
うしても対米7割は確保すべきです」と語気鋭く、加藤に詰め
寄った。

 加藤は、外人記者達が「アドミラル(提督)・ポーカーフェ
イス」とあだ名をつけた、能面のような細面に冷ややかな微笑
を浮かべて言った。

 まあ待て。国際会議というものは、初めから手の内を見
せるものではあるまい。アメリカもカードを全部開いて見
せたような顔をしているが、アングロサクソンのことだか
ら、どのような切り札を残しているか知れたものではない。

 2日あけて、15日に第2回会議が開かれた。英全権で外交
界の長老アーサー・バルフォアは、白髪の長身で貫禄を示しな
がら、無条件受諾を明言した。米提案はイギリスにも有利なよ
うに仕組んであり、両国で日本を押さえつけようというもので
あった。

 バルフォアの後に、加藤が立った。ホールを埋めた聴衆は、
加藤の細面をひしと見つめた。「日本は主義において喜んで米
国の提案に賛成します」と加藤がまず述べると、満場が総立ち
になり、一斉に拍手が湧いた。加藤はポーカーフェイスで続け
た。

 ただし、国家がその安全を保障するのに必要な軍備を維
持すべき事は、一般に容認されているところである。

 そして、調査の上、追って修正案を提出するが、この問題は
海軍専門家の特別審議に付すべき、と提案した。会場は再びざ
わめいた。

 米英が「平和のために」と推す軍縮案に、日本が躊躇を示し
ては世界に信を失うことになる。そこで「主義において」受諾
して日本の平和的姿勢を示した上で、細目は専門家で議論を煮
詰めよう、という、いかにも老練な姿勢であった。

■5.「対米7割は日本防衛の絶対に譲れぬ最低線である」■

 翌16日、海軍の専門家による委員会が開かれた。議長は第
2次大戦時に大統領を努めるフランクリン・ルーズベルト海軍
次官、日本代表は艦隊増強派のホープ・加藤寛治中将であった。

 寛治は対米7割を強硬に主張して、議長のルーズベルトと激
しくやりあった。そして「対米7割は日本防衛の絶対に譲れぬ
最低線である。これが獲得できぬ限り、日本は会議を脱退して
帰国する」と発言して、他国の代表たちを驚かせた。

 これを聞きつけた内外の記者たちが、加藤友三郎のもとに押
しかけてきたので、加藤は「いや、それは加藤君の個人的見解
とみてもらいたい。全権団としては、脱退帰国などは全然考え
ていない」と、相変わらずのポーカーフェイスでその場を取り
繕った。

■6.激怒とポーカーフェイス■

 しかし、その夜、加藤は寛治を自室に呼んで、ポーカーフェ
イスをかなぐり捨てて、怒鳴りつけた。

 君はこの全権団の任務を何と心得ているのか。こんなこ
とで日本が会議を脱退したら日本は会議分裂の国際的責任
を負わされることは必定である。平和を乱す軍国主義者と
いう汚名をこうむるかも知れないのだ。・・・

 今後こういうことがあったら、君だけ帰国を命ずる。専
断の行為に対しては処罰の道を考えるから、そう思え!

 寛治は打ちしおれて「申しわけありませんでした」と謝罪し
た。寛治が海軍兵学校の生徒であったとき、加藤はその教官と
いう立場にあった。日本海海戦の際には、加藤は連合艦隊参謀
長であったが、寛治はまだ少佐であった。寛治は将来の連合艦
隊司令長官と目される艦隊増強派のホープであったが、彼を抑
えうるほとんど唯一の人物が加藤であった。

 もっとも、この激怒の裏にももう一つのポーカーフェイスが
あったのかも知れない。国内の増強派のリーダーを国際交渉の
矢面に立たせて、言いたいことを言わせた上でないと、対米6
割の収まりがつかないと考えていたようだ。

 そして、記者団に対しても、「加藤中将が7割を主張してい
るのは、戦術上の根拠にもとづくものである。全権としては、
今少し論議を尽くしてから結論を出したい」と公言し、曖昧な
態度を取り続けた。

■7.「アドミラル・カトー > ヒューズ+バルフォア」■

 寛治の対米7割に「戦術上の根拠」があることは、ルーズベ
ルトをはじめとする米海軍作戦部がそれに強く反対していた事
からも窺える。仮に日米決戦が勃発した際、米海軍は3割を大
西洋に残し、7割を太平洋側に投入したとしよう。その米艦隊
が日本近海にたどり着くまでには、日本の潜水艦や水雷戦隊に
より6割に漸減しているだろう。そこで日本の7割と戦ったの
では、米艦隊は小笠原諸島付近で壊滅してしまう。ぜひとも日
本を6割に抑え込んでおく必要があった。

 6割か7割かの議論は、専門委員会では決着がつかず、いよ
いよ12月2日から全権どうしによる本会議が始まった。米側
は頑として6割の主張を変えず、加藤も寛治の調査したデータ
をあげて反駁につとめ、会議はデッドロックに乗り上げた。

 この頃は加藤もすっかり議場に慣れて、ポーカーフェイスに
貫禄がつき、米人記者たちも、「アドミラル・カトー > ヒュ
ーズ+バルフォア」といった数式で、加藤の存在感を表現した。

 米側も必死である。もし軍縮会議が決裂したら、招集した米
国の面子は丸つぶれとなる。ヒューズ国務長官やルーズベルト
海軍次官ら、当局者のキャリアにもキズがつく。

 そこを狙い撃つように、加藤はこう切り出した。

1.日本は6割をも考慮する用意があるが、米国側に戦意
無しという保障がなければ、6割で国民を承服させる
ことは難しい。フィリピンやグアムを要塞化し、大海
軍根拠地を構えるようでは、日本から見れば容易なら
ぬ脅威である。これらの海軍根拠地たる防備をやめて
貰いたい。

2.陸奥は98パーセントまで出来上がっているのだから、
既成艦として認めて貰いたい。

 ヒューズとバルフォアの面に安堵の色が浮かんだ。加藤の要
求をベースとした史上空前の大軍縮の主要部分が、12月15
日にコンチネンタル・ホールで公表された。

■8.東郷の笑み■

 加藤が帰国したのは、翌大正11(1922)年3月10日のこと
であった。おりしも帝国議会が開催中であり、加藤は早速答弁
に立たねばならなかった。その慌ただしい中で、海軍首脳によ
る歓迎慰労会が開かれた。

 加藤はまっさきに東郷平八郎に挨拶をした。随員であった末
次信正は、興味深くその様子を眺めていた。軍備増強派のシン
ボルで、対米強硬論者といわれる東郷が、対米6割では不満ら
しい、という噂が流れていたからである。

 しかし、東郷はにこやかに笑みを浮かべ、「いや、加藤どん、
ご苦労でごわした。おはん、ようやってくれよりもした」と厚
くねぎらった。末次はがっかりした。

 日本海海戦で、東郷が連合艦隊司令長官を務めた時、加藤は
参謀長であった。砲戦が始まって以降の艦隊指揮は、ほとんど
加藤が独断でとったと言われるほど、東郷の信頼を得ていた。

 加藤はワシントン会議に出発する前に、密かに東郷と会い、
「英米との協調を崩さず、いかようにしてもこの会議をまとめ
る」との内諾を得ていたのである。さらに会議中にも電文で、
「6割やむなし」という中間報告もしていた。軍備増強派が東
郷をかついで「対米6割」に反対しようという動きを、加藤は
あらかじめ封じていたのである。

■9.「加藤があと10年長生きしていたら」■

 この年の6月12日、加藤は原の急死の後を継いだ高橋是清
首相が総辞職をした後、総理大臣に就任した。ジャパン・アド
バタイザー紙は、こう好意的に報じた。

 今日世界の眼に映ずるアドミラル・カトーは、ワシント
ン会議において日本が表明した名誉ある協調的精神の責任
者として際だっている。従って今日本が彼を起用して政府
の首班たらしめることは、とりも直さず、ワシントン条約
の字句、精神二つながら、これを実施せんとする日本の誠
意を最も雄弁に裏書きするものということができる。

 加藤の在任期間は、大正12年8月に大腸ガンで死去するま
でのわずか、1年2ヶ月あまりであったが、その間に、ワシン
トン会議で約束したシベリアからの撤兵を断行し、また海軍軍
縮と同時に陸軍5万6千人の人員削減を実現させた。

 加藤があと10年長生きしていたら、その後の5・15事件、
満洲事変、2・26事件という大東亜戦争への道もまったく異
なっていたであろうと指摘する人は少なくない。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(014) Remember: アメリカ西進の軌跡
 アメリカは、自らが非白人劣等民族の領土を植民地化するこ
とによって、文明をもたらすことを神から与えられた「明白な
る天意」と称した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h9/jog014.htm

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 豊田穣『蒼茫の海―海軍提督 加藤友三郎の生涯』★★、
集英社文庫、H1
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4087494772/japanontheg01-22%22

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