昴星塾(ぼうせいじゅく)のブログ

リサ・ロイヤルの「ギャラクティック・ルーツ・カード」に親しむ会。不定期の掲載。

仏教の応用ー1:仏教と占い(易占を含めて)-1

2010年09月19日 | 日記

2010年9月20日

仏教の応用―1:仏教と占い(易占を含めて)-1

 易占は当たるのでしょうか?まずは、当たるも八卦、当たらぬも八卦、という言い草を信じておきましょう。冷静に考えてみてください。易占いから答えが出たとして、それが真実を告げているか、虚偽?を告げているか、あなたにどうして見分けがつくでしょうか。街頭で占い師が座っています。見てもらったとしましょう、何か易はこう言っているといわれたとしましょう。それを鵜呑みにされますか?

 では、易で占うことは無意味なのでしょうか。もしそうなら、人びとは何千年も占いに答えを求め続ける理由がわかりませんね。占いは易がすべてではありません。皆さん、神社にお参りされたことは全くありませんか?おみくじを引いたことはありませんか?おみくじを引いてそれについてどうされていますか?ほんのお遊びだと割り切って、皆で大笑いしてそれで忘れてしまいますか?凶とでたら、枝に結んで帰ってすぐ忘れますか?凶のおみくじの「内容」までよく読んで、何か教えられているかもしれない、と向き合いますか?

 神社の神様は、おみくじを引いた人の心構えに応じて、それに対応するものだけを教えてくださる、と考えたことがありますか?時々、吉がでるまで何回でも引く人がいます。あなたはそれをどう思われますか?最初の答え、次の答えが、最初凶で、次が吉の場合、あなたはどう判断されますか?慎重に、両方を読み比べ、自分が自覚せずに、しかし本当に知りたかったことは何なのか、考えながら、一番直感的に正しいと思うおみくじを取るのではないですか、仮にそれが、凶のようであっても。

いくつかの神社仏閣でおみくじを引いてわかったのですが、まったく同じ文言なのに、あるおみくじは、大吉、別のところで中吉、または吉だったのです。吉凶より、内容が問題なのです。正月などに、自分が尊崇しているなじみの神社と仏閣で試してみてください、自分と相性のよいところでしてください。同じ日に、全く違う場所なのに、たまにまったく同じおみくじを引くことがあるのです。こういうのは経験してみないとわかりません。

 皆さんはおみくじを引くとき、そこの神様ご本尊様と感応していることを自覚しなければなりません。それがわからない人には、それ相応の大吉なり何なり出されるかもしれないが、大吉がでたらむしろ用心すべきです、なぜならあなたはそれを真面目に受け取ることができないので、すぐそれを捨ててしまうからです。

 仏教にもキリスト教にも占いはあります。えっ、キリスト教?と思われるかもしれませんが、本来のカトリックなりそれ以前のパウロの時代にさかのぼれば、それは「聖霊」のお告げという形で行われたのです。現に、プロテスタントの牧師の方で尊敬できる方ですが、時折瞑目してお祈りしてから聖書をパッとめくって指で文言を指し、その文言から導きを得られるのを目撃しました。

 仏教では、とくに日本では、天台宗の高僧であった元三(がんさん)大師が作られたというおみくじが、たいていのどこの宗派のお寺でも用いられています。五文字四行の漢詩ですが、まったく同じ漢文でも、あるところのおみくじの日本語訳と解説は、別のところでのものと大いに違っています。どう読んだらよいでしょう?訳の言葉どおりに受けてはいけません。漢文というのは含蓄が元々あって、幾通りにも解釈できます。自分の読み方を優先させるのです。自分が、この解説はおかしい、当を得ていない、と思ったなら、自分の勘が正しいのです。

結局、易にせよおみくじにせよ、それをまずまじめに読んで、しかもそれにとらわれない、自己責任を自覚することが肝要です。そうしたとき、初めてその答えのように未来が「成る」のです。未来は、自らが創造していくもので、選択するということが人間にもとから許されています。何を選択するとしても、それは成ります。ただ、自分のエゴが期待するようにはならないでしょう。わたしたちは、単独で生きてはいません。相互の関係性のなかで、過去に自分がした選択と行為の結果のうえに、今いるのです。縁があるということはそういうことです。今ある自分は、過去の自分自身が選び望んだ結果です。生まれて育った環境も身体状況も、すべて自分が選んできています。

慈悲というのは、この厳然たる事実を事実として受け止めること(これをダルマすなわち理法に目覚めるといいます)、そして他の生き物、人を含めて、その苦しみをわが事と受け止めるとき起こるものです。そのとき、自分が何か善いことをする力があるから、それを苦しんでいる人々に与えたいと願うことです。こういうのを回向(えこう)といいます。

 これが、仏教が教える、因果応報、こういうと暗いので、もともとの仏陀の教えは、すべては、原因があって生まれ、縁のなかで育つ、といいます。因縁とは、起きたことはすべて、自分の選んだ道をあるがままに、相互関係のなかで行きぬいて行く命のすがたを言ったものです。仏教やヨーガの聖者のある人たちは、過去世の人生であなたが選んだこと、選んだ行為が今どういう形で結実しているかをあたかも絵巻物をみるように見ます。(実際、過去の自分や他人の姿と生活、起こした事件やその結末、影響まで、次々と示されるようです。今女であっても過去生では男だったということもあるし、その逆もあります。秘密にして隠したこともすべて目の当たりに見るということです。ただ、おそれることはありません。慈悲によってさとされるということに恐怖はありません。又、あなたは過去にこういう悪いことをしたから救われるためにお布施をしないと死ぬとか、ある種の悪人がいて、いろいろなでたらめをいうことがありますが、決して関わらないようにしてください。触らぬ神にたたりなし、という注意が昔からあります。)

「六神通」とかいわれるのは理由があります。仏教が説かれるはるか以前から、インドではヨーガ行が行われてきました。『ヨーガスートラ』というヨーガの聖典に、「行」という概念がでてきますが、それは意識の底に深く沈む過去の選択と行為の力です。これはあたかも植物の種のように、われわれの潜在意識の田んぼのなかに植え込まれています。

わたしたちは何回も生まれ変わり死に変わりして、良くも悪くも相当なことをしてきていますから、今生生まれて、この種が芽を吹いてわれわれの運命を形作ります。(「唯識説」というのを学ぶともっと詳しくわかります)この世の世間でさまざまな縁をえて、その援助の下に、良い種も悪い種も芽を吹き、花を開き、それで人は喜びや苦しみを味わって学びを得ます。今生で悟れなくて種が残ってしまったら、また次の人生で自分がまいた種を刈り取ります。仏教では、これを「業(ごう)」とかカルマと言います。ここから少し話が難しくなりますが、あわてずに繰り返し読んでみてください。

仏陀は最初の説法では、古代インドの哲学の教えやヨーガの伝統にそって、人間存在を「色(いってみれば体)受(感覚)想(想念)行(潜在するカルマ)識(知、いってみれば精神)」という五つの構成要素でできている、と説きました。この「行」は前述したように『ヨーガスートラ』のおかげでインドの行者ならだれでもわかる概念ですが、これを仏陀はさらに深め強調しました。「行」を広く「苦」の原因としての「無明の行為」ととらえられたとき、「業(カルマ)」というふうに言われるのです。業病とか、因業とかいう言葉の「業」はそういう意味です。「無明」が原因で、分離という意識が生じ、自己と他者の区別が生じ、愛と憎しみが生じ、体と感情が生じます。そして、この物質の世界に誕生して「生と死」という「苦」を実現していくのです。根元にある「無明」から段階を追って生と死に至る過程を「十二因縁論」などといいます。

 これらのことは真実であると自覚せよ、そして無明の業の正体を見届けて、業が解きほぐれるように、業を超える行いを選択せよ、というのがもともとの仏陀の教えです。「四諦八正道」というのがそれであって、それを悟ることを「智慧」といいます。智慧とは目覚めた清浄な意識で解脱した心です。その智慧は、わたしたちが何が原因で今の世に生まれ、もしより進んだ世界に行きたい(最近の言い方では、アセンションというのがそれでしょう)のなら何をすべきかを自らが、日々知るように努めることが大事であると強く教えます。智慧とかの高次の意識は古代インドの言葉と文字(サンスクリット)で、「プラジュナ」といわれ、パーリ語で「パンニャ」といわれ、今のミャンマー(以前はビルマといいました)やタイの仏教は、パーリ語の仏典に基づきます。一方、チベット仏教や、中国や日本に伝わった仏教ではこれを「般若(はんにゃ)」といいます。ところで能のお面に般若の面という鬼女の面がありますが、これはぜんぜん違った趣旨でされた名づけ方で、この面を構想した彫り物師の名前なのだそうです。本来「般若」とは「般若心経」の般若つまり空を悟った観音様はじめ諸仏の智慧のことで、それは解脱した智慧のことです。(つづきは、9月20日付け。仏教と占い(易占を含めて)-2。容量オーバーらしいので、9月27日にまわします。)

 


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