愛と自由に満ちた幸福な生活は公平であるべし、人権・平等・平和が生きる人の権利

原理  自由・愛・公平
原則 人権・平等・平和
私が在る限り貴方は有り
貴方が在る限り私は有る

生命体としての存在論 2、自由と愛

2022年09月16日 | 生命体としての存在論
2、愛と自由  頭の中にたまった叙事叙情として

 生命体としての愛と自由を考えます。
 存在論として唯心論や唯物論があるならば生命体としての存在論もあり得ます。
生物学が自然科学として、人類の歴史及び生命存在を証すならば、第一の定理”生きること、命をつなぐこと”が生命体としての永続性を保証する原理です。そこには生存と命の継承が絶対である生物界の掟があります。今日では過酷な生存競争を文明として覆い隠し、残酷さ、冷酷さをオブラートに包む文化が確立してきました。少なくとも生物界の中での人類の行為を善悪で一刀両断に断じ、ゴッドとサタン或いは、福は内鬼は外に2分する世界観は不合理です。歴史として総ては人間の為せる生業であり、総ては自身が受け継ぐアイディンティーです。
 第二の定理、”私が在る限り貴方は有り、貴方が在る限り私は有る” As far as I am,you are here. As far as you are,I am there. 略して AS FAR YOU`RE
 これは生命体の存在論として成立します。生物は生命の設計維持情報、生活情報としてのDNAだけで無く、人類は文明文化を次世代に継承し発展させる知恵を身に付けました。ピタゴラスの定理やアルキメデスの原理は数学や物理の科学情報として伝承されています。
 生命体としての存在は生命誕生からの歴史であり、人類誕生からの歴史があります。言葉は言葉として存在します。しかし、それが科学のように実態を伴なわない観念論が虚構の存在として成立してきました。その中でコミュニケーション全体としての言葉は様々に発達誕生し、文明文化を作り上げてきました。生命科学は近年驚異的に発達し、大脳の働き、知能や意識の働きが解明されつつありす。文明文化的な刷り込み、アイデンティティの中で育ち成長した現代人とって、美しき虚構と現実のギャップは軋轢を重ねます。
 人間は生命体として本能としての働きDNAの継承だけで無く、文明文化を継承します。生命体が他の遺伝子を組み込むことで突然変異が発生するように、試行錯誤の中で言葉も変異し新たな言葉、芸術の文明文化が出現します。それは、刷り込みによるだけで無く地域や国、時代を超えて先人が残した生きた証が継承、発露します。

 人類史の文化を見れば自由は最近に確立した概念です。じまま(自侭)な行動が拡大すれば他者の行動を制限し、他者を支配する権力構造が発生します。一対一の人間関係で有れば完全な支配服従から、どちらが主導権を握るか?等、対等な人間関係とは?
 自由は権利としての自由 liberty cf:自由の女神the statue of Liberty と個人の嗜好選択の自由 freedom cf:信仰の自由freedom of religion があります。
 自由はフランス革命以来、自由、平等、友愛が文明国家の標語として確立しました。国家や宗教に抑圧されて来た人間にとって人権の確立は希望の時代でした。
 しかし、それ以降も国家による戦争は人間の自由を根底から破戒してきました、自由を守る戦い、自由と自由をめぐる生存の権力闘争は今も続いています。権利としての自由が確保されても、グローバル化とあらゆる物が商品化され、お金を持つ人の自由と持たない人の自由の格差は拡大しています。世界は今、自由主義バンザイの資本主義社会、北欧では個人の自由を重んじつつも高福祉国家の時代になっています。
 産業革命以降の労働者の貧困、悲惨な生活の中でマルクス、エンゲルスの共産党宣言、労働者階級よ団結せよ、は党による権力独占の国家が誕生しました。ロシアのウクライナ侵攻は帝国主義国家との違いは見いだせません。日本が帝国主義戦争で敗戦してすぐに、東西対立の戦争が朝鮮やベトナムで宗教や石油資源も含め戦火は絶えません、生産の貧しさゆえに人類の原始共産社会は群社会として生活する時代が長く続きました。
 私は原始共産社会を信用しません。現代社会に順応できず、疎外されドロップアウト、或いはニートの若者を想起します。原始共産時代は若者にも個人の尊厳と平等の概念が有ったのでしょうか?食べる事で一杯の生活では”掟”はあっても人権は望外のことです。共同体の掟に従順で無ければ生きて行けません。
 プロレタリアート独裁は共産党独裁であり、権力支配は個人の尊厳、平等よりも支配維持が中心のドグマです。原始共産制のドグマから知識人階層を一掃したカンボジアを思い出します。
 好戦的なボス社会のチンパンジーや平和的なメス主導のボノボとは違った一夫一妻を発展させてきた違いが、メスの発情の違いである知識がエンゲルスに有れば違った方向に歴史は進んだかも知れません。人類が性を秘事とすることで一夫一妻を維持する文化を構築してきましたが、性の多様性と人権意識の高まりの中で事実婚、契約婚の時代が始まっています。過去の婚姻制度の中でも15の法則として夫の子供では無い確立が15%も有ったと言う報告があります。不妊、妊娠しない原因は男女50%のようです。生命史の流れはy遺伝子が対で無いため補完されすに短くなってきているようです。

 個人一人一人に人権があり、人権と自由は並立して共存します。気儘な自由は愛も自分勝手な愛で満足します。つまり、自由と愛は人権があって初めて担保されます。個人への権力の集中を排除することが民主主義です。一人一人の人間に人権があるならば、相手の人権を認める必要があります。弱い立場の人に対する接し方にその人の人権意識が表れます、差別の根源は弱者に対する自己の苛立ちの解消であり、侮蔑で自己の優位を満足させる浅ましい根性です。
 国家の憲法としての3原則、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義が成立します。世界が確立すべき原則は -平和、人権、平等- です。
 その前提として人類が持つべき生命の原理は -愛、自由、フェア(公平)-です。
 政治制度として民主主義になりますが、残念ながら日本、とりわけ大阪の新自由主義の台頭と伴に、自由と民主主義の根本的なはき違え、選挙で勝ったもん勝ちの権力指向は国政でも国会軽視、公文書改ざん、モリカケ桜、やりたい放題と多大な影響を与えました。
 文句があるなら貴方が首長になればいい。古い発想ですが、もとより多様性のある個人の人権、自由を尊重し、妥協を計りながら多数の幸福に寄与するための民主主義が多数派による専制政治に貶めました。権力の独占を排除するための3権分立、国権の最高機関は国会のはずが内閣専制の状態です。
 選択的夫婦別氏制度は外国ではそれが普通のため、日本人と外国人の結婚では認められていますが、日本人同士では認められていません。多様性を認めない政治は個人の自由の侵害、人権軽視あり、民主主義を否定する政治です。

 日本の戦前までの家父長制度では自由は有ったでしょうか?家長が権力を持ち家人を支配していました。しかし、家長が自由であったとは必ずしも言えません。権力支配システムの歯車の役割を担う役割に縛られていました。人は共同社会の中での役割を担って生活しています、役にたって初めて生活が成立します。軋轢を嫌って出家遁世、出奔、逐電、駆け落ち、家出などの様々なパターンがありますが、現代では人権の確立と伴にかなり自由度が上がっています。逆に孤立する自由としてニート引きこもりで生活できる社会問題もあります。
 自由が幸福の一つの重要なな要素であり、貧富の格差の中でお金が自由を計る尺度としても、お金の量が幸福の決定的な要素ではありません。お金を至上とする守銭奴から、お金を稼ぎ、維持することが生活の主題になれば逆に自由の質は落ちます。或いは、8時間労働から1,5倍の12時間労働で収入が1,5倍になったとしても自由の質は落ちます。
 日本では自由な働き方、改革等が正規、非正規労働での格差を拡大しています。しかし、格差の拡大縮小は分配の問題であり政治の問題です。江戸時代、江戸っ子は宵越しの銭を持たない粋の文化、江戸の掛け売り文化、一説では盆暮れの年2回の殿様支払い、無い袖は振れない生活を楽しむ文化もありました。
 リバティーの自由が問題とされるのは文化、政治、宗教等による抑圧であり、規制です。近代になって確立された個人の尊厳、人権が疎外され抑圧されることです。そして、自由が自我の欲求とするならば、愛も対象を大切にするという自己愛、親子愛、兄弟愛、夫婦愛、共同体愛などいづれも自我の維持拡大でしかありません。自然界の動物が子育てに必死な姿は人間も行う同じ行為です。鳩の親が子の面倒を見、カラスに襲われそうになれば体を張って防ごうとする本能は人間も同様です。
 赤子が快不快の自己主張で養育する母親からの愛を受けることで成長します。そして、文化の伝承の中で、時代や場所に制約された自由や愛を学び、時代の継承者になります。社会への反発反抗はアウトローとして疎外され、その社会の文化を受け入れ順応して初めて成人と認められます。現代では個人の人権がかなり認められる時代になりました。しかし、未だに組織の中で長老ががマウントを取るピラミッド構造が残っています。一部の村社会や体育会系クラブ、お笑いや芸能の世界、ブラック企業での人権侵害です。DVや幼児虐待も他人を自己と同様に敬重すべきという人権意識と自制心の欠如です。自らもその不合理に耐え、今が有る思い上がりです。アダルトチルドレン症状と役得意識です。父母を敬い従う、文化を継承する。幼児児童の自我の拡充のママに成長した証です。それは何代にも渡る長い支配と従属、隷属の人類の歴史の中で継承されてきました。この反省、批判無しに薦められる道徳教育の教科化はオシツケでしかありません。上から目線、父母の愛に感謝し、協調性、同調性が求められ、社会秩序の継承維持の道徳学習に反発と抑圧を感じます。子供にとって大人に成長する最重要課題は人権尊重や多様性の承認です。子供に対しても人として自分と同様に接する。それが民主主義の根幹です。
 学校での体育で、集団行動とは日体大のアクロバティックな行進が代表する集団行動になっています。組体操よりも危険が少ないことで小学高学年より取り組みが有ります、集団の中での規制された様式美を求めた統一行動です。美しさと難度が求められる程に個人の人権、多様性を認める教育から排除される生徒が多くなります。それは民主主義の教育では有りません。多数の生徒の運動能力の正規分布の中央値に合わせる困難さは、指示命令に従う従順さと努力が必要になります。それが共同社会での生活で暴走しがちな自我を自制する訓練につながるとは思いません。集団として運動能力に多様性ある教育現場で助け合う行動が無ければ、大戦末期の個性無用の社会になってしまいます。多様性を認める教育は協調性や同調性の圧力では無く、違いを認め助け合うことに美しさを見出すグラデーションの様式美が必要です。
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続く



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