テス君の部屋

観光、旅先での風景や印象に残った事・日常の事などをできる限り写真を付けて気ままに書いていきたいと思っています。

義仲寺に眠る木曾義仲

2008年02月14日 | 寺院・仏閣
義仲寺は、大津市馬場一丁目にあり、朝日(旭)将軍木曾義仲公の御墓所である。

寺伝によれば、この地(粟津ヶ原)に果てた義仲の小さな塚に愛妾巴御前と思われる
美しい尼が読経に通い、のちに傍らに結んだ庵に始まるとされ、天文22年(1553)
近江の国主佐々木六角氏が寺を建立したといいます。
毎年1月第3日曜日「義仲忌」が義仲寺で行われている。

『平家物語』の白眉の一節「木曾殿最期の事」より
元暦元年(1184)正月二十日、京都河原合戦に敗れた義仲は、幼馴染みの今井兼平を
捜して瀬田へ行き、鎌倉軍の重囲を破って近江の粟津まで落ち延びる。
しかし兵は残り少なくなり、彼は運命がきわまったことを覚悟する。
義仲は同行していた巴に、彼の最期を故郷の人々に伝え、後世をともらうことを託して
戦場を離脱させる。
巴は「さらば最後のいくさをしてお目にかけましょう」と御田八郎師重という坂東武者
を討ち取って、涙を抑えて落ちていった。
そののち義仲と兼平の二騎だけになり、義仲の次の言葉から始まる会話がある。
「日来は何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなったるぞや」
兼平は弱気になった義仲をはげまし、自害をすすめる。だが義仲は、兼平とともに戦って
討死にしようとする。兼平はそれを強く諫止し、義仲もそれに従って松林に入ろうとするが、
馬が深田におち入って動けなくなった刹那、奮戦する兼平をふり向いて内甲を射られ、討死にする。
今井兼平はそれを見て、壮絶な自害をとげる。(兼平のお墓はJR石山駅近くにある)

義仲の菩提寺として長野県にある「徳音寺」があります。
徳音寺は義仲が母・小枝御前を弔うため、1168年に建立したお寺で木曽氏の菩提寺。
徳音寺の梵鐘は木曾八景の一つ。
境内には、義仲や小枝御前、愛妾・巴御前、今井兼平、樋口兼光のお墓もあります。
場所は、JR宮ノ越駅から5分ほど、長野県木曽郡木曾町日義124-1。

義仲は多くの人々に愛されています。
松尾芭蕉をはじめ文豪・芥川龍之介もその一人で「木曾義仲論」という文を書いています。

写真は木曾義仲公のお墓


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