昴星塾(ぼうせいじゅく)のブログ

リサ・ロイヤルの「ギャラクティック・ルーツ・カード」に親しむ会。不定期の掲載。

死後について その1

2016年04月24日 | 日記

2016年4月24日 死んだらどうなるのか

皆さんは「終活」について、患者さんとかご家族から聞かれたことありませんか。
最近、またどうして「終活」なんてことに世の中の高齢者の意識が向かうのか、よくわからないところがあります。いくらか、ビジネストークに乗せられて、早くお墓の準備しなくちゃ、こんなお葬式に誰それが来てくれて、こんなセレモニーでこんなお料理で、着付けとお花はこれこれで・・・
うーん、これって馬鹿馬鹿しいと思いませんか。とはいえ、お考えになっている方にとってはとても真剣な話でしょう。お布施がいくらかかるかもしれないから、家族のために予め負担がないようにしておこう、という親心かもしれません。
 そう、それはやはり真剣に問うべき問題ではあります。ですが、その前に、「あなた自身は死んだらどうなると思っていらっしゃるの?」
 それがはっきりしないうちに、終活をかんがえるということは、大体において、「自分は家のお寺か教会のしきたりにはなんの不満もございません、ご先祖様のお墓にはいるだけです」、という方か、「いや、死んだらなにも残らないから、自然葬にして海にでも流して欲しい」、という方か、このいずれかではないでしょうか。まさか、自分のミエを張りたいばっかりに、ということはないと思うのですが。
 
 今回のような大きな災害で急死されたような場合を含めて、死んだらどうなるか、については考えることもおありかと思います。
 残念ながら、私は皆様にご披露できるような確固とした理解をもってはいません。ですが、たぶん、私はこの分野、つまり死生学(タナトロギー)については一応の研究者ではあります。
 結論をここでいうのは荒っぽすぎます。それを重々承知の上で、先に言っておきます。
私が今もっている理解は、死んだら、死ぬ前に確信したようになる世界に行く、というものです。
自由意思の問題なのです。自分以外の外にある原理によって、定まった死後の世界がある、というのは人間の意識がまだ未熟で個我が今のように育っていない古代や中世の時代には、現世の外に来世が独立にあって、この世の行いを審判官が測って、その後の行き先を決める、と固く信じられてきました。
 近代になって、公に唯物論が科学的と考えられてからは、それまでのような死後のありかたは「ない」と、これまた正反対の見解が優勢となり、現在もだいたいは唯物論的といえます。
 ですが、「ない」というのは、この世界には精神的なものなどなくて、感覚的なものと、科学が推定できるもののみである、というこれもひとつの宗教的といえる確信にすぎません。
 しかし、これも「確信」でありますから、そのような意見の方は、そのようになる世界に行かれる、というのが私の見解です。
 ある意味で、死んだら感覚器官が働かないので、なにも見ず聞かず眠るということもなく、ただ消えうせる、ということなのでしょうか。
 しかし、ここだけはどうもそういうことにはならないようです。心が消え失せるということだけはありえないのです。
 それは、エネルギーの法則ともいえるかもしれません。その方は、そういう見解をもつ持たないにかかわらず、生きていたときには、飲食して、論議して、動き回りました。いっぱい心を働かせました。それはその結果を周りに生み出しました。その反射がそのご本人にすべて集まっています。他人を殴ったら、自分のこぶしが痛いです。ロボットに殺人をさせたら、それを企画した、準備した、実行した関係者すべてがその結果の責めを負います。それはほとんど静めることなどできない激しい波動を生み出していて、それが、自分が死んだらもう「ない」ということができないのです。
都合よく、因果を逃れたいと思ったって、そうは問屋がおろしません。
 つまり、死ぬ前に確信していたように死後に残るもの、影響、があるのです。
それは、自分以外のものに肩代わりさせられるものではありません、自分が生み出したものなのです、大切にそれを思うのが誠意というものです。
それを「天国」とよんでもいいし「地獄」とよんでもいいし「煉獄」とよんでもいいのですが、なくなりはしません。 
 こういうことをもっとも文学的に真摯に描いたのがイタリアのダンテという人です。『神曲』というのを耳にされたことはあるでしょう、ただ私はどちらかといえば仏教徒に近いので、神曲の通りだ、とは思いませんが。
 ただ、それではあまりに救いがなさすぎる。地獄に落ちたらおちっきり、とはならないのです。
 そこをいろいろな教えの中には、脅して悪用した過去もあったのですが、今はもうそんなことを言ったら、かえって社会的糾弾を受けるでしょうし、実際のところ、死後の世界は、もし確信的に「救いなどない」とか「なにもない」とか確信しなければ、愛と光と救いでいっぱいなようです。安心してください。○×教徒でなければ、救われない、と信じられたのは、もう過去のことです。
 その救い手はだれなのか、どういう存在たちなのか、については、また別の機会にいたしましょう。